佐々木哲学校

アクセスカウンタ

zoom RSS 奈良時代の佐々貴山公

<<   作成日時 : 2005/07/12 02:13   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

飛鳥時代のササキ山君の動向は今日伝わっていない。飛鳥時代は近江・越前を勢力基盤にした継体に始まる。その継体の皇女には、佐々宜郎女(古事記)/荳角皇女(日本書紀)とササキを名乗る皇族がいる。また継体の擁立を画策した大連大伴金村を支援した大臣巨勢男人は、本姓雀部(ササキベ)臣ともいわれている。それでも飛鳥時代のササキ山君の動向は不明である。
 しかし奈良時代以降、佐々貴山公は近江国蒲生・神崎両郡の大領(郡司の長官)に補任されて近江国中郡で大きな勢力を保持した。とくに天平16年(744)4月13日聖武天皇の紫香楽宮(近江国甲賀郡)の大火を防いだ蒲生郡大領正八位上佐々貴山公足人は従五位下に叙され、食封50戸などを給付されている。同じく神崎郡大領正八位下佐々貴山公親人も正六位上に叙されている(『続日本紀』)。
 五位以上の者の子孫には、蔭位の制といって祖父・父の位階に応じた位階が保証されていた。さらに律令制度では、官位相当の制といって、位階と官職が相当するという制度があった。そのため、蔭位の制によって高位を得ていた人々によって要職は独占された。このように五位に至るかどうかで待遇が大いに異なり、従五位下に叙されることはとくに叙爵といわれて、貴族の仲間入りを意味していた。佐々貴山公足人が従五位下に叙されたことの意義は大きい。
 さらに天平時代には、孝謙天皇の女官佐々貴山内侍(『万葉集』)もいて、一族の娘が後宮上級職員である内侍を勤めるほど、佐々貴山公が勢力をもっていたことが分かる。ワカタケル(雄略)ら倭の五王時代以来の佐々貴山公の第二の黄金時代といえる。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

恋愛哲学

奈良時代の佐々貴山公 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる