佐々木哲学校

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zoom RSS 近江守秀綱

<<   作成日時 : 2005/06/15 23:48   >>

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生年不詳〜1353年没。高氏の長男。源三左衛門尉、佐渡大夫判官、近江守。侍所頭人。上総守護。母は不詳。『尊卑分脈』で次弟秀宗の母を二階堂時綱女と記しているが、秀綱の母は記されていない。秀宗の外祖父二階堂時綱(三河守)は政所執事・評定衆・引付頭人を歴任した官僚系の有力御家人であり、鎌倉幕府でも室町幕府でも登用され続けた。しかも秀宗は京極氏の仮名四郎を名乗り、資料でも佐々木佐渡四郎左衛門尉と記されている。代々の嫡子の仮名は家ごとに決まっており、京極家の嫡子の仮名四郎を名乗る秀宗は嫡子だろう。導誉が時綱娘を迎えたとき、秀綱の母はすでに没していたのだろうか。しかし秀綱の仮名源三は、佐々木氏の中興の祖源三秀義(宮内卿源有賢の三男資長)の仮名であり、諱字「秀」も秀義に由来する。家名を興すよう期待された仮名といえる。実際に秀綱の行動は嫡子としての行動であり、導誉の活動を支えるとともに、京極氏を侍所頭人に補任される四職(※山名・一色・赤松・京極の四家に、土岐氏を入れて五職とすべきか)のひとつにした。
 建武元年(1334)9月27日賀茂社行幸供奉足利尊氏隋兵交名に「佐々木源三左衛門尉秀綱」と見え、すでに建武の新政のときには尊氏に属するひとりの武将に育っていた。建武4年(1337)正月南朝軍が近江国信楽に進撃してきたときには、秀綱(佐々木佐渡三郎)は伊賀路大将となっている。越前国田中荘を給付されたのは、このときの勲功によるだろう。
 暦応3年(1340)3月末に秀綱は「佐々木新判官秀綱」(『師守記』)と見える。「新判官」とあることから、検非違使に補任されたばかりだと分かる。京極氏で検非違使に補任されるのは家督のみであり、秀綱はまちがいなく京極氏の嫡子である。
 しかし、この年の10月酒に酔った秀綱の家臣が妙法院の紅葉を手折ったことから始まった妙法院焼討ち事件で、導誉・秀綱父子の配流が決まった。妙法院は山門系の門跡寺院で、当時の院主は、光厳院・光明院の実弟で天台座主である亮性法親王であった。導誉・秀綱父子の行動は天皇家・寺社を恐れないものであり、とくに皇統が分立していた当時、北朝との連携はとても重要であったことから、導誉・秀綱父子の配流は決した。
 しかし配流とはいっても形だけの配流で、鎌倉初期に定綱父子が配流されたときと様相は異なっていた。導誉・秀綱一行は宿場ごとで酒宴を開き、まるで遊覧のようであった。しかも、比叡山にとっては神獣である猿の毛皮を腰巻にしていた。反省しているどころか、当て付けている。さらに一行は近江国分寺から先は行方不明になってしまった。本国近江で身を隠してしまったのである。結果は、配流ではなく、自国内での謹慎である。酒宴を催していたぐらいだから、謹慎にもなっていない。一時的に政治の中心から離れただけである。この事件は、導誉の婆裟羅ぶりを見せつけてくれる。また定綱以降の佐々木氏と比叡山の対立も背景にしていただろう。導誉・秀綱父子は、配流が形だけであることを、ことさら比叡山に見せつけたといえる。
 康永3年(1344)3月五番制引付方の結番交名で二番に導誉、四番に秀綱(佐渡大夫判官)が列している。一所懸命という言葉でも分かるように、武士にとっては所領が最も関心のあることだが、その所領関係の訴訟を管轄する幕府の重要な役職に、秀綱は補任されたのである。
 康永4年(1345)8月25日の除目では従五位上に叙位された。京極氏では初めてである。六角氏では泰綱以来、検非違使補任の直後に行幸賞で従五位上に叙位される慣例となっていたが、佐々木氏惣領の六角氏家督のほかには適用されなかった。秀綱の出世ぶりが分かる。29日には寺門警固検非違使を命じられた。
 貞和4年(正平3年、1348)高師直は河内で楠木正行を戦死させ、さらに吉野を攻撃して後村上天皇を賀名生に追った。南朝に大打撃をあたえるのに成功したが、帰途の大和国水越で南朝方の野武士に襲撃され、導誉の次男秀宗は後陣として奮戦した末に戦死している。後陣(殿軍)は、戦場にとどまって本軍を逃がす難しい役割であり、それを任された秀宗は優秀な武将であったろう。
 この吉野討伐で大きな勲功を挙げた高師直に対する尊氏の信頼は厚かった。これまで足利尊氏像と思われていた手負いの騎馬像は、義詮の花押が人物像の頭上に書かれていることから、近年では高師直像と考えられるようになっている。その肖像に義詮の花押が加えられるほど、尊氏・義詮父子が高師直を厚く信頼していた。
 それに対して尊氏の弟足利直義は決断力と良識をあわせ持つ人物でもあり、朝廷や寺社との交渉が難しい行政を担当した。そのため、土岐頼遠が酒に酔い「院ト云フカ、犬ト云カ、犬ナラバ射テ落トサン」と言い放って光明院に射掛けた事件では頼遠を処罰し、妙法院焼打ち事件でも導誉父子を配流に決した。「木ヲ以テ作ルカ金ヲ以テ鋳ルカシテ、生タル院、国王ヲバ何方ヘモ皆流シ捨奉ラバヤ」(『太平記』)と放言した高師直とは対照的である。
 足利氏一門や名門武家の多くは直義を支持した。観応元年(1350)3月29日秀綱は近江守に補任されたが(『園太暦』)、この年正月高師冬(師直いとこ)が秀綱の宿所高橋から関東に出向している。秀綱はあきらかに尊氏派である。しかし直義派が勝利した。
 観応2年(正平6年、1351)2月高師直・師泰兄弟は出家し、さらに尊氏帰京の途上で、直義派の上杉能憲によって殺害された。
 このような幕府の混乱を見て、南朝は、正平6年(1351)8月2日付で、導誉に尊氏・義詮父子と直義を一括して追討することを命じた(観応二年日次記)。導誉は天下取りの三番手と認められたことになる。10月尊氏父子は南朝に降を請い、あらためて尊氏に直義追討が命じられている。導誉は尊氏を裏切らなかったのである。ここに正平の一統が実現した。
 これを機に導誉・秀綱父子の幕府内での地位は向上した。同年9月10日秀綱は相模国大庭御厨の替地として常陸国佐都東(上椙民部大輔跡)・丹波国世木郷(神田五郎入道跡)・出雲国日登郷(佐藤二郎左衛門尉跡)を足利義詮から給付されている(佐々木文書四)。このうち上杉民部大輔は、鎌倉府執事(関東管領)を勤めた上杉憲顕であり、これらの所領が直義派の武士から没収したものと分かる。つづけて同年11月7日、幕府は秀綱(佐々木近江守)に上総国長屋郷の遵行を命じている(野田文書)。将軍の命令を執行する使節遵行は強制力を発揮するもので、守護の権限であった。上総国での遵行を命じられていることから、このとき秀綱が上総守護に補任されていたことが分かる。関東に尊氏派を置いたのである。
 ところが南朝側は、すべてを南北朝分立以前の建武3年(1336)以前に戻すことを強く求めた。つまり建武の新政の再興であり、足利氏による幕府を認めないということである。
 正平7年(観応3年、1352)には南朝軍が京都を制圧し、足利義詮は近江に逃れた。南朝は一気に攻勢に出たのである。それに対して足利義詮も元号を観応に戻して反撃し、南軍を破り京都の奪還に成功した。秀綱も同年4月17日から8月10日まで侍所所司(頭人)に在職していたことが確認できる。所司代は若宮某であった。若宮氏は京極氏の重臣である。南朝から、足利兄弟の追討を一度に命じられる京極氏であれば、足利一門ではなくとも侍所頭人を勤められるだろう。
 その間の7月、半済令が近江・美濃・尾張の3国で1年を期限に実施された。これは荘園・公領からの年貢の半分を兵糧米できるもので、近江の佐々木氏、美濃・尾張の土岐氏という有力な外様守護を味方にするための尊氏派の政略であった。こののち範囲は全国に広げられ、期限も半永久となった。このように佐々木氏には当初から半済令が出されたことからも、尊氏が佐々木氏を重視していたことが分かる。
 しかし今度は、山名時氏が子息師氏の京都奪還における功績を申請したものの、導誉が義詮に取り次がなかったことから、怒った山名時氏・師氏父子が南朝に降り、足利直冬(直義の養子)と連携した。観応の擾乱の再燃である。こうして尊氏と直義の対立は、子の世代である義詮と直冬に引き継がれた。この幕府の内部分裂が南北朝の動乱を長引かせたことから、南北朝合一には守護大名の抑制が必要となった。実際に明徳の乱(1391)で山名氏清が滅亡することではじめて、南北朝合一(1392)は成立したのである。
 この観応の擾乱の再燃で、義詮は再び近江坂本から美濃垂井に逃れた。このとき近江堅田で後陣をつとめた秀綱が比叡山の僧兵のために戦死している。この秀綱の奮戦で、義詮は無事美濃に逃げることができた。
 秀綱の所領は相模国大庭御厨、常陸国佐都東(上椙民部大輔跡)、下野国足利荘内借宿郷(佐々木近江守妻跡※鑁阿寺に一切経会料として寄進)、越前国田中荘、丹波国世木郷(神田五郎入道跡)、因幡国私部郷(毛利次郎・同庶子跡)、伯耆国小鴨次郎・同庶子跡、蚊屋荘(城大曾禰跡)、神田荘(南条又五郎跡)、出雲国日登郷(佐藤二郎左衛門尉跡)、安来荘、美作国勝田荘内陶方地頭職などが知られている。幕府は秀綱の遺族に出雲・伯耆・因幡などの所領を給付している(佐々木文書四)。
 これらの所領のうち、下野国足利荘内借宿郷に注目できよう。佐々木近江守妻跡とあるからである。しかも鑁阿寺に一切経会料として寄進されている。これは妻の菩提を弔うためだろう。秀綱の妻は足利氏の関係者と考えられる。
 また文和5年(1355)5月8日導誉が上総守護に補任されたが、義詮御教書案(佐々木文書二)には「上総守護職事、如元所補任也」とあり、元の如く補任とあることから、この上総守護補任は導誉の新任ではなく、秀綱の子孫が継ぐべく、秀綱再任という形をとったと考えられる。
 延文3年(1358)足利義詮の将軍宣下では、父祖の功績で秀詮が綸旨を受け取り伝える役を果たしている。このときの勅使は日野時光で、尊氏のときと同じく日野家の人物であり、時光の娘が足利義満の室になった。こうして足利氏と日野家の閨閥が築かれた。
 延文5年(1360)京極氏は摂津守護職と清和源氏菩提所多田院の管理権を得て、秀綱の長男秀詮(近江大夫判官)が摂津守護職に補任された。秀詮の近江大夫判官は、近江守の子息である大夫判官という意味であり、秀詮も若年のうちに大夫判官に補任されていたことになる。この官位の昇進も秀綱の功績を賞してのものだろう。また秀詮の「詮」の字にも注目できよう。将軍義詮の下の一字を、自らの実名の上ではなく、そのまま下の一字に使用して、父秀綱の「秀」の字を上に使用している。僭越ともいえるが、それを義詮は許していたのである。ほかの守護家では「詮」の字を上の一字に使用しており、義詮の秀綱の遺族に対する心遣いを知ることができよう。しかも弟も氏詮と名乗っている。兄弟で諱字を賜ったのである。
 しかし康安2年(1362)8月22日に秀詮・氏詮兄弟が摂津渡辺で討死してしまい、かわって斯波高経の子義種が摂州大将になった。これで摂津守護は京極氏の手を離れた。京極氏は摂津分郡守護を維持したが、それはもはや秀綱の系統ではなく三弟高秀だった。秀綱父子や秀宗が没したため、導誉の家督は三男高秀へと移ったのである。
 秀詮の子息には秀頼(秀綱孫)がいたが、戦乱の世にあってあまりに幼かった。続群書類従』巻132佐々木系図や沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、秀綱には秀詮・氏詮以外にも子息がいたが、京極氏の家督を継ぐことはなかった。有力な一族衆になった形跡もなく、庶子であったのかもしれない。また秀宗の女子は美濃土岐頼康という有力守護家に嫁いでいるものの、子息秀春(佐渡四郎左衛門尉・三河守)は京極氏の家督とはならず庶流となっている。秀綱流も秀宗流も京極庶流になったのである。
 秀詮の子息は、『尊卑分脈』では秀頼(左衛門尉)が記されているが、その子孫については記されていない。実は、秀頼はいちど家督に立てられようとした。導誉の専一の家臣で出雲守護代も勤めた吉田肥前房厳覚(秀仲)は、秀頼を京極氏の家督に奉じようとしたが、貞治3年(1364)7月厳覚は高秀の命を受けた京都所司代若宮某によって殺害された(『後愚昧記』)。導誉の子息でただひとり生き残っていた高秀に家督が移ろうとしていたことに対して、京極家嫡流を推す動きが活発化していたのである。この事件によって、高秀は侍所頭人を辞職させられている。京極氏の内紛に幕府が介入したのである。幕府内で、導誉と斯波高経の主導権争いが激化しているときであり、京極氏の内紛は格好の介入材料になった。
 徳源院所蔵佐々木系図の写しと考えられる『続群書類従』巻134では、秀頼(四郎)に早世と記されている。この事件の後、まもなく没したのだろう。高秀が家督と決すれば、秀綱流はもはや邪魔者でしかない。それが一族衆としても残らなかった理由だろう。
 しかも秀宗流が、秀綱の宿所高橋を名字とした。秀綱流は秀頼で断絶して、秀宗流が継承したのである。秀宗ののち秀春(四郎左衛門尉)−高徳(四郎・三河守)−高継(四郎左衛門尉)と続き、天文3年(1534)8月20日浅井亮政が京極高清・高延父子を饗応したとき、高橋兵部少輔(清世)が同席した。高橋氏は、加賀殿・黒田氏とともに京極氏の有力な一族衆となっていたのである。

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