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zoom RSS 六郎高広

<<   作成日時 : 2005/06/03 00:00   >>

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京極高広(生没年未詳)高清の長男。母は美濃斎藤利国の娘。六郎。本名高延、高明。父高清が次男高慶を愛したため、高広は弟高慶(五郎・中務少輔・長門守)と京極氏の家督をめぐり対立し、大永3年(1523)宿老上坂信光が高清・高慶父子を擁すると、上坂信光の専横を嫌っていた浅井・三田村・今井・堀ら国人衆は高広を擁立した。この家督争いを契機に国人衆の上坂信光に対する不満が爆発し、国人衆は浅見貞則を盟主に立て国人一揆を起こし、支えきれなかった高清・高慶父子は尾張に没落している。
 しかし、こんどは高広を自城尾上城に迎えた浅見貞則が、城普請の人足を求めるなど専横が目立ったため、大永5年(1525)浅井亮政が三田村・今井・堀ら国人一揆を糾合して、北近江を制した。さらに浅井亮政が六角氏の背後を撹乱して、六角氏による足利義晴入洛運動を妨害したため、六角隆頼(のち義久)が浅井氏追討軍を起こした。浅井亮政は支えきれず越前に逃亡している(『朝倉始末記』)。しかし浅井亮政は、六角氏による江北進出という危機によってかえって北近江の国人を糾合するのに成功し、逃亡と復帰を繰り返しながら力を蓄えていった。高広は次第に力を増す亮政を憎むようなり、高清・高広父子は和解、六角氏の支援を得て浅井亮政と対立した。
 しかし天文3年(1534)8月20日高清・高広父子は浅井亮政と和睦した。亮政は室町将軍の臣下への御成りの儀式に準じて、小谷城に高清父子を招く饗宴を催し、北近江の主になったことを宣言した(『続群書類従』23輯下所収「天文三年浅井備前守宿所饗応記」)。以後、高清父子は小谷城内の京極丸に居住んだ。しかし勝手に浅井氏と和睦した高広を見限った六角氏は、翌天文4年(1535)高慶を支援して北近江に侵攻している。天文10年(1541)高広は再び浅井氏に抗し、翌天文11年(1542)亮政が没して、亮政の婿養子明政と実子久政が対立すると、高広は再び自立を目指して明政を支持した。これに対して久政は六角氏の支援を得て、天文15年(1546)明政派を圧倒した。そのため高広は久政と和睦しているた。天文21年(1552)六角氏の重鎮六角定頼が没すると、高広は久政を誘い六角氏に対抗するが、翌天文22年(1553)大敗して没落して、その消息を断った。法号源光院殿利角(『京極家譜』)。
 子息には長男高広(長松軒)、次男高成(治部少輔・香集)、三男玉英(栖雲寺)の3子があった(沙々貴神社所蔵佐々木系図)。長男高広は六角氏に抗し続け、足利義輝を京都に帰還させようとしていた六角氏の背後を撹乱したため、そのことを高慶(高佳)から批判されている。その後の動向は不明だが、元亀4年(1573)京都を追放された足利義昭に従った京極晴広と同一人物と考えられる。次男高成は幕府御供衆となり、足利義晴・義輝・義昭に仕えた。三男玉英は若狭武田義統の養子になり、若狭栖雲寺に住している。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
ネットで京極氏のことを調べていて たどりつきました。
高廣 が 六月二十六日付け で 下坂左馬介にだして いる文書で 美濃への派兵について ふれていますが、いつごろのものでしょう。
また 天文19年11月 高廣は美濃から近江に進出し六角方をかく乱したようですが(厳助往年記)、美濃側で高廣を保護していたのは どういった勢力だったとお考えでしょうか?
tsutty
2006/01/27 17:36
京極高広の「高広」の名乗りから、「高延」「高明」と名乗っていた大永・享禄頃のものではないと分かります。天文年間のものでしょう。さらに下坂左馬助の活動時期を見ると、天文十三年(1544)に高広から長沢城(近江坂田郡)攻撃を賞されているほか、京極高広が浅井久政と結んで六角氏と抗した天文二十一年(1552)頃にも活躍しているので、その頃と考えられます。
 下坂左馬助の活動時期と美濃情勢を考え合わせると、天文十三年に土岐二郎を支持した越前朝倉・尾張織田が美濃に侵攻したとき、天文十九年高広が美濃より江南に侵攻したとき(『厳助往年記』)、あるいは天文二十一年六角氏が土岐頼芸を支援して美濃に侵攻したときなどが考えられます。
 ところで天文十九年(1550)に高広が美濃から出兵していることについてですが、京極氏の居城太平寺城は伊吹山麓で江濃国境に近く、また高広の母が斎藤妙純の娘であり、美濃との関係は深いものです。高広が美濃に侵攻したのも、支持勢力を支援するためと考えられます。
 父高清も美濃海津に流寓したり、同じく妙純の娘婿であった尾張織田氏の許に逃れたりしているほどです。
佐々木哲
2006/01/31 21:01

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