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zoom RSS 治部少輔高詮

<<   作成日時 : 2005/06/13 13:25   >>

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京極高詮(1352〜1401)高秀の長男。本名高経。四郎兵衛尉、左衛門尉、検非違使、治部少輔。引付頭人、評定奉行、侍所頭人、山城守護。法名浄高。はじめ六角氏頼猶子となり、幼い満高(亀寿)の後見として近江守護に補任された。
 応安3年(1370)8月8日幕府は目賀田信職(五郎兵衛入道玄仙)の訴えにより、福能部式部大夫相続人が近江福能部荘切田地頭職に濫妨することを停止し、下地を目賀田信職に交付することを、高経(佐々木四郎兵衛尉)に命じている(古證文二)。使節遵行は守護の重要な仕事の一つであり、これで高経が近江守護六角氏当主として行動していることが分かる。同年12月18日幕府は、近江守護高経に、宝荘厳院敷地および同院領近江三村荘島郷の管領を北山愛染王堂雑掌良賢に安堵させたが、東寺雑掌頼憲の訴えによって翌年4月東寺雑掌頼憲に島郷を安堵させている(東寺百合文書)。これで、六角氏の使節遵行が北近江にも及んでいたことが分かる。応安4年(1371)4月幕府は、高経に対して、幕府が臨川寺に寄進した近江比江郷地頭職を、臨川寺雑掌に打ち渡すことを命じている。しかし同年12月高経が臨川寺領近江比江郷公文職を欠所地と称して給人に与えたことから土民が逃散したため、幕府は高経に対して濫妨の停止と所務を寺に還付することを命じた。このことで公文桐原入道が近隣の悪党と語らい当郷に乱入したことから、狼藉を停止させることを高経に命じている。応安5年5月29日近江守護高経に、貴志弾正忠の臨川寺領近江比江郷地頭職への濫妨を停止させている(臨川寺文書)。高経は所職を欠所地として給付しているように、高経自らが悪党化していることが分かる。これが、のちに高経が六角氏を追われる理由のひとつであろう。
 応安6年(1373)10月21日近江守護高経は、南朝方の高山駿河守・儀俄下野守が甲賀郡に出陣する風聞があったため、山中木工助入道(頼俊)に軍陣の用意をさせている(山中文書)。同年12月24日幕府は、近江守護高経に、野田五郎左衛門入道の東寺領近江三村荘への濫妨を停止させている。このとき高経は目賀田弾正忠入道に遵行させている(東寺文書一)。彼が守護代であったことが分かる。応安7年(1374)5月に唐門警固人として、守護代目賀田弾正忠入道玄仙が強盗の侵入を防いでいる(『花営三代記』)。京都御所の守護は、氏頼のときから六角氏の重要な役割だった。そのためだろう、沙沙貴神社所蔵佐々木系図では六角氏歴代に昇殿の記事がある。
 永和元年(1375)4月25日足利義満の参内では、高経(四郎兵衛尉)は実弟京極満秀(佐渡五郎)と管領細川頼之につづき供奉している(『花営三代記』・広橋家記録九十四)。管領に次ぐ席次だったが、これは京極氏としてではなく六角氏当主としての席次である。
 同年4月25日高経は、儀俄氏秀(五郎)に近江甲賀郡儀俄荘地頭職・蒲生郡桐原大□名・同郡佐々木本郷藤木名・尾張門真本加納・相模長尾給分などの知行を安堵している(蒲生文書)。相模長尾郷が六角氏領であったことは上杉文書に見える。儀俄氏が六角氏被官人に組み込まれていることが分かる。
 同年7月6日伊香神社の訴えがあったが、伊香社のことは代々勅裁によってきたため、守護高経は裁定を留保して、聖断に委ねている(大音文書四)。遵行は楢崎次郎左衛門入道である。楢崎氏も守護代である。
 同年7月29日高経は儀俄五郎(氏秀)を内談衆としている(蒲生文書)。さらに8月5日氏秀は、義満により近江麻生荘公文職を安堵されている(尊経閣古文書纂二十五)。儀俄氏も六角満高の代に守護代になっている。さらに同年9月27日高経は、馬淵孫三郎に対して、近江柏木本郷・山村三箇郷・酒人郷などに課した園城寺金光院供米半分を返付させた(若王子神社文書)。馬淵氏も満高の代に源三左衛門尉が守護代となっている。
ところが永和3年(1377)六角氏被官から非道を訴えられて除籍となり、京極氏に帰家した。これは政変に巻き込まれたものと考えられる。
 康暦の政変(1379)で父高秀・弟満秀が失脚すると、佐々木判官に飛騨守護、山名義幸に出雲守護が与えられた(佐々木文書)。佐々木判官を飛騨守護に補任した御教書は京極氏から尼子氏に伝承された佐々木文書に収められており、また当時の六角氏当主満高は幼名亀寿で呼ばれているため、佐々木判官は京極氏に帰家したばかりの高詮と思われる。これを契機に高詮は京極氏の家督になった。
 さらに高経は明徳の乱(1391)で侍所頭人として活躍し、山名氏に奪われていた出雲・隠岐を取り戻した。しかし高詮が帰家するまで京極氏家督であった弟満秀は不満だったのだろう。応永の乱(1399)で大内義弘に与して滅亡している。
 摂津能勢郡・河辺郡北部は、末弟十郎左衛門尉に始まる多田流京極氏が継承した。応永12年(1405)9月12日に十郎左衛門尉が摂津能勢郡・河辺郡分郡守護に在職している。その後、応永31年(1424)7月26日治部少輔が在職、さらに永享元年(1429)12月8日に佐渡判官入道祐繁(京極佐渡)が在職している(多田院文書・御前落居記録)。治部少輔も佐渡守も京極氏嫡流の世襲官途であり、多田流京極氏の格式の高さが分かる。京極家と佐々木佐渡家が再び別れて、多田流京極氏が佐々木佐渡家を継承したのだろう。
 続群書類従本などでは、この十郎左衛門尉の実名を「満秀」とするが、『花営三代記』『尊卑分脈』による限り、「満秀」を名乗るのは高詮の次弟佐渡五郎左衛門尉であり、末弟十郎左衛門尉とは別人と考えられる。あるいは次弟佐渡五郎左衛門尉満秀の没後に、末弟十郎左衛門尉が満秀跡(佐渡跡)を継承し、実名も継承したと考えられる。実際に十郎左衛門には、晩年に佐渡判官入道と名乗っている。このように十郎左衛門尉の子孫多田流京極氏が、佐々木満信・宗氏・高氏・高秀・満秀(五郎左衛門尉)と受け継がれてきた佐々木佐渡家を継承したといえる。以後、京極氏家督は佐渡を名乗らなくなる。

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