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zoom RSS 備中判官時信

<<   作成日時 : 2005/05/08 19:32   >>

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佐々木時信(一三〇六−一三四六)頼綱の末子。母は後伏見院女房(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。三郎、左兵衛尉、右衛門尉、左衛門尉、検非違使、叙留、大夫判官、従五位上、備中守、近江入道(『園太暦』貞和二年十二月二十四日条)、芝田原殿(『比牟礼八幡宮領条々』)。正和三年(一三一四)十二月十四日に九歳で元服し、幼少のまま近江守護を勤めた。そのため、広定(信綱弟)流佐々木氏の青地冬綱(常楽院文書:正和二年九月十六日付檜物庄預所宛守護書下案)・馬淵範綱(東大寺文書:元享四年五月二日付馬淵範綱請文案)が守護代を勤めた。さらに長命寺文書によって、元応二年(一三二〇)十五歳当時には左兵衛尉であったことが確認できる(元応二年三月九日付左兵衛尉奉加状)。
 元享四年(一三二四)二月六波羅探題は、時信に対して伊賀国人柘植二郎左衛門尉とともに伊賀国の悪党を退治することを命じている(東大寺文書:元享四年二月二十日付柘植二郎左衛門尉宛六波羅御教書および同月三十日付佐々木三郎右衛門尉宛六波羅御教書)。これは伊賀守護千葉氏が東国在住だったためだが、時信は近江国悪党退治を理由に拒否している(東大寺文書:元享四年五月二日付馬淵範綱請文案)。時信はけっして幕府に忠実だったわけではない。同年に起きた正中の変では土岐頼貞・多治見国長を討っているが、これは時信が在京御家人の代表的立場にいたからであり、時信自身は幕府には反抗的だったと考えられる。そのことは、嘉暦四年(一三二九)五月六日六波羅探題から、時信(佐々木三郎右衛門尉)が近江守護代以下狼藉の輩を催進すべきことを命じられているように、近江守護代が応訴出廷命令を受けていることでも分かる(菅浦文書三:嘉暦四年五月六日付佐々木時信宛六波羅御教書案)。近江守護代が悪党化していたのである。
 それとは対照的に朝廷との関係は良好であり、元徳元年(一三二九)十一月二十四日検非違使に補任され、翌二年(一三三〇)三月一日に叙爵されて従五位下に叙された。同月八日の春日行幸行事賞によって、同月二十九日従五位上に加級された(『武家年代記裏書』元徳二年三月八日条)。佐々木氏の吉例にもとづいた昇進である。この春日行幸賞は『太平記』にも記され、時信が橋を渡し、さらに篝屋武士が甲冑を着けて辻々を固めている。篝屋武士とは、京都市内の警衛のため四八か所ある詰所の篝屋を守った武士のことである。時信が彼らを動員できたことが分かる。後醍醐天皇は時信を絶賛したが、これは時信を軍事力として期待していたからだろう。さらに時信は備中守を補任され、父頼綱と同様、備中大夫判官と呼ばれた。六角氏の地位を回復したのである。
 元弘元年(一三三一)後醍醐天皇による討幕運動・元弘の変が起きた。時信は当初、比叡山攻めの大将になり、さらに元弘三年五月七日六波羅探題が陥落すると、後伏見院・花園院・光厳院を奉じた探題北条仲時の近江通行を先導している。しかし時信は近江国愛智川で引き返して官軍に参加した。五辻宮が伊吹山で蜂起したことで進退窮まった北条仲時一行は、近江番場の蓮華寺で自害し、後伏見院・花園院・光厳院は京都に還幸している。資料はないが、この還幸の一行を警固したのは時信であろう。
 元弘の変で、時信が六波羅陥落後も土壇場まで六波羅探題北条仲時一行を守備したため、これまで時信は幕府に従順であったと考えられていたが、時信が保護したのは後伏見院・花園院・光厳院ら持明院統の人々だったと見るべきだろう。実は時信の母は後伏見院女房である。建武の新政で時信は近江守護職を保持しただけではなく、舅長井時千(大江広元流)とともに雑訴決断所七番寄人に列した。これは、時信が後伏見院・花園院・光厳院らを保護した功績と考えられる。
 しかし守護代馬淵義綱が証判を与えた建武三年(一三三六)六月十三日付石山寺領文書紛失状案(石山寺文書)によって、このときまでに嫡子氏頼に近江守護を譲られ、馬淵義綱が陣代になっていたことが確認できる。建武五年(一三三八)には氏頼が「佐々木孫三郎」(山中文書:建武五年二月二十五日付山中道俊・頼俊軍忠状)、「近江三郎」(小佐治文書:同日付小佐治基氏軍忠状)として資料に登場するようになる。
 それでも時信自身が出陣することがあり、暦応四年(一三四一)正月足利直義は朽木経氏に対して、時信(佐々木近江入道)の大和国西阿城攻めに従軍することを命じている(朽木文書:暦応四年正月二十日付朽木経氏宛足利直義御教書)。このときまでに時信が近江守に補任されていたことが分かる。このように嫡子氏頼に家督を譲った後も軍事活動を続けていたが、貞和二年(一三四六)八月二十六日時信はわずか四一歳で没した。法号は、大光寺殿別渓玄派である。
 翌年にあたる『園太暦』貞和二年(一三四七)十二月二十四日条に「佐々木近江入道跡」と見える。同じく「佐々木近江入道」と呼ばれた佐々木鏡貞氏(佐々木導誉の実兄善観)は、『園太暦』観応二年(一三五一)正月十六日条に「佐々木近江入道善願・千秋左衛門大夫高範等走南方云々」とあり、当時まだ生存していた。年月は不明だが、このことでも時信が近江守に補任されていたことが確認できる。

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