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zoom RSS 加賀守高数

<<   作成日時 : 2005/06/10 02:45   >>

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京極高数(?-1441)高詮次男。左衛門尉・加賀守。侍所頭人・山城守護。飛騨・出雲・隠岐守護。近江北郡の分郡守護(軍事指揮権)。御相伴衆。法名道統(有統)。応永18年(1411)兄高光の陣代として飛騨国司姉小路尹綱を追討した。応永20年(1413)兄高光が没すると、まだ幼かった甥京極持高(持光)を後見して、応永28年(1421)から応永30年(1423)まで侍所頭人・山城守護を勤めた。また持高とともに御相伴衆にも列した。永享11年(1439)持高が没すると、持高に弟持清(中務少輔)がいたにもかかわらず、高数が京極氏家督になっている。
 足利義教の恐怖政治の特徴のひとつは、守護の任免権を将軍が握るというものであり、これは将軍が大名の国替・改易を行う近世的封建制度を先取りしたものと評価できる。高数が甥持清を差し置いて京極氏家督になったことも、その一例といえる。
 嘉吉元年(1441)足利義教が赤松満祐邸で謀殺された嘉吉の乱では、管領細川持之・畠山・山名・大内ら有力守護大名とともに相伴していた高数は、刀を抜き防戦したが(建内記)、京極邸で帰ったところで息絶えた(師郷記)。
 この事態に幕府はすぐに討手を出すこともできず、赤松満祐は邸宅に火を放ち、分国播磨に下向した。赤松氏は足利直冬の孫義尊を擁立して反攻の姿勢を示すが、侍所頭人山名持豊(宗全)によって赤松追討は成功し、赤松氏の分国播磨・備前・美作の守護は山名氏に給付された。これが、山名宗全が幕府内での実力者になる契機となった。
 また京極氏では持高の弟持清が家督になり、やはり大きく飛躍する。高数の子孫は京極加賀家と称され、教久・政数と続いた。

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