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zoom RSS 平安中期の佐々貴山公

<<   作成日時 : 2005/07/12 02:10   >>

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平将門と藤原純友が起こした承平・天慶の乱(935−941)の頃に、佐々貴山公興恒が近江追捕使に補任されていたことが、天暦10年(956)6月13日付け太政官符(『朝野群載』)によって確認できる。近江は東海道・東山道・北陸道の三道が集合する要害であったため追捕使が設置されたが、それに佐々貴山公興恒が補任されたのである。その後任は大友兼平であった。兼平は、前述の蒲生郡擬大領大友馬飼の子孫だろう。天暦10年(956)の太政官符は彼らの後任人事に関するものであり、興恒の追捕使在任期間は承平・天慶の乱(935−941)の頃だろうと推定できる。このことで蒲生郡に本拠をもつ佐々貴山公氏と大友氏が早い時期から武士化し、その力が朝廷から期待されていたことが分かる。大友氏が武士化していたことは、馬飼という実名からも分かる。
 秀郷流藤原修行は近江掾に補任されて近江に居住して近藤氏を名乗ったが、その子孫が武家の名門豊後大友氏である。この近江の大友漢人と関係があるように思えてならない。
 天慶3年(940)に平将門が戦死し、さらに翌年/天慶4年(941)に藤原純友が戦死したが、その天慶4年(941)に佐々貴晴樹は、全国の牧を支配する馬寮の四等官である左馬少属に在職していた(『本朝世紀』天慶4年11月10日条)。佐々貴晴樹が信濃国望月牧と新治牧の貢馬を30疋牽進したのである。武士化していた佐々貴山公の軍事力が認められ、官馬を飼育する牧の管理を担当していたのである。
 さらに佐々貴雅恒が、長保2年(1000)以前に加賀介(加賀国司の次官)に補任されて受領になっていた。『権記』長保2年7月21日条に「故前加賀助佐々貴雅恒後家尼愁文」という記述から知ることができる。実務官僚を勤めた功績/あるいはその富によって、晩年に五位の国司に補任されたと考えられる。
 この雅恒の一族であろう、佐々貴吉成が『小右記』治安元年(1021)8月22日条で勧学院案主と見えている。勧学院は藤原氏の大学別曹であり、佐々貴吉成がそこの事務職を勤めていたのである。佐々貴氏が事務官僚として、藤原氏と密接な関係にあったことが分かる。
 また同時期の佐々貴為春が寛仁4年(1020)皇后宮御給により伊勢大掾に補任され、治安3年(1023)改任となった(『魚魯愚抄』)。大掾は国司の上級三等官で、多くの場合は正六位上で補任されており、為春も退任直後に従五位下に叙爵されたと考えられる。
 これらのことから摂関期の佐々貴氏が、三等官・四等官を歴任した実務官僚で、晩年に五位に至る侍階層であったことが確認できる。さらに藤原氏との関係も伺える。彼らが自ら開発した佐々木庄を、摂関家藤原氏やその閨閥宇多源氏に寄進しされたのであろう。

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