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zoom RSS 長門守高慶

<<   作成日時 : 2005/06/02 18:07   >>

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京極高慶(1504-1581)高清の次男。実父京極材宗(経秀、『京極家譜』では高秀)、実母六角高頼娘。吉童子丸。高佳、高吉と名乗る。中務少輔、長門守。永正5年(1508)祖父政経から飛騨・出雲・隠岐守護を相続した。高清に養われて、始め大原五郎と名乗りました。しかし養父高清から愛されて、大永3年(1523)養父高清・上坂信光に推されて、高清の実子高広(高延・高明)と争った、上坂氏に不満を持つ浅井・三田村・今井・堀など国人衆は浅見貞則を盟主にして高広を擁立し、高清・高慶・上坂信光を婿尾張織田寛広のもとに走らせた。高清と織田寛広はともに美濃斎藤利国(妙純)の娘婿であり、相婿の関係にあった。
 高清・高慶・上坂氏を追放したのち、今度は浅見貞則が高広を奉じて専横を尽くしたため、国人衆は浅井亮政を盟主にして浅見氏を追放した。
 京極高広を擁立して北近江の支配権を固めた浅井亮政は、六角氏の背後を撹乱して、足利義晴を擁して京都進出をしようとする六角氏の行動を阻んだ。そのため大永5年(1525)六角隆頼(のちの義久)が、浅井亮政討伐のため北近江に出兵した(青木社中宛六角隆頼願状、および『朝倉始末記』)。亮政は越前朝倉氏を頼り出奔した。この危機によって北近江は浅井亮政のもとに団結し、浅井氏は上坂・浅見両氏と同じ轍を踏むことはなかった。敗走と復帰を繰り返すうちに力をつけた亮政を、やがて高広は憎むようになり、六角氏の支援を得て亮政に対抗した。しかし天文3年(1534)高広は浅井亮政と和睦した。勝手に浅井氏と和睦した高広を見限った六角氏は、天文4年(1535)高慶を推して北近江に侵攻した。以後高慶は六角氏の一族衆として、「五郎殿」と呼ばれた。この五郎殿を朽木氏とするのは誤りである。
 天文・弘治年間の六角氏は将軍足利義晴・義輝父子を擁立して三好長慶と対峙していたが、高広は六角氏の背後を撹乱したことで、六角氏は思うように軍事行動をとれなかった。そのため、高慶(高佳)は高広の行動を非難した。ただし高慶によって批判された高広は、六郎高広の子息長松軒(のちの大膳大夫京極晴広)である可能性もある。
 このように戦国期の北近江は抗争に明け暮れ、しかも京極氏歴代が改名を繰り返しているため、系図が混乱している。沙々貴神社所蔵佐々木系図・寛政重修諸家譜・続群書類従では、高清・高峯・高秀・高吉と続いたと記しているが、これは高広(高峯)と高慶(高吉)の間で家督をめぐる抗争があり、その結果高広系から高慶系に家督が移ったことを象徴させたものと考えられる。つまり家督継承順で記したものと考えられる。また高慶(高吉)の父の実名を「高秀」と記すのは、高慶の実父が経秀(材宗)であることも隠喩している。
 永禄11年(1568)江州殿(六角義秀)と織田信長が擁立した足利義昭の上洛に供奉した。しかし元亀争乱が勃発した元亀元年(1570)に隠居し、天正9年(1581)没した。禅林寺殿心寂道安。室浅井久政娘(『京極家譜』)。

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コメント(2件)

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尼子氏関係の書籍を読むと、たいがい「京極政経が吉童子丸に家督を譲り、尼子経久に後見を頼んだ」「その後の吉童子丸の行方は知れず…」とありまましたので、吉童子丸=高慶とは思ってもみませんでした。それで疑問ですが、高慶は出雲に政経とともにいたのでしょうか?それとも父・材宗とともに近江にいて、その後高清に引き取られたのでしょうか?後者のほうが自然な気がしますが、そうすると政経の譲り状はほとんど無意味なものですよね…。
佐々木斉久
2005/08/21 14:53
譲状が発給されたとき吉童子がどこにいたのか確証はありません。どちらにしても政経の譲状は形式的なもので、意味はなかったと思います。自分が京極氏家督だという意地が譲状を発給させたのでしょう。
佐々木哲
2005/08/21 15:16

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