治部少輔政光

京極政光(1449-1472)持清の次男。四郎、治部少輔。はじめ幕府評定衆を勤めた黒田備前家(佐々木京極流)の黒田清高(備前守)の養子。黒田氏は、京極氏信の三男佐渡守佐々木満信の子孫で、満信の長男が佐渡判官宗氏(導誉の実父)であり、次男が黒田氏の祖四郎左衛門尉宗満である。黒田氏の嫡流は備前守を世襲官途とし、京極氏から自立して幕府奉公衆(将軍直臣)になり、幕府評定衆を勤める名門であった。ところが文明3年(1471)京極氏家督であった兄勝秀の嫡子孫童子丸が没したことから、政光は京極氏に帰家した。
 文明3年(1471)孫童子丸が没すると、その後見をしていた弟政経が幕府によって京極氏家督とされた。政光は異議を唱えて京極氏に復帰し、父持清が愛した末弟高清とともに西幕府に走り、西幕府によって近江北郡守護(軍事指揮権)を与えられた。また京極氏被官のあいだでも、多賀高忠(豊後守)に対する不満が爆発して、多賀清直(出雲守)が政光とともに西軍に走った。持清の生前には磐石に見えた京極氏も、こうして分裂していった。それに対して六角高頼は六角氏の一本化に成功した。
 こののちの近江の戦局を概観すると、南近江は六角高頼が制圧し、北近江も京極政光・高清が優勢で、政経は北近江を維持できなかった。こうして京都の隣国近江は西軍一色になった。しかし政光は文明4年(1472)没した。遍照寺殿大用道器(沙々貴神社所蔵佐々木系図)。
 こののちも京極氏では、高清と政経の間で激しい抗争が繰り広げられた。そして北近江も戦国時代に突入していく。

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