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zoom RSS 蔵人の尉定綱

<<   作成日時 : 2005/05/17 16:23   >>

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佐々木定綱(生年未詳−一二〇五)秀義の長男。母源為義娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。佐々木太郎、佐々木左衛門尉、佐々木判官(『吾妻鏡』)。
 父秀義に従い東下して、はじめ下野宇都宮朝綱の許に寄寓するが、のち父秀義の指示で弟盛綱とともに伊豆配流中の源頼朝に近侍した。治承四年(一一八〇)八月の源頼朝の挙兵では、弟経高・高綱とともに伊豆目代山木兼隆の後見堤信遠を討った。弟盛綱は始め加藤景廉とともに頼朝の側近に仕えていたが、頼朝の命で追討軍に加わり加藤景廉とともに兼隆の首を獲った。同月の石橋山の合戦では敗走したが、同年十月の富士川の合戦で勝利、定綱ら佐々木兄弟も恩賞を得た。定綱が本領佐々木庄を安堵されたのはこのときだろう。同年十一月の佐竹秀義討伐で定綱は弟盛綱とともに従軍している(『吾妻鏡』)。
 こののち定綱は頼朝近臣として行動している。同じ治承四年十二月十二日頼朝新邸移徙に供奉し(『吾妻鏡』)、寿永元年(一一八二)八月十七日源頼家の産所から営中への移徙でも、定綱・経高・盛綱・高綱兄弟が頼家の輿を担いでいる(『吾妻鏡』)。文治元年(一一八五)三月二十四日壇ノ浦の戦いで治承・寿永の内乱が終わり、九月十日定綱は勝長寿院(源義朝)供養の沙汰人を命じられている(『吾妻鏡』)。
 しかし文治元年(一一八五)は、頼朝と義経の対立が顕在化した年でもあった。同年八月四日定綱は源行家追討を命じられ(『吾妻鏡』)、同年十一月二十九日謀反人追捕のため守護・地頭の設置が朝廷から許された。これが実質上の鎌倉幕府成立である。このとき定綱・経高・盛綱・高綱ら兄弟で十五か国の守護に補任されている。
 定綱は近江守護職と佐々木庄総管領職を得た。これは佐々木庄領家・預所職が平氏に没官された後、平清盛の病気平癒祈願の千僧供料として比叡山に寄進されたため、領家・預所職相当で地頭を兼職する総管領職に定綱を任じたものだ。現地管理者下司本佐々木氏は、定綱の支配下となった(『吾妻鏡』文治元年十月十一日条)。
 これ以後『吾妻鏡』に定綱の荘園押領の記事が見られるようになる。加茂別雷神社領近江高島郡安曇河御厨の押領の停止を命じられた記事(『吾妻鏡』文治二年九月五日条)、浅井郡草野庄大吉寺の料米を兵糧米として押領することの停止を命じられた記事(『吾妻鏡』文治三年二月九日条)、頼朝によって免官されていた按察大納言藤原朝方の所領近江田根庄を朝方復位後も押領し続けたことの停止を命じられた記事(『吾妻鏡』建久元年十月九日・十二日条)である。
 しかし源頼朝の定綱に対する信任は厚く、建久元年(一一九〇)十一月の頼朝入洛では定綱が警固を命じられている(『吾妻鏡』建久元年十一月八日条)。京都の情報も定綱の飛脚によって得ていた(『吾妻鏡』建久元年四月二十日条ほか)。
 また定綱は京武者としても蔵人・左衛門尉・検非違使に補任され(『山槐記』文治四年十月十四日条ほか)、九条兼実の日記『玉葉』文治三年(一一八七)正月三日条では九条家殿上人として見え、『玉葉』文治六年(一一九〇)正月三日条では後鳥羽院の御元服奉行として見える。定綱と後鳥羽院の関係は深く、定綱の娘大進は後鳥羽院皇女の春華門院昇子内親王の女房になっている。しかも大進という女房名は中揩フ女房のものであり、父定綱が四位・五位の殿上人あるいは諸大夫であったことが分かる。また大進という女房名から、父定綱が中宮大進に補任されていたと推測することもできる。
 ところが建久二年(一一九一)四月定綱と山門の抗争が勃発した。前年近江に大水害があり、多くの荘園が年貢未進となり困窮した山門僧兵による暴力事件が多発した。佐々木庄も同様で、日頃から佐々木庄を千僧供料と主張していた山門僧兵は激昂し、日吉社僧を佐々木庄に乱入させました。定綱が京官で留守だったため次男左兵衛尉定重が防戦、日吉社僧を刃傷し、さらに過って日吉社の神鏡を破損した。怒った山門僧兵が蜂起して朝廷・幕府に定綱父子の身柄引き渡しを求めた。摂政九条兼実も山門の非道に憤慨したが、定綱父子の配流で決着した。定綱は薩摩、長男広綱(左兵衛尉)は隠岐、次男定重(左兵衛尉)は対馬、三男定高(小三郎)は土佐に配流、郎等堀池八郎実員・井伊六郎真綱・岸本十郎遠綱・源七真延・源太三郎遠定は禁獄となった(『玉葉』『吾妻鏡』)。それでも収まらない山門僧兵は、五月二十日配流途中の定重を捕らえて近江唐崎で殺害した(『吾妻鏡』)。
 建久四年(一一九三)三月十三日後白河院の一周忌で恩赦があり、十月二十八日には鎌倉に参着した。十一月二十七日の薬師堂供養に供奉している。さらに十二月二十日には近江守護職・佐々木庄総管領職など本領安堵とともに7カ所の新恩給付があり、長門・石見守護、隠岐一国地頭にも補任された(『吾妻鏡』)。
 建久五年(一一九四)正月八日法成寺参拝を最後に、『玉葉』に蔵人定綱の記事が見えなくなる。これは五位昇叙のためだろう。翌年の建久六年(一一九五)三月東大寺大仏供養では、源頼朝に随って弟経高・盛綱とともに参列している(『吾妻鏡』)。
 正治元年(一一九九)正月源頼朝が没して、源頼家が鎌倉殿を世襲した。翌正治二年(一二〇〇)正月定綱は在京していたが、十五日頼家に歳首の椀飯を献じている(『吾妻鏡』)。また北条政子は頼朝の冥福を祈るための十六羅漢図を、京都の画工に依頼するよう定綱に託していたが、同年七月六日に政子の許に届いている(『吾妻鏡』)。
 建仁三年(一二〇三)六月二十三日源頼家の命で阿野全成が討伐されたが、その子頼全が京都で謀反を起こすという風聞があった。そのため翌二四日に定綱は阿野頼全討伐を命じられ(『吾妻鏡』)、七月十六日に討っている(『尊卑分脈』定綱の項)。
 同じく建仁三年九月源実朝が新将軍に補任されると、十月九日定綱は中条家長とともに将軍代始の使者として鎌倉を発ち十九日上洛している。これは京畿の御家人、および在京の平賀朝雅(武蔵守)・中原親能(掃部頭入道寂忍)らに新将軍に忠節を誓わせるためのものであった(『吾妻鏡』建仁三年十月十九日条)。
 また同年五月延暦寺西塔釈迦堂衆が学徒と対立し、八月には対立が発展して堂衆が坂本八王子山に城郭を構えていたが、十一月十五日定綱・経高・盛綱・重綱(高綱の子)ら官軍が堂衆を追討した。さらに翌年正月延暦寺堂衆の残党が蜂起したため、定綱が勅命を受けて追討している(『明月記』元久元年正月二十一日条)。
 元久二年(一二〇五)四月七日病気のため出家し、同月九日に没した(『吾妻鏡』)。法号は大泉光寺殿である。
 男子は広綱、定重(鏡)、定高(沢田)、信綱、広定(馬淵)、時綱(佐保)、行綱(伊佐)、頼定(山中)、僧定厳、僧定賀がいた。また女子には、西園寺公経の弟公暁室(北野別当公澄権僧都母)、春華門院大進(閑院流八条実俊室)、沙々貴神社神主平井定景室がいた。とくに女子の嫁ぎ先に東国御家人がなく、二人が閑院流藤原氏に嫁いでいることに注目できよう。定綱は官歴といい閨閥といい、鎌倉御家人というよりも、鎌倉殿出仕の京武者といった方が適切かもしれない。
 佐々木氏の家紋も、定綱のときに定まった。佐々木氏の代表紋四目結紋は、実は九条家の衣冠の文様である。定綱が九条家家礼として四目結紋の冠を被ったことから、佐々木家紋になったものだ。九条流は隅立て四目結紋が正式であり、佐々木氏の紋も隅立て四目結紋が正式だ。平四目結紋は有力庶子家京極氏の紋であり、江戸時代中期に丸亀藩主京極家が沙々貴神社を再建したため、以後、同神社でも平四目結紋を使用している。菊桐紋も、定綱が後鳥羽院蔵人として拝領した衣服の紋であったと考えられる。

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 佐々木定綱は薩摩の国にながされていますが、これは薩摩の国に近衛家の荘園、島津庄があったからでしょうか?
 ちなみに、この島津庄は1026(万寿3)年に開発され、藤原頼道から近衛家に継承されたもので、建久8年には薩.隅.日の総田数15100町のうち、8200町が島津庄のものだったそうで、島津氏は島津庄の地頭になるにあたり、近衛家の養子となって島津氏と藤原姓を名乗ったそうです。
 佐々木氏は藤原氏と関係があり、佐々木定綱がこの地に流されたのも、その所縁故でしょうか?
 また、寛文年間に書かれた島津家の家系譜資料の諸家大概(現在、原本は行方不明、明治21年の複製本が鹿大付属図書館にあり)に「東鑑に佐々木三郎盛綱薩摩国に配流被仰付数年薩州に罷在其後被召直と有り」とありますが、これは佐々木定綱のことでしょうか?それとも、佐々木盛綱のことでしょうか?
道下熊助
2007/12/29 13:34
定綱は比叡山との抗争で薩摩に流されています。ただし、薩摩に流されたのは遠国だったからです。そこから近衛家や島津家との関係を類推することはできないと思います。
佐々木哲
2008/01/19 22:14
知り合いに伊佐さんがいます
京都の岩倉地方の人です
この方も先祖は佐々木氏といっていました
場所柄から、先祖は足利の奉公衆か何かだったのでしょうか?
長州の佐々木だったそうですが、京都に来た来歴に興味がわきました
伊佐さん御自身は知らないみたいです
東軍西軍
2016/09/15 12:08
伊佐氏は佐々木庶流で、鎌倉初期の近江・石見・長門守護佐々木定綱の七男行綱(七郎左衛門尉)が長州伊佐別府を相伝したことに始まります。近江蒲生郡香庄も相伝して室町幕府奉公衆となりました。

佐々木定綱―行綱(七郎左衛門尉)―義綱(二郎左衛門尉)―兼綱(二郎)―女子(伊佐三郎基綱母)

佐々木定綱―行綱(七郎左衛門尉)―尚綱(六郎左衛門尉)―光綱(彦六)―基綱(三郎、惣領職相伝)―正綱(二郎)―直綱(源三)―氏綱(五郎左衛門尉)―範綱(六郎左衛門尉)―茂綱(七郎左衛門尉)―康綱(七郎左衛門尉)―時綱(出奔、仕浅井長政)

長門国桜山南原寺は、建武2年(1332)佐々木伊佐直綱による花山法皇秘密法会の供養田など多くの寄進により益々栄え、当時は里に阿弥陀堂、法華堂、地蔵堂、鳴滝寺、光照寺、御影堂、小杉寺等多くの寺領と末寺を有し、山内には西の坊、東の坊、中の坊、上の坊、谷の坊、中谷坊などの諸堂宇が散在し末寺を含め周囲仏閣は124坊を数えるに至ったといいます。

また一族の伊佐行光は大内氏に仕えて、子隆光は陶晴賢の乱のとき大内義隆に随い自刃し、孫元綱は毛利氏に仕えて、佐々木氏に復しています。
佐々木哲
2016/09/16 01:09
追伸:その伊佐さんには系図や資料が残っていますか?もし残っっていたら、写真か複写がほしいです。
佐々木哲
2016/09/16 01:12

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