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zoom RSS 中務少輔高清

<<   作成日時 : 2005/06/05 12:54   >>

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京極高清(1460-1538)持清末子。あるいは勝秀の子。幼名乙童子丸。六郎。始め秀綱。中務少輔。父持清の没後、京極氏の家督をめぐり兄政経と抗争。文明2年(1470)以降、六角高頼の支援を得た高清が近江北郡を支配し、文明13年(1481)政経と講和した。近江南郡は六角高頼、近江北郡は高清が抑えて、政経は分国出雲に没落した。
 しかし幕府は、隣国近江が反幕府的な旧西軍勢力に支配されていることを喜ばず、文明17年(1485)政経の子経秀(治部少輔)を侍所頭人に補任し、さらに多賀高忠を所司代に再任して、政経・経秀父子による近江奪還を期待した。将軍足利義尚・義稙2代にわたる六角氏征伐(長享・延徳の乱)でも、幕府は政経を近江守護に復帰させている。ところが政経が国人衆による寺社本所領横領を停止できなかったばかりか、幕府奉公衆と対立したため幕府の不信を買い、明応元年(1492)幕府は高清を京極氏家督にし、高清に政経父子の治罰を命じた。高清と政経で攻守入れ替わり、こんどは高清が六角氏と対立した。ところが足利義稙が細川政元のクーデタで没落して、足利義澄が将軍に就任すると、義澄の計らいで六角高頼は近江守護に復職し、政経も近江に復帰した。
 明応2年(1493)高清は舅・美濃守護代斎藤妙純(利国)の援助を受けて北近江に進出し、政経父子を破った。さらに明応4年(1495)美濃守護土岐成頼・政房父子の対立に、守護代斎藤妙純と石丸利光の指導権争いがからんで、美濃で船田合戦が起こると、高清は舅妙純を支持し、六角高頼は石丸利光を支持して対立した。妙純派が勝利すると、妙純と高清は余勢をかって近江に進軍し、緒戦で勝利して政経父子を破った。しかし六角氏重臣蒲生秀紀による反撃、比叡山による六角氏の支持、土一揆の蜂起があり、最後は斎藤妙純父子は土一揆に包囲されて自害した。これで斎藤氏の没落は決定的になり、高清も近江海津に流寓した(『江濃記』)。
 その後も高清と材宗(もと経秀)の対立は続き、永正2年(1505)材宗と箕浦日光寺で和睦したが、永正4年(1507)高清は材宗父子を自殺させた。
 しかし京極氏の内紛は終わらなかった。こんどは高清が次男高慶を愛したため、長男高広(六郎)と次男高慶(五郎・中務少輔)が京極氏の家督をめぐり対立した。大永3年(1523)高清・高慶父子を擁する上坂信光と、高広を擁する浅見貞則ら国人一揆が対立し、高清・高慶父子は尾張に没落した。斎藤妙純の娘婿には高清のほかに尾張織田寛広(岩倉流)と越前朝倉貞景がおり、このとき高清父子は相婿である岩倉織田氏を頼ったのだ。
 しかし高広を自城尾上城に迎えた浅見貞則が、城普請の人足を求めるなど専横が目立つようになると、大永5年(1525)浅井亮政が三田村・今井・堀ら国人一揆を糾合し、北近江を制した。これに対して六角氏が浅井氏を牽制するため出兵し、浅井氏を越前に走らせた。この危機によって北近江の国人はかえって団結し、浅井亮政は逃亡と復帰を繰り返しながら力を蓄えていった。高広は次第に力を増す亮政を憎むようなり、高清・高広父子は和解、六角氏の支援を得て浅井亮政と対立した。
 京極氏の内部抗争が続いたため、出雲では守護代尼子氏、飛騨では三木氏が台頭し、さらに北近江では浅井亮政が台頭している。
 天文3年(1534)8月20日高清・高広父子は浅井亮政と和睦し、亮政は室町将軍の臣下への御成りの儀式に準じて、小谷城に高清父子を招く饗宴を催し(『続群書類従』23輯下所収「天文三年浅井備前守宿所饗応記」)、北近江の主になったことを宣言した。以後、高清父子は小谷城内の京極丸に居住し、天文7年(1537)に没した。環山寺殿海叟宗意(京極家譜)。

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