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<<   作成日時 : 2005/05/30 13:42   >>

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京極高知(1572-1622)高慶次男。母浅井久政娘。幼名長寿。修理亮、修理大夫、丹後守、侍従。始め織田信澄娘婿。次いで毛利秀頼娘婿。始めの舅織田信澄は、信長の弟勘十郎信勝(系図では信行)の子息であったが、信長の厚遇を得て一族衆に列していた。ついで浅井長政の旧臣磯野員昌の養子になり、天正6年(1578)員昌が六角義堯に応じて出奔すると、その跡を継承して近江高島郡の領主になった。しかし明智光秀の娘婿であったため、天正10年(1582)明智光秀の乱では去就を疑われて殺害された。明智光秀の乱で、兄京極高次と若狭武田元明が明智方として長浜城を攻略したのも、高知が織田信澄の娘婿だったことと関係があろう。
 つぎの舅毛利秀頼は尾張斯波義統の子で、織田信長・信忠に仕え、天正10年(1582)甲斐武田勝頼滅亡後、信濃伊那郡を与えられて飯田城主になった。しかし本能寺の変では所領を放棄して尾張に帰国してしまった。その後豊臣秀吉に属して、天正13年(1585)侍従に補任された。聚楽第行幸では「羽柴河内侍従豊臣秀頼」と名乗っている。天正18年(1590)小田原の陣に参陣して、戦後に信濃飯田城主に復帰した。文禄2年(1593)月17日秀頼が没すると遺領10万石のうち、娘婿高知が信濃飯田城主9万石を相続して、実子秀政には1万石しか与えられなかった。
 高知はのち京極氏に復して、兄近江大津城主京極高次の与力になった。慶長5年(1600)徳川家康の上杉景勝征討に従軍し、関が原の戦いでは東軍の先鋒として岐阜城攻めに加わるなど活躍した。その功績で、丹後宮津城主12万3,200石に封じられた。元和8年(1622)8月12日没した。法号は瑞雲院殿真巌道可。
 高知の嫡子高広は池田輝政の娘を娶り、さらに嫡孫高国は伊達政宗の娘を娶った。有力な外様大名と閨閥を築いている。しかし高広が子高国の不孝を幕府に愁訴したため、幕府は親族と和順せず、また封地の仕置きもよろしくないとして、寛文6年(1666)高国を改易にした。そののち延宝8年(1680)高国の嫡子高規は赦免されて、元禄3年(1690)寄合に列し、元禄8年(1695)高家に列した。
 高知の3男高三は丹後田辺藩祖となり、また婿養子高通(朽木宣綱の2男)は丹後峰山藩祖になり、それぞれ明治維新に至っている。

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コメント(8件)

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じっくり読むととても興味深いですね。
毛利秀頼が所領を放棄して尾張に帰国してしまったというのは情勢的にどう解釈すればよろしいのでしょうか。
佐々木寿
2005/12/06 17:59
本能寺の変を知った武田旧臣の蜂起や、後北条氏など他国勢の侵攻などが考えられます。
佐々木哲
2005/12/06 20:04
関ヶ原の戦いでの戦闘場所および戦功の割りには、石高が大幅加増されなかったのは何故でしょう?。布陣図を見ると一番の激戦部分で戦っているように思うのですが?。20万石程度に・・・もう一ヶ国くらい貰えてもいいと思うのですが?。
論功こうしよう
2008/01/19 11:18
畿内近国である丹後の国主となり、丹後守を名乗ることを許されたことは、遠国の大大名に匹敵するものです。しかも、丹後は佐々木氏にとって縁故ある土地です。丹後一国であれば、けっして少ないとは思いません。
京極高知家が大大名と認められていたことは、八条宮智仁親王があり、子高国の室が池田輝政の娘、孫高広の室が伊達政宗の娘という縁戚関係からも理解できます。
佐々木哲
2008/01/19 22:50
納得いたしました。
畿内近国は遠国の数ヶ国または大国に匹敵する行賞なんですね。薄学のため丹後と佐々木の縁故を知りません、お教えいただけますでしょうか?。お願いいたします。
論功こうしよう
2008/01/21 01:03
菩提寺の本行寺に行ってまいりました。
あいにく住職は御不在でしたが御身内の方がいらっしゃいまして、お話を聞くことが出来ました。崖崩れにより墓石が埋まってしまい、その後、再建されていないそうです。舞鶴市にとって、大きな遺産だと思うのですが、御子孫は、このことを御存知なのでしょうか?。公的な援助はできると思うのですが、京極家の意思が、まず必要ですので。
舞鶴市役所職員
2008/01/21 17:23
論功こうしょうさん
佐々木氏と丹後との縁故は、六角氏(右兵衛佐)が一時期丹後守護であったこと、朽木氏の所領があったことなどが挙げられます。とくに朽木氏は注目に値します。

舞鶴市役所職員さん
京極家の方へ連絡した上で再建して頂きたく存じます。また、私に出来ることがありましたら、なんなりと申し付け下さい。ちょうど京極氏系譜の原稿を執筆し始めるところですので、協力を惜しみません。
佐々木哲
2008/01/22 12:01
お力強い御言葉に感謝いたします。
実は舞鶴藩京極家の京極高三以降の数基の墓は、昭和時代に兵庫県の豊岡市に移転されたみたいで、舞鶴市には京極家の遺構は他に殆どありません(舞鶴藩の領域を確定させた重要な家であるにもかかわらず)。なので非常に貴重だと考えております。京都の大徳寺にも墓石があるそうなのですが、どちらかが供養塔なのでしょうか?。もし宜しければ詳しい解説をいただきたいのですが。また舞鶴では京極高知は舞鶴城に住んでいたことになっているのですが、宮津市では宮津城に住んでいたことになっており、その真実も御聞かせ願えれば有難いです。
舞鶴市役所職員
2008/01/23 23:44

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