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zoom RSS 右兵衛佐義信

<<   作成日時 : 2005/05/06 00:37   >>

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六角義信(一三四九−一三六五)氏頼の長男。母は佐々木道誉娘(『祇園執行日記』貞和六年三月五日条で氏頼を「大法師婿」とする)。幼名千手(千寿)。観応の擾乱で足利尊氏・直義両派の誘いに窮して出家した父氏頼の譲りを受けて、観応二年(一三五一)六月二十五日六角氏の家督を継承した。ただし幼少のため、叔父山内信詮(定詮)が近江守護を預かった(『太平記』二十九巻八重山蒲生野合戦事)。山内信詮(五郎左衛門尉・備中大夫判官)が守護正員ではなく守護を預かる立場であったことは、『園太暦』で信詮(五郎左衛門尉)を「江州又守護」としていることでも分かる(『園太暦』文和二年六月二十九日条)。義信(千手)が守護正員であることは、翌三年(一三五二)七月二十四日付佐々木千手宛足利義詮御教書(臨川寺文書)の存在で確認できる。これと同日付で幕府によって最初の半済令が発布され、近江・美濃・尾張に適用された。六角氏の軍事力が期待されていたことが分かる。しかし文和三年(一三五四)父氏頼が近江守護に再任された。観応の擾乱に決着が着いたためだろう。
 貞治元年(一三六二)六角東洞院邸で将軍義詮の加冠により元服し、ついで将軍邸に赴いて「義信」の名を給付された(『師守記』貞治元年十二月二日条)。義詮猶子になり、右兵衛佐に補任されたと考えられる。さらに翌二年(一三六三)判始が行われて、丹波・丹後守護職に補任された。このときの丹後守護代は左衛門尉である。沙々貴神社所蔵佐々木系図では、右兵衛佐も丹波守護も氏頼の事績とするが、父氏頼が近江守護在職中だったため、誤って父氏頼の事跡としたのだろう。『足利治乱記』で氏頼を丹波守護とするのも、同じ理由と考えられる。兵衛佐といえば、かつて源頼朝が右兵衛佐であり、室町期には足利一族が補任される官職であった。将軍義詮の猶子義信に相応しい官職といえよう。
 義信は、貞治二年(一三六三)十一月四日幕府に丹後国芋野郷半分地頭職の遵行を命じられている(尊経閣文庫)。この文書が前田家に伝来したことは、佐々木六角一族が江戸期前田家に仕えていることと関係しているだろう。また同年十二月二十四日丹後国佐野別宮および板浪以下の遵行を命じられている(石清水文書)。この遵行は石清水八幡宮雑掌に交付したもので、翌年の貞治三年(一三六四)父氏頼が石清水八幡宮造営奉行になっている(『師守記』)。義信は丹後守護として、父氏頼の石清水八幡宮造営を支援したのである。
 しかし義信の健康は急に悪化し、さらに貞治三年(一三六四)直冬派の山名時氏が幕府に帰順したため、丹波・丹後守護も山名氏に還付されて時氏の子息師義が守護に補任された。義信は翌年の貞治四年(一三六五)わずか十七歳で没している。法号は大善寺殿大振崇綱である。

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