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zoom RSS 大膳大夫高秀

<<   作成日時 : 2005/06/14 23:44   >>

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京極高秀(1328〜1391)高氏の三男。佐渡五郎左衛門尉、従五位下、治部少輔、大膳大夫。高秀が大膳大夫に補任されたことは、京極氏が公卿につぐ諸大夫に列したことを意味する。家格の上昇である。高秀は幕府内でも細川頼之派として、引付頭人、評定奉行、侍所頭人など幕府要職を歴任した(『花営三代記』)。幕府主流派である。また父道誉以来の出雲・飛騨守護、摂津能勢郡と河辺郡北部の分郡守護、清和源氏の氏寺多田院の管理権を世襲した。本領近江北郡については、軍事指揮権を手放さなかったため、使節遵行権は六角氏で、軍事指揮権のみ京極氏と変則的だが、近江北三郡の分郡守護を維持した。
 兄秀綱(近江守)の嫡子秀詮(近江大夫判官、摂津守護)・氏詮(近江五郎)兄弟が康安2年(1362)摂津渡辺で戦没すると、高秀が京極氏の家督となった。
 しかし秀詮に嫡子秀頼(左衛門尉)がいたことで、京極氏で内紛が起きている。導誉の専一の家臣で出雲守護代も勤めた吉田肥前房厳覚(秀仲)が、秀頼を京極氏の家督に奉じたため、貞治3年(1364)7月高秀の命を受けた京都所司代若宮某によって殺害された(『後愚昧記』)。導誉の三男高秀に家督が移ったことに対して、導誉の長男秀綱の子孫を推す動きが活発化していたのである。
 この事件によって、高秀は侍所頭人を辞職させられている。京極氏の内紛に幕府が介入したのである。幕府内では導誉と斯波高経の主導権争いが激化しており、家督をめぐる京極氏の内紛は、斯波高経派にとって格好の介入材料になった。
 しかし貞治5年(1366)出雲守護である父導誉に対して、幕府は守護被官人の出雲国蓮華王院領加賀荘および持田村領家職押領の停止と、同寺雑掌への交付を命じている。京極氏の被官人が悪党になっていたのである。
南北朝期には、守護が荘園年貢の半分を兵糧米にする半済や、荘園年貢の徴収を請負う守護請を、国人に給付して守護被官人に組み込んでいた。さらに守護被官人は、半済や守護請を足がかりに荘園を横領していたのである。守護は守護権確立のために黙認していたが、幕府はその取締りを守護に命じ続けた。ここに幕府と守護の対立の原因があり、六角氏が反主流派になったのは、被官人による荘園横領を黙認し続けたためである。室町期の守護が守護大名と呼ばれるのは、このようにして任国の領国化を進めたからである。
 翌6年(1367)高秀(甲良殿)が必ず使節遵行を実施することを約束している(水無瀬宮文書二)。この一件で、高秀が京極氏の家督に復帰していたことが分かる。
 また高秀が甲良殿と呼ばれていたことは、末子として父導誉の隠居地を継承していたことを意味する。もともとは秀綱が家督で、高秀は隠居分であった。このときも導誉が命じられたものを、高秀が実施を約束したというものである。
 応安3年(1370)6月17日幕府は、侍所頭人高秀(治部少輔)に対して、虎王による東寺西院領教令院敷地および巷所田地等への押妨を停止し、下地(土地)を同院雑掌に交付することを命じている(東寺文書敷四之九)。同所は関白二条良基が東寺に寄進したものであり、虎王が横領した土地を、荘園領主側に還付することを命じられたのである。さらに同年7月17日遍照心院僧徒と室田某の教令院敷地および寺領への濫妨を停止し、下地を覚王院僧正宋縁雑掌に交付することを命じた(東寺百合文書ヒ五十五之六十五)。教令院敷地をめぐり東寺と国人の間で争論があったようである。このように山城国の使節遵行を命じられていることで、高秀が侍所頭人に復帰していたことが確認できる。山城守護は侍所頭人の兼国だからである。
 同年8月6日高秀は侍所頭人に山門奉行を兼任している(『花営三代記』)。延暦寺対策を、当事者の一方である京極氏に任せたのである。当事者であり侍所頭人の高秀に延暦寺対策を一任したことは、対延暦寺強攻策といえる。
 さらに同年9月6日には幕府は、侍所頭人高秀に、松尾社造営料である山城葛野郡段銭を同社に交付させている。これも山城守護としての職務である。
 応安4年(1371)9月17日山城常光寺および曼陀羅堂領散在田畠への濫妨を停止させ、友快法印の後継者である上総竪者真顕に全うさせることを命じている。これも山城国での使節遵行である。
 応安5年(1372)2月10日足利義満の六条新八幡宮詣で、高秀は侍所頭人として供奉している。同年3月9日高秀は式評定衆に列し、12日には恩賞方に初めて出仕している。同年11月22日の将軍家(義満)御判始では管領細川頼之が執権を勤め、高秀が総奉行を勤めている。細川頼之派として行動していたことが確認できる。
 応安6年(1373)2月27日父導誉から、近江甲良荘尼子郷を「みま」に譲る旨の譲状を送られ、後事を託された(内閣文庫佐々木文書)。後事を託されたことでも、高秀が家督であったことが確認できよう。尼子郷は、高秀の本拠甲良荘の一部であり、「みま」が高秀の保護の下に置かれたことが理解できる。尼子郷は、のちに高秀の三男高久に譲られ、高久は尼子氏を起こしている。そして、同年8月25日父導誉が没した(『後愚昧記』『愚管記』『花営三代記』応安6年8月27日条、『常楽記』応永6年8月25日条)。
 同年10月19日出雲守護高秀は、安国寺雑掌の訴えにより、大野頼成(大野次郎左衛門尉)の大野荘半分内三分一薩摩八郎跡への濫妨を停止させ、下地を同寺雑掌に交付した(安国寺文書)。また12月21日には安国寺雑掌の訴えにより、禰宇三郎次の出雲禰宇村への、そして古志新左衛門尉の出雲禰宇領家職への押妨を停止させ、下地を安国寺雑掌に交付した(安国寺文書)。出雲守護としての実体を示す資料である。
 同年12月13日高秀は大膳大夫に任官した(『花営三代記』)。また長男高経(高詮)は六角氏家督、次男満秀も京極氏家督として幕閣に列している(『花営三代記』)。このときが高秀にとって絶頂期だろう。
 応安7年(1374)5月4日出雲守護高秀は、再び安国寺雑掌の訴えにより、大野頼成(大野次郎左衛門入道宗円)の大野荘への濫妨を停止させ、下地を同寺雑掌に交付した(安国寺文書)。このとき佐々木五郎(氏□)が、箕浦余一宛に施行状を発給している。佐々木五郎が守護代である。足利尊氏の諱字「氏」の字を、実名の一字に使用しており、格式の高い佐々木一族が出雲守護代を勤めていたことが分かる。
 その直後の5月6日山名師義の家人と高秀の家人若宮某の下人が温室で争論し、山名氏の家人が被害に遭うという騒ぎがあった(洞院公定日記)。
 永和元年(1375)4月25日足利義満の参内では、子息の六角高経(四郎兵衛尉)と満秀(佐渡五郎)が管領細川頼之につづき供奉している(『花営三代記』・広橋家記録九十四)。高秀父子が細川頼之派であったことが確認できる。
 同年4月28日多田院造営のため、棟別銭を摂津枳禰荘・多田荘に課している。使節遵行は箕浦修理亮入道(定俊)である。清和源氏義光流の近江源氏義経の子孫箕浦氏が、京極氏被官になり守護代になっていたことが確認できる。清和源氏の氏寺多田院の管理者に適任であろう。
 ところが同年6月5日再び山名氏の被官と高秀の被官が喧嘩し、双方の死傷者数十人に及んだという(愚管記)。これは家臣同士の喧嘩ではなく、政権闘争の序章であった。京極氏と山名氏は出雲守護職をめぐって対立しており、さらに細川頼之派と斯波義将派の対立と絡んでいた。
 まず永和3年(1377)9月高経が、六角氏被官から訴えられて除籍されている。さらに高秀・満秀父子も、康暦元年(1379)細川頼之派と斯波義将派の対立で細川頼之が失脚するという康暦の変に巻き込まれ、3月京都京極の屋敷を欠所にされ、六角満高(亀寿)に高秀追討の御教書が給付された(『迎陽記』『後愚昧記』『花営三代記』)。このとき出雲・飛騨守護も罷免され、出雲は山名義幸に、飛騨は佐々木判官に与えられた(佐々木文書)。
 この佐々木判官は、六角満高が高秀追討を命じられたことを考えれば、六角氏か六角氏猶子の高経(高詮)だろう。佐々木判官を飛騨守護に補任する御内書案が、高秀の三男高久に始まる尼子氏に伝承された京極氏文書である佐々木文書に含まれていることを考えれば、佐々木判官は高詮の可能性が高い。このときまでに検非違使に補任されていたのだろう。父高秀・弟満秀の失脚で、高詮が京極氏の家督を継承したと考えられる。
 ただし高秀・満秀父子は翌4月には准后の口入で許され、高秀は評定衆に復帰、再び評定奉行を務めている(『花営三代記』)。永徳元年(1381)飛騨守護に在職していたことも確認できる(山科家古文書)。
 明徳2年(1391)10月11日高秀が没すると、京極氏家督を継承したのは長男高詮であった。高詮が飛騨守護と摂津能勢郡・河辺郡北部の分郡守護を得たのである。そのためだろう、康暦の変まで京極氏嫡子として評定衆まで勤めていた弟満秀は、兄高詮(高経)が家督になったことで幕府に不満を抱き、応永の乱(1399)で大内義弘方となり滅亡している。

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