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zoom RSS 蔵人経方(改訂版)

<<   作成日時 : 2005/07/13 16:02   >>

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平経方(生没年不詳)左馬頭良経の子孫か。兵庫助、従五位下(『尊卑分脈』宇多源氏流)。昇殿、兵庫助、兵部大輔(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。式部大輔(『西讃府志』)。『作者部類』の祐子内親王家紀伊の記事では、経方を散位平経重とする。叙爵後に経重(重経)と改名したのだろう。
 経方は、『帥記』康平8年(1065)7月7日条に後冷泉天皇(後一条皇子・後朱雀兄)の蔵人として登場する。記事の内容は、蔵人経方が記主である源経信に消息(手紙)を送ったというものである。記主経信は宇多源氏六条左大臣重信の孫であり、権大納言で大宰権帥を兼任して任地で没したため、その日記を『帥記』という。このとき経信は蔵人頭に補任されたばかりであり、この記事で、経方が同族であり蔵人頭であった源経信と交流していたことが分かる。沙々貴神社所蔵佐々木系図に昇殿の記事があることは、経方が蔵人であったことを隠喩していよう。
 ところで経方の子息為俊がはじめ平氏を名乗ったように、父経方も平氏を名乗っていた。『康平記』康平3年(1060)7月17日条に蔵人所雑色平経方、同月19日条に諸大夫平経方が登場するが、蔵人所雑色は蔵人所の下級職員であり、事務系の公家である名家の者が任じ、そこで蔵人の見習いをしてから六位蔵人に昇進した。『康平記』の蔵人所雑色平経方と『帥記』の蔵人経方は同一人物と考えられる。
 実は同世代の人物に、もうひとり平経方がいる。『尊卑分脈』『西洞院家譜』によれば、桓武平氏高棟流(堂上平氏)伊予守平範国の長男が民部大輔平経方であり、次男が春宮亮平経章である。『春記』永承3年(1043)3月20日条に「伊予守範国、又其子蔵人左衛門尉経章」とあり、経章が平範国の子息であることは資料で確認できる。しかし、経方が記録で確認できるのは、『水左記』康平8年(1065)正月23日条に範国の子息経方が蔵人所雑色に補任されたという記事である。経章は経方が蔵人所雑色に補任される22年前にすでに蔵人であり、長幼の順が経章・経方の順であったことが分かる。兄経章はこののち承保4年(1077)8月29日に没した(『水左記』承保4年8月29日条に「今日春宮亮経章卒去」とある)。
 さらに範国の子息経方が康平8年(1065)に蔵人所雑色に補任されているのに対して、蔵人経方はその5年前の康平3年(1060)には蔵人所雑色であった。2人の平経方がいたことになる。蔵人経方が宇多源氏流経方である。
 こののちの蔵人経方の行動は、同時代資料では確認できない。しかし経方の娘である祐子内親王家紀伊を、『作者部類』で散位平経重の娘とすることに注目するならば、経方は叙爵後に経重と改名したと考えられる。そうであれば、『水左記』承暦元年(1077)12月23日条に登場する「大和守重経」(『平安遺文』1156号で「大介平」)が叙爵後の経方であろう。さらに『中右記』元永2年(1119)9月27日条に「経重、光行、行高懸一皷参入」とある経重は、経方の晩年の姿だろう。しかも経方が音曲の名手であったことが分かる。ただし沙々貴神社所蔵佐々木系図では、経方の妹を歌人とする。年代的にも紀伊は経方の妹か妻と考えられる。
 経方が経重(重経)に改名していたとしても、それでもの経方の記事は少ない。しかし、その理由は『尊卑分脈』で分かる。『尊卑分脈』宇多源氏流によれば、経方は近江佐々木荘下司初代である。佐々木庄は白河院との関係が深く、佐々木庄の一部の領家だった前斎院悰子内親王(堀河院第一皇女)が、天承元年(1131)に祖父白河院の冥福を祈るため伊勢神宮に寄進して伊勢御厨にしている。佐々木御厨(下豊浦)にある新宮神社の摂社大神宮では、3月5日の祭礼で白河院の歌を唱える慣例がある。また永治2年(1142)当時の佐々木庄領家は白河院の養子左大臣源有仁であった(『源行真申詞記』)。経方は近江佐々木庄を白河院に寄進して立荘(不輸荘領)し、自らは現地管理者である下司になり、同庄に留住していたのである。

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