佐々木哲学校

アクセスカウンタ

zoom RSS 平安前期の佐々貴山公

<<   作成日時 : 2005/07/12 02:12   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

佐々貴山公は平安時代になっても勢力があった。延暦4年(785)正月地方政治の功績を賞されて、蒲生郡大領外従六位上佐々貴山公由気比が、丹波国天田郡大領外従六位下丹波直広麿、豊後国海部郡大領外正六位上海部公常山らとともに外従五位下に叙された(『続日本紀』)。外位は地方官の者が叙される位階で、京官が叙される位階よりも下位である。外官では五位が最高位であった。このことから、由気比が有力地方豪族の地位を確保していたことが分かる。由気比の名は、宮中を守る武官である衛門府の唐名靭負(ゆげひ)の当て字と考えられ、佐々貴山公が軍事貴族であった可能性が高い。近江は東海道・東山道・北陸道の結節点であり、京都の防衛上重要な位置にあった。実際に平将門の乱のあった平安中期には近江追捕使が設置され、佐々貴山氏や大友氏が補任されている。
 延暦6年(787)4月には、蒲生采女従七位下佐々貴山公賀比が外従五位下に叙されている。采女は朝廷の後宮職で、郡の少領(次官)以上の者の姉妹や娘で容姿端麗な者を採用した(『続日本紀』)。彼女は前述由気比の近親の女性であろう。
 嘉祥3年(850)4月1日には、正六位上佐々貴山公仲継が外従五位下に叙されている(『日本文徳天皇実録』)。やはり京官は獲得していないものの、有力地方豪族の地位を確実に維持していたことが確認できる。
 貞観2年(860)11月26日の女叙位では無位佐々貴山公宮子が、従七位下葛井連継刀自、春日部真鳥、大春日朝臣氏子らとともに外従五位下に叙された(『日本三代実録』)。佐々貴山公宮子が有力地方豪族の女性として、後宮で一定の地位を獲得していたことでも、実家佐々貴山公の勢力が大きかったことが分かる。
 元慶元年(877)12月2日に蒲生郡大領正六位上佐々貴山公是野が、米穀を朝廷に献納したことで外従五位下に叙された(『日本三代実録』)。佐々貴山公が経済的にも富裕であったことは明らかである。
 さらに承平2年(932)正月21日付の田券(東寺百合文書)で、蒲生郡司佐々貴岑雄、擬大領大友馬飼、京戸佐々貴豊庭、京戸清滝直道らが、嵯峨源氏流大納言源昇(左大臣源融の子息)に田地を売却したことを知ることができる。これは売却という形をとっていたが、実は荘園として寄進したものである。郡老従七位上佐々貴山公房雄ら佐々貴山公一族が、蒲生郡の開発を積極的に進めて開発領主になり、中央権門に売却という形で寄進したのである。もちろん現地管理権はそのまま佐々貴山公が有していたと考えられる。このようにすることで、権益を中央権門に守ってもらったのである。このことでも佐々貴山公一族が富裕であったことが確認できる。
 また、同じく在地有力者であった大友氏や清滝氏とも友好関係にあったことが分かる。大友氏は滋賀郡大友郷を根拠とした渡来人の名門大友漢人の子孫であり、その一族大友黒主は大友皇子(天智天皇皇子)の子孫とも伝えられている。大友氏が、大友皇子を養育したことは間違いあるまい。また清滝氏は大宝律令の制定者のひとり刑部親王(天武天皇皇子)の子孫である。どちらも名門である。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

恋愛哲学

平安前期の佐々貴山公 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる