隠岐守義清

佐々木義清(生没年未詳)秀義の五男。母渋谷重国の娘。佐々木五郎。左衛門尉、出雲守、隠岐守。出雲・隠岐守護。紋は輪違い。平治の乱で敗れた父秀義は、近江佐々木荘領家・預所職を没官されて奥州藤原秀衡を頼り東下しましたが、途中相模で秀義の武勇に惚れ込んでいた渋谷荘司重国に引き留められて娘婿になりました。その重国の娘との間に生まれたのが五郎義清です。義清は成長すると、大庭景親の娘婿になりました。治承4年(1180)頼朝挙兵に定綱・経高・盛綱・高綱ら兄たちは参陣しましたが、父秀義と義清は渋谷重国の恩に応えるため、重国とともに平家方の大庭景親の許に参陣しました。そのため同年12月26日義清は囚人として兄盛綱に預けられましたが、しかしまもなく赦免され、近江守護になった父秀義に同行しました。
 元暦元年(1184)7月伊勢・伊賀平氏が挙兵して伊賀守護大内惟義が敗れると、秀義・義清父子は直ちに出陣して甲賀軍で撃退しましたが、秀義は流れ矢に当り戦死。父秀義は功績によって近江権守を贈られました。
 文治5年(1189)奥州藤原泰衡追討では兄盛綱とともに従軍。以後、義清は有力御家人の一人として、幕府の諸行事に参列。建永元年(1206)11月20日将軍御出のことを掌る奉行になりました。将軍実朝の信任が厚かったことが分かります。建保元年(1217)5月の和田義盛の乱では御所を警固して、結城朝光とともに大倉に陣を張りました。
 承久元年(1219)正月左衛門尉に補任。『吾妻鏡』同年正月25日条に御調度懸として「佐々木五郎左衛門尉義清」が登場します。義清の任官は兄たちばかりではなく、甥広綱(大夫判官)・信綱(左近将監)・高重(弥太郎左衛門尉)・盛季(小三郎兵衛尉)らよりも遅い任官です。これは義清が在京御家人として活躍した兄たちと異なり、東国生まれ・東国育ちであったため東国御家人と位置づけられていたからでしょう。
 嘉禄元年(1225)正月27日に出雲守に補任(『明月記』嘉禄元年正月28日条)。安貞元年(1227)3月11日隠岐守に補任(『明月記』安貞元年3月11日条)。出雲・隠岐守護職は長男政義(隠岐太郎左衛門尉)・次男泰清(隠岐次郎左衛門尉、信濃守)に世襲され、泰清の子孫から隠岐守護隠岐氏、出雲守護塩谷氏が出ました。とくに隠岐氏は、引付衆・評定衆に列する有力東国御家人となりました。

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この記事へのコメント

弾正小弼
2019年12月07日 12:45
(近江の隠岐氏)  
隠岐守護佐々木清高は、鎌倉幕府に殉じて、六波羅探題北条仲時とともに近江番場で自害したため、鎌倉幕府評定衆を勤めた義清流隠岐氏の嫡流は途絶えた(1333年)。清高の末子重清は、幼少のため隠岐に留まり、難をのがれ、時宗の遊行11代自空となった。清高の弟信濃守秀清には4子あった。その1人である隠岐入道自勝(氏清)は京極道誉が出雲・隠岐の守護になった時に隠岐守護代となった。11代自空と「自」が通字である。なお、隠岐秀清の従兄弟が京極道誉であり、時宗の保護者であった。(以上、佐々木哲先生のご研究を参考にしました。)隠岐守護が京極氏から山名氏に変わった後、隠岐氏は近江において、義清流の命脈を保ちつつ、京極氏の被官として厚遇されたと考えられる。「江州佐々木南北諸士帳」によると、近江坂田郡の長岡に隠岐五郎左衛門がいる。「明徳記」によると、京極高詮が出雲・隠岐の守護となった時に、高詮は、隠岐五郎左衛門を出雲に派遣し月山富田城を接収した。(1392年)その後、隠岐五郎左衛門清泰は隠岐守護代として再起を果たした。(1395年、億伎国造文書)通説では、隠岐五郎左衛門を京極秀重とするが、佐々木系図では、京極氏が隠岐氏の名跡を継いだ形跡はない。隠岐秀清(母は京極宗綱娘)の子孫と考えられる。また、隠岐守護代は代々五郎を名乗る。五郎は五郎義清の嫡流の意味であろう。なお、隠岐小守護代は義清の子孫である重栖氏である。隠岐国府尾城の最後の城主は佐々木少輔五郎光清(1583年没)である。
一方、近江坂田郡の上平寺城城主である京極高清の家老に隠岐修理介がいて、庭園を伴った守護所である京極氏館内に屋敷があった。「淡海温故録」によると、隠岐修理介は出雲に派遣された義清流の隠岐五郎左衛門の子孫である。また、「江北記」によると、京極氏の重臣に、一族(当方御家子也)である一圓氏、高屋氏、隠岐氏(五郎義清の子孫也、奉書判をせらるる也)の3氏がいる。(以上、1500年頃)なお、近江坂田郡の大清水にある真宗佛光寺清伝寺は、隠岐修理介の子孫である大岐兼治の開基(1591年)である。大清水は、上平寺城の前衛基地であり、清伝寺は隠岐氏の屋敷跡にある。京極高清の時代に、隠岐氏の近江の所領は、長岡ではなく大清水にあった。佛光寺派は、荒木門徒の流れを組むが、荒木門流の本寺格の寺院である最宝寺が鎌倉の京極氏の所領内に存在していた。なお、初期真宗のなかでは、佛光寺派の勢力が強いが、彼らは、時宗の影響を強く受けていたという。