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zoom RSS 大夫判官氏頼(入道崇永)

<<   作成日時 : 2005/05/07 01:32   >>

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六角氏頼(一三二六−一三七〇)佐々木時信の長男。母は長井時千娘。孫三郎(山中文書)、近江三郎(小佐治文書)、左衛門尉、検非違使、大夫判官、近江守、大夫判官入道。建武二年(一三三五)父時信の辞職にともない近江守護を継ぐものの幼少のため、一族馬淵義綱が守護代になった。暦応元年(一三三八)足利尊氏の加冠で元服した。このとき尊氏の猶子になったのだろう、康永二年(一三四三)に十八歳で検非違使補任に補任された。これは異例の早さである。しかも康永四年(一三四五)二十歳で叙爵されて従五位下大夫判官となった。さらに十日後には従五位上に加級されて近江守に補任されている。これは、これまでの佐々木氏歴代の中で最も早い昇進であった。また歌人でもあり、新拾遺和歌集・新後拾遺和歌集作者になっている。
 このように氏頼は佐々木氏の吉例により家督継承後順調に昇進していたが、貞和五年(一三四九)高師直と足利直義の対立が頂点に達して、観応の擾乱が始まった。観応二年(一三五一)高師直・師泰兄弟が殺された後も、足利尊氏・義詮父子対足利直義・直冬父子が対立し、両派から誘われて氏頼は窮して、わずか二十六歳で出家し高野山に籠もっている。氏頼出家後は、嫡子千手(母京極導誉娘)が六角氏家督を継ぎ、氏頼の三弟山内信詮が近江守護職をつないだ。しかし信詮は直義派であったため、尊氏派の次弟直綱が近江守護に補任されることもあった(『園太暦』観応二年九月十一日条)。観応三年(一三五二)直義が毒殺されたことで決着が着くと思われたが、直義の養子直冬(尊氏庶子)が尊氏・義詮父子に対して徹底抗戦を叫び、山名時氏・桃井直常・少弐頼尚らが支援した。そして同年に半済令が近江・美濃・尾張三か国に出された。これら三か国の守護六角千手と土岐頼康の軍事力が、尊氏に期待されていたことが分かる。
 文和二年(一三五三)六角千手が守護だったことが確認できるが(蒲生文書)、同年三月五日氏頼(佐々木近江守)は足利義詮より山門警固を命じられており(朽木文書)、翌年にあたる貞治三年(一三五四)氏頼は近江守護に再任された。 延文二年(一三五七)九月には、山門領を押領したとして山門衆徒と対立している(『園太暦』延文二年九月八日条)。
 近江守護に再任された氏頼は禅宗の保護に努め、延文五年(一三六〇)寂室元光に帰依、康安元年(一三六一)正月寂室を迎えて永源寺を建立した。寺号は、氏頼の法名崇永の一字とと近江源氏の源をとったものである。沙々貴神社所蔵佐々木系図では、同年に氏頼が出家の身でありながら従四位下に叙位されたことを記し、眉目としている。翌年にあたる康安二年(一三六二)九月二日氏頼は永源寺に山上郷熊原村を僧供料として寄進している(永源寺文書)。
 貞治元年(一三六二)嫡子千手が将軍義詮自らの加冠で元服して、義信と名乗り、右兵衛佐に補任された。貞治二年(一三六三)丹後守護在職が確認される。貞治二年十一月二四日付右兵衛佐宛足利義詮御教書(石清水文書)で、将軍義詮は義信(右兵衛佐)に丹後佐野別宮・板浪以下を石清水善法寺雑掌に交付させた。翌年氏頼が石清水八幡宮宿院造営を始めていることと関係があるだろう。
 貞治三年(一三六四)二月二十五日氏頼が舞楽装束を調進し、北野社で舞楽が行われている(『師守記』貞治三年二月二十五日条)。さらに同年二月二十八日氏頼は幕府奉行人二人とともに石清水八幡宮に社参し、宿院造営について協議し(『師守記』貞治三年二月二十八日条)、四月十九日氏頼が奉行になって造営を始めている(『師守記』貞治三年四月十九日条)。同年六月十六日氏頼は石清水八幡宮に参詣し、宿願のため三十七日にわたり参籠した(『師守記』貞治三年六月十六日条)。宿願の内容は分からないが、翌年に嫡子義信が没することを考え合わせれば、義信の病気平癒のこととも思われる。
 貞治四年(一三六五)正月十四日内裏で仏舎利を授与されている(東寺文書)。しかし同年十一月八日義信がわずか十六歳で没した。実は同年四月十日将軍義詮の妾紀良子が京都六角邸で男子を出産している(『師守記』貞治四年四月十日条)。この男子が後の満高(六角亀寿)と考えられる。足利義満の同母弟にあたる。『師守記』では男子が死亡したという伝聞を記しているが(『師守記』貞治四年四月十一日条)、この噂は、公には男子を氏頼の室藤原氏の嫡子としたためだろう。
 貞治六年(一三六七)五月八日関東管領足利基氏薨去を弔うため氏頼は上洛し、十日に近江に下向した。二十四日には美濃守護土岐頼康、二十七日に丹波守護仁木義尹も足利基氏の弔いのため上洛している。
 応安元年(一三六八)二月氏頼が引付頭人(禅律方頭人)であったことが確認できる(『花営三代記』貞治七年二月十九日条)。引付頭人とは、評定衆で引付頭人を兼職したもののことで、無役の評定衆よりも格式が上であった。氏頼が幕府内で重きをなしていたことがわかる。
 応安二年(一三六九)四月二十日山徒が禁裏に乱入したため防戦し(『武家年代記裏書』応安二年四月二十日条)、勅書で軍功抜群と賞賛された(『花営三代記』応安二年四月二十日条)。氏頼は大内守護を勤めていたのである。
 応安三年(一三七〇)正月十四日氏頼は再び内裏で仏舎利を授与さている(東寺文書)。しかし同年六月七日氏頼は没した(『後愚昧記』応安三年六月七日条、『常楽記』応安三年六月七日、『空華日用工夫略記』応安三年六月二十四日条、『瑞石歴代雑記』二)。『後愚昧記』の記主三条公忠は、「当時於武家聊敬仏神知道理者也、可惜々々、天下衰微之第一也」と氏頼の死を悼んでいる。享年四十五歳であった。法号は慈恩寺殿雪江崇永である。
 このとき嫡子満高がまだ幼少であったため、氏頼の猶子高経(京極高秀の長男)が近江守護に補任されました。そのため京極氏では高秀の次男満秀が家督になった。高経は幕閣に列し、さらに養父氏頼についで禁裏の唐門警固人になり、応安七年(一三七四)五月九日守護代目賀田弾正忠入道玄仙が強盗を撃退している(『花営三代記』応安七年五月九日条)。また近江国内でも、郡奉行・奉行人を構成員とする内談衆を設置して協議機関にしている(蒲生文書:永和元年七月二十九日付儀俄五郎宛六角高詮直状)。このように他国に先駆けて守護領国機構を整備していた。ところが永和三年(一三七七)十一月高経(四郎兵衛尉)は被官に非道を訴えられ、二十二日には六角氏から除籍されて、二十五日氏頼の一子満高に御教書が発給された(『花営三代記』永和三年十一月二十一日条)。同年六月一日山内信詮(備中大夫判官)が没したことで(『花営三代記』永和三年六月一日条)、内紛があったようだ。しかし康暦の政変(一三七九)で実父京極高秀と実弟満秀が失脚したことで、六角氏を除籍になた高経(のち京極高詮)は飛騨守護職を幕府から与えられている。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
守護代の馬渕氏ですが、豊臣時代まで嫡流は近江にいて栄えていたのでしょうか?。嫡流の江戸時代、現代の動向が知りたいです。
一門の端っこ として
馬渕 康
2008/01/19 21:40
大きすぎる質問であり、どのようにお答えすればいいのか戸惑います。

馬淵氏は、佐々木六角氏とともに蟄居し、あるいは縁故をたより他の大名家に仕えており、近世の動向を正確に知るのは難しいのが実情です。そのため、嫡庶を判断することも難しく思います。

ただし、馬淵氏の子孫には、現在も野洲に居住されたり、墓地をもつ方々がいらっしゃいます。
佐々木哲
2008/01/19 23:22

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