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zoom RSS 『源行真申詞記』

<<   作成日時 : 2005/05/19 15:07   >>

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鳥羽院政期に近江佐々木氏で内部抗争があった。鳥羽院と美福門院得子のあいだに生まれた近衛天皇が即位して間もない永治二年(一一四二)二月に京都で新六郎友員という武者が殺され、検非違使庁は友員の伯父源行真を容疑者として取り調べた。この使庁の尋問に対する行真の陳述書が『源行真申詞書』(『平安遺文』六巻二四六七号)である。
 同文書は、当時検非違使別当(検非違使庁長官)であった閑院流藤原氏の内大臣三条公教の子息左大臣実房の日記『愚昧記』の紙背文書として、偶然に伝わったものである。子息実房が、用済みとなって破棄されて反古となった文書を貼り継いで、その裏に日記を書いたのである。このような資料は紙背文書(裏文書)と呼ばれ、当時の資料が偶然そのままの形で残されたものであるため、資料としての価値は高い。つぎに内容を見てみよう。
 新六郎友員が殺されたとき、人々は河内源氏源為義が犯人だと噂した。しかし検非違使庁によって容疑者とされたのは為義ではなく、友員の伯父源行真であった。
 まず行真は、友員殺害についてまったく知らないと答えたのち、友員にはもともと敵人があったとして、為義の郎等源七郎道正の名を挙げた。道正は行真の甥であり、道正と友員は従兄弟であった。
 以前、友員が道正の母と弟道澄を殺した報復として、道正が友員の母と兄友房・末高を殺害していた。そのため、友員殺害も道正の仕業に違いないと主張した。さらに道正の妹婿愛智三郎家次も共犯に違いないと主張した。
 行真は陳述の中で、子息のことについても触れている。長子は死去、次男守真は後三条源氏の左大臣源有仁領の下司であり、源有仁の許にいた。
 三男宗真は佐渡国司の許にいたが、当時佐渡の知行国主は前関白藤原忠実であった(『殿暦』天仁二年正月二六日条「賜国」)。宗真は佐渡国司の受領郎等だが、一般に受領郎等は国司に随行して任国支配の爪牙として活動する者であった。彼らの多くは位階はあるものの現職のない散位の文官・武官であり、受領とは双務契約関係にある同盟者である。しかし宗真は佐渡国司の許にあるといいながら、在京したままである。このことから宗真は、忠実が知行国主であった佐渡国の国司の在京目代(私設の代官)を勤めていたと考えられる。
 四男行正は、源為義の郎等であった。保延二年(一一三六)源為義が佐々木庄の道澄宅に下向した時に、父行真が臣従を求められた。このときは、行正が父行真に代わって為義の郎等になった。行真の娘婿道澄もそれ以前に為義の郎等になっていた。このように源為義は、藤原忠実領の警察権を握る預所になることで、藤原忠実の舎人であった地方豪族を郎等にしていたのである。もちろん彼らは前関白藤原忠実の舎人であり、また左大臣源有仁領の下司であり、為義とは双務契約関係にある独立性の強い家礼型郎等であった。
 行真は検非違使庁の役人に対して、三男・四男を参考人として差し出せというのなら差し出すが、二人は宇治入道藤原忠実の舎人であり、自分の居所も忠実の所領であると強く言った。行真は前関白忠実の名前を出して役人を脅したのである。
 つづけて行真は、事件の夜に友員の従者伊庭源太が傷を負いながら、成勝寺領伊庭庄内の清追捕使安貞の許に逃げ込んだと伝え聞いていることを述べている。行真は、この伊庭源太に尋ねればいいと主張した。もっともである。
 この行真の言葉から、友員の従者には、伊庭源太や清追捕使安貞など源姓や清原姓の者がいたことが分かる。このうち伊庭氏は源姓を名乗っているが、神崎郡大領佐々貴山公の子孫と考えられる。伊庭氏は友員の従者になることで、源氏を名乗ったのだろう。また清追捕使安貞は、近江国の警察権を握る近江追捕使を勤めた人物である。そのような人物を従者にするほど、友員は富を蓄え勢力を張っていた。しかも成勝寺は院政期に建立された六勝寺のひとつで、崇徳院の御願寺であった。友員は崇徳院に仕え、成勝寺領伊庭庄の下司を勤めていたのである。
 この事件は、単なる近江佐々木氏の内部抗争ではなく、実は中央政局を反映したものであった。父鳥羽院が弟近衛天皇を愛していたため、兄崇徳院の母待賢門院彰子の出身である閑院流藤原氏と、弟近衛天皇の母美福門院得子の出身である鳥羽院近臣派の対立が始まっていた。また大臣の地位をめぐって閑院流藤原氏三条実行・徳大寺実能兄弟と村上源氏雅定とが激しく競い、大臣の空席が続いていた時期でもある。友員は崇徳院の御願寺成勝寺領伊庭庄下司であり、その敵対人行真を取り調べた検非違使別当は、待賢門院彰子の実兄三条実行である。佐々木氏の内部抗争は、まさに新院崇徳院派と本院鳥羽院派の対立であった。友員が崇徳院・閑院流藤原氏側であり、行真一族が鳥羽院・村上源氏側であった。そして、この抗争は保元の乱に続いていく。
 『源行真申詞書』はまた、当時鳥羽院と藤原忠実の協調期であったことを示す貴重な資料でもある。この資料は、これまでも西岡虎之助『荘園史の研究』(下巻一、岩波書店、一九五六年)のほか、『新修大津市史』、上横手雅敬「院政期の源氏」(御家人制研究会編『御家人制の研究』吉川弘文館、一九八一年)、棚橋光男『王朝の社会』(小学館『体系日本の歴史』シリーズ4、一九九二年)、元木泰雄『藤原忠実』(人物叢書、吉川弘文館、二〇〇〇年)などで紹介されているが、いずれも藤原忠実の舎人であった源行真一族を崇徳院派と記述している。しかし実際には友員が新院崇徳院派で、行真が本院鳥羽院派であった。『源行真申詞書』で、その行真が藤原忠実にも従っていると記述していることで、永治二年(一一四二)二月当時、実は鳥羽院と藤原忠実の協調期であったことが分かる。
 『源行真申詞書』に登場する人物を、『尊卑分脈』や沙々貴神社所蔵佐々木系図に照らして該当人物を探すと、行真は経方の孫井上行実(権守)に該当する。また行真の次男守真は、行実の嫡子浅小井盛実(権守)に当たる。行真の一族は井氏または井伊氏を名乗り、一族からは「井」の字を使う井・井伊・浅小井・井上・平井氏などが出ている。井は井戸という意味だけではなく、清水が湧き出る場所やそこから流れ出る川を意味した。湖の国近江に相応しい家名といえる。
 三男宗真については、「宗」に尊ぶという意味があり「たか」とも読むため、宗真は「たかざね」と読むことができる。諱字の上下が逆転するが、伊庭実高(権守)と同一人物と考えられる。実高は伊庭権守と称しており、友員滅亡後に伊庭庄下司職を獲得したと考えられる。
 四男行正については、「ゆきまさ」と読むことのできる井上行方と同一人物であろう。沙々貴神社本では実高の本名を行政とした上で、御家人始めと記している。この記事で、行正が源為義の郎等になっていた史実が系譜伝承として正しく伝えられていたことが分かる。行正の事跡を行方ではなく実高に混入させているが、この錯誤でかえって沙々貴神社本が行真一族の系譜伝承をもとに作られたことが確認できる。
 また『行真申詞記』には登場しないが、行真の末子井伊真綱は近江守護佐々木定綱の郎等になっている(『吾妻鏡』建久二年五月八日条)。行真一族が、源為義の娘婿源秀義(佐々木源三)の子孫の郎党になっていたことが分かる。
 行真の娘婿道澄の兄源七郎道正は、木村定道(権守)の子息木村道政(新大夫)である。木村定道は、東大寺領近江国愛智郡鯰江庄下司紀貞道と同一人物と考えられる。鯰江庄下司は貞道の次男貞政が継承して、さらに景政・家政と受け継がれた(春日大社文書:文永五年正月日付鯰江庄下司相論由来)。そうであれば道正は紀氏である。
 また道正の妹婿家次は仮名が愛智三郎であり、愛智家行(権守)の子息平井家次(権守)に当たる。近江国愛智郡には郡司愛智秦氏があり、仁平三年(一一五三)三月五日に秦為次が近江掾(近江国司の三等官)に補任された(『本朝世紀』)。「次」の字が兄弟間の通字と考えられることから、家次は秦為次の兄弟の可能性がある。
 彼らは権守あるいは大夫を称しているように、従五位下に叙爵されていた。経済力で院に接近して、自らが開発した荘園を寄進し、位階を獲得していたのである。
 一方殺害された側の友員・友房・末高兄弟については、現存する佐々木系図に該当人物を見つけることができない。友員・友房・末高兄弟は、崇徳院の御願寺成勝寺領伊庭庄下司であり、しかも源姓や清原姓の者を従者にするほどの勢力を有していた。彼らも自分の領地を崇徳院に寄進して、自らは現地管理者である下司になっていた。彼らが佐々木系図から完全に除かれ、しかも行真の三男宗真(実高)が伊庭権守を称していることから、友員一族は没落し、宗真が伊庭庄下司職を獲得したと考えられる。
 宇多源氏扶義流佐々木氏は経方のとき初めて近江国佐々木庄に留住し、経方の子為俊(季定)は白河院の寵を得て左兵衛尉・検非違使・下総介・駿河守を歴任したが、為俊の弟行定(本名為兼か)の子孫は近江蒲生郡佐々木庄に留住し、地方豪族佐々貴山公・愛智秦公・在庁官人紀氏らと姻戚関係を結びながら、近江国蒲生・神崎・愛智郡に勢力を張った。そして彼らはその経済力で院や摂関家に接近し、自らが開発した荘園を寄進するとともに、五位の官位を獲得していたのである。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
今回のテーマもかなり貴重なものですねえ。この辺の研究・整理をこれだけなされている方はいないんではないでしょうか。素人からすれば、目からボロボロウロコが落ちてくるようです。この事例は歴史的にも佐々木氏的にも様々な面で勉強になります。お礼を申し上げます。
佐々木寿
2005/05/19 18:48
『源行真申詞書』は『平安遺文』(6巻02467号)に収められています。また西岡虎之助『荘園史の研究』(下巻一、岩波書店、1956年)のほか、『新修大津市史』、上横手雅敬「院政期の源氏」(御家人制研究会編『御家人制の研究』吉川弘文館、1981年)、棚橋光男『王朝の社会』(小学館『体系日本の歴史』シリーズ4)、元木泰雄『藤原忠実』(人物叢書、吉川弘文館)などで紹介されていますが、みなさん佐々木氏研究の専門家でないため、突込みが足りないです。またほとんどの方が、鳥羽院と藤原忠実がつねに対立していたと思われているので、敵味方関係の分析が誤っています。
佐々木哲
2005/05/19 20:49

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