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zoom RSS 左馬頭良経(改訂版)

<<   作成日時 : 2005/07/13 16:03   >>

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源良経(1000-1058)中将源成頼の末子。母天皇御乳母(『尊卑分脈』などで後朱雀天皇御乳母)。実名良経。始め冷泉院皇子為尊親王養子(『権記』長保3年10月9日条)、のち権大納言藤原行成の実子となる(『春記』長暦2年12月14日条)。そのため同時代資料では「藤原良経」と見える。
 童殿上(『権記』寛弘8年6月11日条、および沙々貴神社佐々木系図に「童形時常有帝王傍□生育」)。少納言(『権記』寛仁元年8月9日条)、尾張権守、左馬頭、殿上人、後一条天皇側近(『左経記』長元5年2月19日条・同9年(1036)4月26日条)。正四位下(春記』長暦2年12月14日条)。後朱雀天皇のとき、皇后宮亮(『平行親記』長暦元年2月13日条、『春記』長暦2年11月25日条、同記長久元年4月22日条)を兼ね、皇后禎子内親王の娘斎院娟子内親王の院別当(『平行親記』長暦元年4月13日)になる。左馬頭辞職後、伯耆守に補任(『春記』永承7年5月5日条で「伯耆前司良経」)。
 系図では「章経」あるいは「義経」(『尊卑分脈』『続群書類従』ほか)とし、さらに官職は兵部丞・兵部大夫(『尊卑分脈』宇多源氏流)、兵部大輔・六カ国追捕使(沙々貴神社所蔵佐々木系図)であったとする。しかし兵部丞章経(『小右記』長元4年2月7日条で「内大臣使兵部丞章経」)は、藤原氏真夏流(日野流)家業の子息甲斐守藤原章経であり、良経とは別人である。
 ただし兵部大輔については、史実であったと考えられる。前九年合戦(1051-62)前半、安倍頼時に敗れた源頼義に替わって、藤原良経が陸奥守に補任され(『扶桑略記』『百錬抄』)、そののち兵部大輔(『百錬抄』)に遷任されている。沙々貴神社本で六カ国追捕使・兵部大輔とするのは、史実を正しく伝えていよう。
 また沙々貴神社本によれば、同じく前九年合戦で活躍した出羽守源斉頼(同系図では「宗頼」と誤記)とは兄弟であり、『尊卑分脈』清和源氏満政流でも斉頼・義経を兄弟としている。沙々貴神社本では斉頼の本名を昌頼としており、当時の日記が斉頼を「政頼」(『春記』天喜2年(1054)5月6日条)、あるいは「正頼」(『水左記』康平7年(1064)3月28日条)と記していることに通じる。『朝野群載』諸国公文中(巻二十六)所収の承暦3年(1079)7月3日付出羽国司越勘解文や承暦4年(1080)12月13日付主税寮越勘続文では、斉頼のことを「済頼」と記しているように、すでに承暦年間(1077-1081)には「なりより」と読まれていた。しかし日記で訓読みに当字が用いられていたことで、斉頼の訓読み「まさより」だと確認できる。当時の日記と同様、訓読みを正しく伝えていた沙々貴神社本の資料的価値は高い。『春記』『水左記』の「政頼」「正頼」が源斉頼と気づいたのは、実は沙々貴神社本の「昌頼」に相当する人物を資料で探していたからであり、系図の情報を無駄にしてはいけないことが分かる。
 沙々貴神社本には、ほかにも誤りという形で史実を伝えているものがある。同系図は良経の兄弟を良経・斉頼・成経の順で記し、良経を源二大尉、斉頼を大膳大夫、成経を左馬頭としている。しかし良経の大尉(少尉の誤り)は斉頼の官職であり、斉頼の大膳大夫(大膳進の誤り)は成経の官職であり、左馬頭は良経の官職である。
 寛仁元年(1017)8月10日敦良親王(のち後朱雀天皇)の東宮坊除目で、当時六位大膳進であった成経は東宮殿上人に列した(『左経記』寛仁元年8月10日条)。このことから、長兄成経の官歴のひとつが斉頼の事跡に混入したと分かる。また沙々貴神社本で成経の官職を左馬頭とするが、実際に左馬頭であったのは良経である(『左経記』長元9年4月26日条ほか)。成経は音曲の名手として活躍して上野介に至り、治暦5年(1069)4月1日70歳で没している(『土右記』治暦5年4月29日条「上野前司成経朝臣卒」)。成経は長元9年(1036)5月25日に上野介に在職していたことが確認できる(『左経記』長元9年5月25日条で「上野守成任」)。また『土右記』天喜元年(1053)6月20日条の「治部大輔重経」が成経の可能性もあるが、左馬頭は良経の官職である。
 また斉頼は、長元8年(1035)5月16日の藤原頼通歌合で蔵人所雑色・左兵衛尉と見えるほか、天喜3年(1055)3月18日には蔵人で右兵衛少尉を兼ねており、検非違使宣旨を蒙っている(『中右記』長治元年7月9日条、および『大成抄』)。大尉(少尉の誤り)は斉頼の官職である。
 これら官位の混乱は、兄弟順を誤って伝えたために生じたものであろう。系図では実名を良経・斉頼・成経の順で記しているが、官職は少尉(斉頼)・大膳進(成経)・左馬頭(良経)の順に記している。この実名と官職の不一致から、逆説的にも実際の兄弟順が斉頼・成経・良経の順であったと分かる。そういえば清和源氏満政流では、斉頼の弟に義経を記している。実名と官職の不一致という錯誤はあるものの、実名と官職それぞれについてはきちんと歴史的事実を伝えていたのである。
 さらに良経(義経)が追捕使・兵部大輔であったことも事実のようだ。良経(『百錬抄』では良綱)は、前九年合戦で源頼義が陸奥守を更迭されて再任されるまでのあいだ陸奥守に在職した(『扶桑略記』『百錬抄』)。
 いちど頼義が陸奥守を更迭されたのは、頼義が安倍頼時・貞任父子を挑発して強引に合戦を始めたことに対する批判があったからだ。頼義の後任良経も、批判者のひとりだろう。
 天喜4年(1056)12月29日源頼義が陸奥守に再任されて、良経は兵部大輔に遷任された(『百錬抄』)。当時兵部卿(兵部省長官)は親王補任もしくは参議兼職の官であり、良経は四位であったため兵部卿ではなく兵部大輔(兵部省上席次官)だったのだろう。ただし兵部卿は当時空席であり、良経が実質上の兵部省長官であった。
 翌天喜5年(1057)11月頼義は再び安倍貞任に敗れた。すると、こんどは良経の兄斉頼が蔵人兼検非違使から叙爵され、同年12月25日(『扶桑略記』)、あるいは翌年天喜6年(1158)4月25日(『百錬抄』)出羽守に補任されて現地に下向した。斉頼は頼義に対して非協力的であったが、『水左記』康平7年(1064)3月28日条にあるように、斉頼(前出羽守源正頼)は安倍頼時の弟僧良照(安倍則任)を捕縛している。このことは同年3月29日付太政官符(『朝野群載』巻十一)でも確認できる。この太政官符では「斉頼」としており、正頼と斉頼が同一人物であり、斉頼の訓読みが「まさより」と確認できる。
 これらのことから鎮守府将軍成頼像は、斉頼・良経二人の事跡を誤って父成頼の事績にしたものだと分かる。これは、@系図作者が成頼・経頼の兄弟順を誤り成頼を弟と思い込んだことで、『権記』長保5年(1003)8月7日条の成頼亡去の記事を見落とし、Aさらに斉頼は一般的には「なりより」と読まれるため、父成頼と子斉頼の事跡を混同したものと考えられる。しかしこの錯誤で、かえって斉頼の読みを「まさより」と正しく伝えていた沙々貴神社本の系譜伝承の資料的価値を再確認できた。系譜伝承を解釈するときには錯誤を捨てるのではなく、隠喩として読み込むことが大切である。
 良経の表記について、『百錬抄』で良綱、『扶桑略記』では良経としているが、『左経記』長元5年(1032)2月19日条などで「左馬頭良経朝臣」とあり、『扶桑略記』にあるように「良経」が正しいことが分かる。「綱」と「経」は草書体ではよく混同される。良経の子孫三上氏が、清和源氏義綱(陸奥守)流という系譜伝承(『続群書類従』三上系図)を有していたのも、系譜伝承の混乱で陸奥守良経が「陸奥守良綱」と誤り伝わっていたためだろう。
 良経の母について、『尊卑分脈』では後朱雀天皇御乳母菅野敦頼娘と伝えているが、『左経記』長元5年(1032)2月19日条で「龍顔(後一条天皇)に親く候」とあり、良経が後一条天皇の御乳母子でったことが分かる。ただし良経の兄成経(当時六位大膳進)は、後朱雀天皇の皇太子時代の東宮坊除目で東宮殿上人に列しており(『左経記』寛仁元年8月10日条)、後一条の弟後朱雀とも近い関係にある。しかし敦頼娘は為光流藤原氏備後守保家の妻であり、後朱雀皇后禎子内親王(三条皇女)の御乳母である(『続本朝往生伝』後三条天皇の項)。成経・良経の母を、菅野敦頼娘と即断することはできない。
 ところで兄斉頼の母は、『尊卑分脈』清和源氏満政流で備後守藤原景斉の娘と伝えられている。たしかに藤原景斉の外孫である藤原良頼(隆家の子)と通字の関係にあり、同世代の姻戚と分かる。ただし斉頼の昇進は成経・良経と比べはるかに遅く、天喜2年(1054)に六位蔵人に在職していたことが確認できる(『春記』天喜2年5月6日条)。そして前九年合戦の最中に従五位下に叙爵され出羽守に補任されたのである(『扶桑略記』『百錬抄』)。成経・良経と兄弟であったとしても異母兄弟と考えられる。

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