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zoom RSS 治部大輔高光

<<   作成日時 : 2005/06/12 15:08   >>

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京極高光(1375-1413)高詮長男。大膳大夫、治部大輔。飛騨・出雲・隠岐守護。近江北郡の分郡守護(軍事指揮権)。侍所頭人。法名高通(道通)。応永10年(1413)には侍所頭人に在職していた。さらに応永16年(1409)から18年(1411)までの間、侍所頭人に再任されていた。
 応永15年(1408)足利義満が没すると、幕府は南朝側の皇位継承権者成仁(後村上天皇の孫)を出家させるなど、南北朝合一の条件「両統迭立」を破る動きを見せている。そのような中、応永18年(1411)飛騨国司姉小路尹綱が山科家領を横領したことを契機に飛騨国司追討が始められた。はじめ六角満高が追討を命じられたが拒否したため、替わって高光が追討を命じられました。このとき弟高数が陣代となり追討している。これで京極氏は飛騨守護を確保した。
 六角満高が追討を命じられたということは、一時的に六角氏が飛騨守護になっていたからだと考えられる。それにもかかわらず満高が拒否したのは、満高は南北朝合一に尽力していたため、彼自身が南北朝合一条件の不履行に不満を持っていたと考えられる。将軍の命令を拒否した六角満高は近江守護を更迭され、青木持通(武蔵守)が近江守護に補任されたが(青木文書)、すぐに六角満高が復帰した。やはり近江では六角氏の守護権力が強いことが分かる。
 応永20年(1413)高光が没すると嫡子持高が家督を継承したが、幼かったため高光の弟高数(京極加賀守)が後見した。

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