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zoom RSS 源宰相扶義

<<   作成日時 : 2005/05/27 01:05   >>

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源扶義(九五一−九九八)源雅信の四子。母藤原氏南家流大納言元方娘。文章生、蔵人兼図書助、式部少丞、叙爵、遠江権守、安芸権守、河内守、従五位上、正五位下、蔵人兼右少弁、左少弁、従四位下、左中弁、中宮権亮、播磨権守、蔵人頭(頭中弁)、従四位上、内蔵頭、正四位下、中宮権大夫、参議兼右大弁、美作兼守、左大弁、大蔵卿に至り(『公卿補任』)、一条天皇の九卿のひとりになった(『続本朝往生伝』)。九卿とは、右大臣藤原実資(小野宮流)・大納言藤原斉信・大納言藤原公任・大納言源俊賢・権大納言藤原行成・参議源扶義・中納言平維仲・参議藤原有国(日野流)である。
 しかし扶義は、妹婿の藤原道長が内覧に補任されてから、わずか三年後の長徳四年(九九八)七月二十五日に享年四十八歳で没している。道長が摂政に補任されたのは、こののち十八年後の長和五年(一〇一六)である。早過ぎた死といえよう。しかし長寿を全うした兄時中も大納言にとどまり、宇多源氏は二代続けての任大臣の壁を破ることはできなかった。
 扶義の妻には、『尊卑分脈』や沙々貴神社所蔵佐々木系図によれば、藤原氏伊尹流の権大納言藤原行成娘や、光孝源氏の讃岐守源是輔の娘がいる。源是輔からは、左京二条四坊三町の冷泉邸を伝領している。
 ただし扶義の妻が藤原行成の娘では年代が合わない。ひろく伊尹流の女性と考える必要があるだろう。実は『中務集』(書陵部蔵御所本三十六人家集甲本)に一三八番の詞書に「むまごの大納言君、一条せうそうの女、歌合せしに、すけゆきが夜の梅」とある。これをそのまま受け取れば、歌人中務の孫であり、一条摂政伊尹の娘である大納言君ということになる。中務は歌人伊勢と敦慶親王(宇多皇子)の間に生まれた女性であり、源信明(滋野井弁源公忠の子)との間に娘井殿(ゐどの)をもうけた。その井殿と伊尹の間に生まれたのが大納言君だという。実際には大納言君は扶義の娘であり、これは大納言君が伊尹の娘腹である事実を踏まえた上での誤伝ではないかと考えられる。
 実際に伊尹の子息義孝・義懐と扶義は「義」の字を通字としており、またその子息の代でも行成(義孝の子)・成房(義懐の子)と成頼(扶義の子)も「成」の字を通字としている。当時は父方・母方を含め一族が同世代が通字を使用することは多く、扶義が伊尹の娘婿であった可能性は高い。また扶義の子孫から女流歌人が輩出したのも、伊勢・中務母娘の家系であれば納得がいく。
 扶義の子息には源成頼、源経頼、僧延尋がいる。『尊卑分脈』では、経頼、僧延尋、成頼の順で記されているが、『公卿補任』では経頼を扶義の次男とする。長男成頼は公達型の昇進をして四位中将に至ったが早世した。公達型の昇進をしたということは、成頼が祖父雅信あるいは伯父道長の養子になっていた可能性が高い。次男経頼は父扶義と同様事務官僚として昇進し、参議左大弁に至った。その日記は『左経記』として知られている。また僧籍に入った延尋僧都は四十代東寺長者の初例となったが、晩年は伝わらず没年も明らかではない。
 扶義の娘には、上東門院女房大納言(源簾子)、同じく上東門院女房小少将、そして粟田関白道兼の子息中納言兼隆の正妻の三人がいる。このうち扶義が舅讃岐守源是輔から伝領した冷泉邸は、兼隆の正妻に伝領された(『左経記』万寿三年六月十七日条、『日本紀略』長元二年正月二日条、『地名辞典』『平安京提要』)。大納言と小少将の母は、是輔娘ではなかったのだろう。成頼と同母であったと考えられる。
 大納言の君は、はじめ醍醐源氏権大納言源重光の子息四位少将源明理(のち左京大夫)の妻となっていたが、離別後に従姉妹・上東門院彰子の女房となった。大納言を女房名にしていることから、伯父時中の養女になっていた可能性がある。彼女は紫式部と仲の良い同僚で、『紫式部日記』でも才色兼備の女性として評判がいい。容貌が良かったため道長も夢中になり、その妾になった。道長の正妻である叔母倫子も許している。父扶義や兄成頼はすでに亡く、弟経頼がまだ若かったため、確かな身寄りのない彼女の境遇を心配してのことだろう。
 例えば道長の叔父太政大臣藤原為光の四女・五女も、道長(鷹司左大臣)の妾になっていた(『尊卑分脈』)。当時の女性は、大臣の娘でも父や兄弟を早く失えば、身寄りのないまま没落した。妾になるのはまだ良い方かもしれない。そのような現実を考えれば、叔母倫子が許したことも理解できる。さらに彼女の娘小兵衛(左京大夫源明理の娘)も上東門院女房となっている。
 『尊卑分脈』によれば、上東門院女房小少将も扶義の娘である。女房名少将は兄中将成頼に由来しているだろう。小少将は紫式部と親しい女房仲間であり、『紫式部集』は長和二年(一〇一三)の小少将の死を悲しむ紫式部のエピソードで締めくくられている。紫式部は小少将が亡くなったのち、彼女の手紙を見つけて悲しみのあまり、小少将の縁者加賀少納言に和歌を贈った。加賀少納言も紫式部に返答している。やはり紫式部と小少将は親しい。この紫式部と加賀少納言の二人の和歌がともに『新古今集』に選ばれている。
 加賀少納言は小少将の近親者と分かるが、紫式部と和歌の贈答をした長和二年(一〇一三)には源経頼はまだ二十九歳であり、加賀少納言の父とするには年代的に無理がある。加賀少納言の実父は成頼で、成頼の没後に伯父少納言経頼の養女になったのではないだろうか。

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