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zoom RSS 隠岐守義清

<<   作成日時 : 2005/04/06 23:57   >>

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佐々木義清(生没年未詳)秀義の五男。母渋谷重国の娘。佐々木五郎。左衛門尉、出雲守、隠岐守。出雲・隠岐守護。紋は輪違い。平治の乱で敗れた父秀義は、近江佐々木荘領家・預所職を没官されて奥州藤原秀衡を頼り東下しましたが、途中相模で秀義の武勇に惚れ込んでいた渋谷荘司重国に引き留められて娘婿になりました。その重国の娘との間に生まれたのが五郎義清です。義清は成長すると、大庭景親の娘婿になりました。治承4年(1180)頼朝挙兵に定綱・経高・盛綱・高綱ら兄たちは参陣しましたが、父秀義と義清は渋谷重国の恩に応えるため、重国とともに平家方の大庭景親の許に参陣しました。そのため同年12月26日義清は囚人として兄盛綱に預けられましたが、しかしまもなく赦免され、近江守護になった父秀義に同行しました。
 元暦元年(1184)7月伊勢・伊賀平氏が挙兵して伊賀守護大内惟義が敗れると、秀義・義清父子は直ちに出陣して甲賀軍で撃退しましたが、秀義は流れ矢に当り戦死。父秀義は功績によって近江権守を贈られました。
 文治5年(1189)奥州藤原泰衡追討では兄盛綱とともに従軍。以後、義清は有力御家人の一人として、幕府の諸行事に参列。建永元年(1206)11月20日将軍御出のことを掌る奉行になりました。将軍実朝の信任が厚かったことが分かります。建保元年(1217)5月の和田義盛の乱では御所を警固して、結城朝光とともに大倉に陣を張りました。
 承久元年(1219)正月左衛門尉に補任。『吾妻鏡』同年正月25日条に御調度懸として「佐々木五郎左衛門尉義清」が登場します。義清の任官は兄たちばかりではなく、甥広綱(大夫判官)・信綱(左近将監)・高重(弥太郎左衛門尉)・盛季(小三郎兵衛尉)らよりも遅い任官です。これは義清が在京御家人として活躍した兄たちと異なり、東国生まれ・東国育ちであったため東国御家人と位置づけられていたからでしょう。
 嘉禄元年(1225)正月27日に出雲守に補任(『明月記』嘉禄元年正月28日条)。安貞元年(1227)3月11日隠岐守に補任(『明月記』安貞元年3月11日条)。出雲・隠岐守護職は長男政義(隠岐太郎左衛門尉)・次男泰清(隠岐次郎左衛門尉、信濃守)に世襲され、泰清の子孫から隠岐守護隠岐氏、出雲守護塩谷氏が出ました。とくに隠岐氏は、引付衆・評定衆に列する有力東国御家人となりました。

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