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zoom RSS 四位中将源成頼

<<   作成日時 : 2005/05/26 23:01   >>

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源成頼(九七六−一〇〇三)参議源扶義の長男。兵庫助、式部丞(『尊卑分脈』)。兵部大輔、式部大輔、鎮守府将軍(沙々貴神社所蔵佐々木系図)、近衛中将(『権記』)。
 一般には『尊卑分脈』の記述により扶義子息の兄弟順は経頼・成頼の順とされ、兄経頼の近江守受領にともない、弟成頼が近江佐々木庄に下向したと考えられている。しかし当時の資料『権記』によれば、長保三年(一〇〇一)八月四日当時成頼は四位中将であり(『権記』)、このとき経頼は従五位下であった。さらに『公卿補任』でも、経頼を扶義の次男とする。資料による限り、兄弟順は成頼・経頼でる。実は沙々貴神社所蔵佐々木系図は経頼・成頼の兄弟順で記しながら、成頼の生年を九七六年として、成頼が兄であることを暗示している。系譜伝承では史実を隠喩で伝えていることがよくある。作為や錯誤を捨てるのではなく、隠喩として読み込む方法論の確立を目指す必要があるだろう。
 成頼が四位中将であったことは、前述の藤原行成の日記『権記』長保三年(一〇〇一)八月四日条に「中将成頼朝臣」とあることで分かる。実名ののちに朝臣の敬称がつけられるのは、四位の殿上人である。また成頼の没年は長保五年(一〇〇三)八月七日条に「参内、詣内府、帰三条、成頼朝臣夜前亡去云々」とあることで分かる。沙々貴神社本では成頼の母を藤原行成の娘としているが、このとき行成は三十二歳であり、二十八歳の成頼の外祖父では年代は合わない。それでも『権記』の記述から、成頼が行成の縁者であったことは確実であろう。弟経頼の母は讃岐守源是輔だが、のち行成の娘娘になっており、やはり行成との関係は深い。
 また兄成頼が近衛中将という公達の官位昇進をとげたことにも注目できる。成頼が伯父道長の養子になっていた可能性も否定できない。それに対して弟経頼は父扶義と同様、弁官という事務官僚を経て、長元三年(一〇三〇)十一月五日の除目で参議に補任されている。そして長暦三年(一〇三九)没する直前に右大弁から左大弁に選任されている(『公卿補任』)。その日記『左経記』は、『台記』の記主左大臣藤原頼長が参照していたことで有名だ。このことでも経頼が優秀な事務官僚であったことが分かる。
 このように成頼は、『尊卑分脈』や沙々貴神社系図で伝えられているような武人ではなく、公達であった。実は成頼の長男斉頼(政頼)は前九年合戦当時の出羽守であり、三男良経(系図では義経)は前九年合戦当時の陸奥守で、のち兵部大輔に選任されている。沙々貴神社本で伝える鎮守府将軍(陸奥守の兼官)・兵部大輔という事跡は子息斉頼・良経のものであった。系譜伝承で成頼武人像が形成されたのは、成頼・経頼の兄弟順が誤り伝えられた結果、『権記』長保五年八月七日条の成頼亡去の記事が見落とされ、その後も生存したと思われたためだろう。しかも長男斉頼の名は「なりより」と読むのが一般的であるため、後世の人が成頼・義経父子が前九年合戦に参加したと資料を読み込んでも不思議はない。
 沙々貴神社本では成頼の娘として少将を伝えている。少将といえば、成頼の同母姉妹に小少将がいる。小少将は紫式部とたいへん仲が良かったため、小少将の没後に紫式部はあまりの悲しさに加賀少納言に歌を贈り、また加賀少納言からも返歌があった。この加賀少納言が、小少将の近親者である成頼の娘少将であろう。系図上の少将は少納言の誤りと考えられる。

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