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zoom RSS 後三条着袴と左馬頭良経

<<   作成日時 : 2005/06/26 17:41   >>

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『春記』長暦2年(1038)11月25日条に後朱雀天皇の第二親王(のち後三条天皇)着袴の儀の様子が記されている。寅刻に諸卿が皇后宮(三条皇女禎子内親王)に参り、寅三刻には関白藤原頼通の牛車で二宮を奉り参内した。このとき藤原頼通と皇后禎子内親王の関係が良好であったことが分かる。乳母は牛車に同乗し、牛車が朔平門に留められると、皇后宮亮を兼任していた左馬頭良経が二宮を抱え、藤原資房(『春記』記主、小野宮流藤原氏)が御劔を奉じて、麗風殿に向った。帰途もやはり良経が二宮を抱え、資房が御劔を奉じている。
 また良経は皇后宮御給で正四位下に叙されており(『春記』長暦2年12月14日条)、皇后禎子内親王の近臣であったことが分かる。禎子内親王の乳母子であった可能性もある。良経は、『春記』長暦2年(1038)12月14日条に「有運之時、不依人事歟」と記されているように、後一条・後朱雀・後朱雀皇后禎子内親王・後三条の乳母子・乳父として天皇家に近侍していたのである。ただし恩給による上階(叙三位)は難しく、代わりに一世源氏の待遇で正四位下に叙された。正四位下は一世源氏が叙されるもので、当時は特別な賞、臨時の恩、蔵人頭の場合も叙されていた(『小右記』長元4年正月5日条)。良経の正四位下への叙位は一世源氏に準ずる待遇であり、良経が一世源氏のように天皇にとって身近な家族と思われていたことを示しているとも考えられる。以後、良経は公卿としての昇進は見られない。一世源氏の待遇に満足したのかもしれない。
 こののちも良経は皇后宮亮として禎子内親王に仕え、また斎院別当としてその娘斎院娟子内親王に仕えた。資房が斎院宛ての扇一枚・女房料二十枚・童女料四枚を小舎人を良経に遣わして献上している(『春記』長久元年4月22日条)。
 長久元年(1039)12月16日それまで退出していた皇后宮が入内し、17日に後朱雀天皇と対面した(『春記』長久元年)。このときの行幸では、侍従藤原能長(皇后宮大夫能信の子息)が二宮を抱き、良経が御劔を取り前を進んでいる(『春記』長久元年12月16日)。この記事の中で、良経が右馬頭と記されているが、左馬頭の誤りであろう。

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