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zoom RSS 治部少輔材宗

<<   作成日時 : 2005/06/04 12:31   >>

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京極材宗(?-1507)政経の長男。吉童子丸。本名経秀。沙々貴神社所蔵佐々木系図・京極家譜では「高秀」。治部少輔。侍所頭人。文明5年(1473)幕府は父政経を近江守護にしたが、政経は北近江を維持できず、文明13年(1481)高清と講和し、分国出雲に没落した。しかし幕府は、近江が旧西軍勢力に支配されていることを嫌い、文明17年(1485)材宗(経秀、治部少輔)を侍所頭人に補任し、多賀高忠を再び所司代にして、政経・経秀父子による近江奪還を期待した。さらに六角氏征伐(長享・延徳の乱)で、父政経が近江守護に復帰した。
 しかし父政経は国人衆による寺社本所領横領を停止できず、さらに幕府奉公衆徒と対立したため幕府の不信を買い、明応元年(1492)幕府は高清を京極氏家督にし、政経父子の治罰を命じた。そのため、こんどは政経・材宗父子が六角氏に接近し、材宗は六角高頼の娘婿となった(沙々貴神社所蔵佐々木系図)。そして足利義稙が細川政元のクーデタで没落すると、六角高頼とともに政経・材宗父子も近江に復帰することができた。
 明応4年(1495)美濃守護土岐氏の内部抗争である船田合戦で勝利した斎藤利国・京極高清が、余勢をかって近江に進軍し、父政経は緒戦で敗北して出雲に没落した。しかし斎藤利国が六角高頼に敗れ、さらに土一揆に包囲されて没すると、高清も近江海津に流寓した(『江濃記』)。
 こののちも材宗と高清と抗争は続き、永正2年(1505)材宗と箕浦日光寺で和睦した。しかし高清はおさまらず、永正4年(1507)材宗父子を自殺に追い込んだ。永正5年(1508)10月父政経が出雲で没するが、このとき材宗のもうひとりの子息吉童子丸に飛騨・出雲・隠岐守護職を譲った(佐々木文書)。吉童子丸は、こののち京極高清の養子になり、五郎高慶と名乗った。

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コメント(2件)

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文亀3年(1503)・永正1年(1504)に京極氏の京都の館で将軍足利義澄を猿楽見物に招いた京極氏は誰でしょうか。また、大永2年(1522)6月27日将軍足利義晴が京極邸で祇園祭七日鉾山等と十四日山々を見物したとありますがこの時の当主は誰だったのでしょうか。
堀尾岳行
2009/04/24 23:07
いずれも京極高清のことと思われますが、資料を丁寧に読まないと判断できません。

実は京極氏研究を再開させたのですが、現在『東大入試で遊ぶ教養』増補版2版の準備および論文「聖絵後援者一人と縁起絵作者平宗俊」(時衆文化研究20号)の校正で、京極氏研究を中断していますので、結論はもうしばらくお待ちください。
佐々木哲
2009/05/06 11:29

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