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zoom RSS 大膳大夫持清(入道生観)

<<   作成日時 : 2005/06/09 12:36   >>

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京極持清(1417-1470)高光の次男。母は正親町三条公豊娘。六郎。中務少輔、大膳大夫。侍所頭人、山城守護。飛騨・出雲・隠岐守護。近江北郡分郡守護(軍事指揮権)。近江守護。嘉吉元年(1441)侍所頭人となり、就任してすぐに起きた嘉吉の土一揆で適切な対応をして鎮圧に成功するとともに、徳政令を発布した。文安3年(1445)六角満綱・持綱父子が、被官に擁立された六角時綱(満綱次男)に自殺に追い込まれるという文安の乱が起きたが、管領畠山持国は静観した。しかし同年に持清の甥細川勝元(妹婿細川持之の子)が管領に就任すると、幕府は六角氏の内紛に積極的に介入する。文安4年(1446)5月持清は侍所頭人を辞任、そして9月六角久頼(満綱の末子)とともに六角時綱を討った。
 宝徳元年(1449)侍所頭人に再任され、さらに畠山政長(持国の養子)を娘婿に迎え、東幕府内に磐石の閨閥を築いた。所司代は若宮某、多賀昌宗(出雲守)、多賀高忠(豊後守)と交替し、とくに多賀高忠は名裁判で京都の庶民から人気があり、武家故実家としても著名であった。
 また六角氏の内政にも介入した。そのため持清の干渉に耐えられなくなった六角久頼は、康正2年(1456)に自害した。その跡は遺児六角亀寿が継承するが、長禄2年(1458)亀寿の近江守護職は剥奪された。文安の乱で敗死した時綱の遺児六角政堯(四郎)を、持清が支持したのだ。このようにして持清は六角氏への介入を強めていった。さらに長禄4年(1460)政堯が重臣伊庭氏を罪もなく殺害したため、幕府は政堯を追放し、亀寿を再び近江守護にした。六角氏内紛の泥沼化は、六角氏は存亡の危機に立たされることになった。持清にとっては、まさに導誉以来の近江守護になる好機であった。
 しかし文正元年(1466)持清が延暦寺衆徒と対立し、高忠も巻き込まれて出奔した。このとき持清の侍所頭人も解任された。そして応仁・文明の乱に突入する。
 応仁・文明の乱では甥細川勝元、娘婿畠山政長と結んで東幕府の重鎮として、分国飛騨・出雲・隠岐の国人を動員して活躍した。近江では、西軍の六角高頼と戦い、緒戦で勝利し、高頼を甲賀・伊賀・大和・北伊勢へと走らせた。応仁2年(1468)長男勝秀が六角高頼と対戦中に甲賀で没すると、持清は勝秀の嫡子孫童子丸を京極氏家督に決め、三男政経(六郎)をその後見にした。さらに文明元年(1469)東軍の六角政堯が敗れると、西軍の六角高頼に対抗するために持清本人が近江守護に補任された。京極氏が近江守護になるのは、導誉以来のことだ。しかし文明2年(1470)持清は没した。これが京極氏分裂の契機になる。

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