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zoom RSS 若狭宰相高次

<<   作成日時 : 2005/05/31 13:27   >>

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京極高次(1563-1609)高慶の長男。母浅井久政娘。小法師。侍従、近衛少将、若狭守。京極八幡侍従。大津宰相。若狭宰相。永禄11年(1568)織田信長上洛により父高慶引退したため、高次が京極氏家督を嗣ぎ、以後江州衆の一員として行動した。元亀4年(1573)7月には江州衆のひとりとして足利義昭が籠城する真木島城攻めに参加し(『信長公記』)、近江奥島5千石を給付されている(『京極家譜』)。天正9年(1581)9月伊賀攻めでは、丹羽長秀とともに名張郡を平定した(『信長公記』)。天正9年(1581)・天正10年(1582)正月15日の爆竹にも、江州衆として参加している(『信長公記』)。天正10年(1582)6月本能寺の変で信長が滅亡すると、妹婿若狭武田元明とともに明智光秀の誘降に応じて、長浜城を攻撃した(『京極家譜』)。そのため山崎の戦いの後に一時没落した。若狭武田元明は、同年7月近江海津で自害させられ、元明の妻であった妹竜子(松の丸殿)は羽柴秀吉の妾となった。高次は京極氏の菩提寺清瀧寺に身を潜め、さらに美濃今須に隠れ、さらに柴田勝家を頼った(『京極家譜』)。しかし天正12年(1584)妹竜子の請願で許され、近江高島郡田中郷2千500石を給付された(『京極家譜』)。
 以後高次は出世し、天正13年(1585)従五位上侍従に補任され、翌天正14年(1586)近江高島郡で5千石を給付された(『京極家譜』)。天正15年(1587)九州征伐で戦功を上げて挙げて近江大溝城主1万石に加増され(『京極家譜』)、天正16年(1588)聚楽第行幸で騎馬で供奉して従四位下に叙された(『聚楽亭御成記』『歴名土代』)。そして浅井長政の次女お初と祝言を挙げて、姉は淀殿、妹お江与は徳川秀忠室という閨閥に連なった。これは高次が秀吉の愛妾松の丸殿の兄というだけではなく、京極氏が浅井氏の旧主であり、高次の母も浅井氏出身だったからである。
 天正18年(1890)小田原の陣に参加して(伊達文書)、国替によって近江八幡山城主2万8千石に加増され、弟京極高知と朽木元綱が与力に付けられている(『京極家譜』)。高次の妹は松の丸殿のほかに、氏家行広室と朽木宣綱(元綱嫡子)室があり、与力を閨閥で固めたことが分かります。
 高次は「京極八幡侍従」とよばれ(『太閤記』)、文禄3年(1594)8月2日八幡町の条規を定めている(八幡町共有文書)。文禄4年(1595)近江大津城主6万石に加増され、慶長元年(1596)近衛少将に補任、さらに年月は不明だが、従三位参議にも補任された(『京極家譜』『公卿補任』)。
 関が原の戦い(1600)では東軍として大津城に籠城し、毛利・立花ら西軍を大津に釘付けにしたが、関ケ原合戦の直前に開城して、高野山に登った。しかし徳川家康からは毛利・立花ら西軍を釘付けにして本戦に間に合わせなかった功績が認められた。はじめ高次は開城したことを恥じて恩賞を辞退していたが、のちに木食上人の説得を受けいれ、若狭小浜城主8万5千石に封じられている(『京極家譜』)。慶長6年(1601)近江高島郡のうち7千石も給付されて、都合9万2千石を領した(『京極家譜』)。慶長14年(1609)5月3日没、享年47歳、法号泰雲寺殿徹宗道閑(『京極家譜』)。
 高次の室お初は、慶長3年(1598)豊臣秀吉から化粧料として、近江蒲生郡長田村など2千40石の領地を与えられた。 愛妾淀殿の妹であり、また愛妾松の丸殿の兄嫁でもあったからだろう。高次の没後に常高院と号し、近江蒲生郡長田村の采地のうち300石を高次養女(氏家行広娘、今出川宣季室)に与え、300石を若狭小浜常高寺に寄進した。慶長19年(1614)大坂冬の陣では、豊臣方と徳川方の和議の努め使者となっている。しかし寛永10年(1633)8月27日に没した。徳川家光は葬儀料として銀1千枚を贈っている。
 嫡子忠高は徳川秀忠の娘初姫を娶り、寛永11年(1634)出雲・隠岐領国を与えられて出雲松江26万4千石。寛永13年(1636)石見銀山と邇摩郡・邑智郡において4万石を加増されて、都合34万4千石を領しました。しかし寛永14年(1637)6月12日忠高は後継者のないまま没して無嗣断絶。幕府は、弟高政の子高和(実は忠高の庶子)に、播磨竜野6万石に封じて京極家を再興させました。さらに万治元年(1658)2月26日讃岐丸亀6万石に移封されました。

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
水上勉「流れ公方」の中に六角義晴、京極高吉が出てきます。ぬいという女性の口伝という形式をとっておりますが、これは創作でしょうか?
織田のもとに、高吉の子高次が人質でいるとありますが、これもほんとうでしょうか?
岩永 正人
2005/05/31 21:46
歴史小説嫌いの私には珍しく、『流れ公方』は好きな作品です。私はこの作品で足利義昭が好きになりました。しかし残念ながら創作です。
 『京極家譜』では岐阜で人質になっていたと記していますが、江州衆のひとりとして行動しています。信長方の六角氏の許にいたと考えられます。
佐々木哲
2005/06/02 00:27
我が家は京極高次の旧臣で出雲に随行せず帰農した武士の子孫という言い伝えがあります。福井県南部には我が家と同姓の旧家が多くあり、佐々木一族との伝承があります。先生の御本では六角氏の家臣と出ていましたので京極高次の家臣にも馬渕氏があったのかどうかが知りたいです。
京極氏に仕えた馬渕氏もあったのでしょうか?。帰農せず出雲に行った一族がその後どうなったかも興味があります。
佐々木後胤
2008/01/24 10:06

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