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zoom RSS 四郎左衛門尉高綱

<<   作成日時 : 2005/04/05 22:53   >>

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佐々木高綱(1160-1214)秀義の四男。母源為義の娘。佐々木四郎。左衛門尉。父秀義東下のときはまだ幼かったため、京都吉田の叔母の下で育てられた。しかし成長しても平氏には従わず、治承4年(1180)には東下して、兄定綱・経高・盛綱とともに源頼朝の挙兵に参加。元暦元年(1184)宇治川の戦いでの梶原景季と先陣争いは有名(25歳)。文治元年(1185)守護地頭の設置では長門守護。『尊卑分脈』では因幡・伯耆・出雲・備前・安芸・周防・日向等の守護になったとも伝えます。さらに同年には兄定綱とともに左衛門尉に補任。これは鎌倉御家人の中でももっとも早い任官といえます。治承・寿永の内乱での高綱の勲功が抜群であったこともありますが、定綱も高綱も京育ちであり、乱後に在京人として京都の警固に当っていたからと考えられます。
 建久2年(1191)4月兄定綱と比叡山の抗争で、山門が定綱の身柄を求めて京都に出勢しましたが、高綱は大江広元(大夫判官)・北条時定(左衛門尉)・小野成綱(左衛門尉)らとともに在京人として京都を警固。とくに高綱は定綱の実弟であったため、山門衆徒を引き付ける役となりました。このとき定綱父子は配流になりますが、この事件で在京人佐々木氏が京都警固の役についてことが確認できます。
 また高綱は早い時期から東大寺再建を目指す重源に帰依していましたが、建久2年(1191)閏12月9日源頼朝から正式に東大寺再建のため材木奉行に任命されています。在京人であったため仏教界との結びつきも強かったのでしょう。のちの高綱の出家の伏線も、このようなところにあったのかもしれません。しかも、このとき高綱は周防守護であったことが『吾妻鏡』で確認できます。系譜伝承に見られる7カ国守護も誤りではないようです。
 建久4年(1193)後白河院の仏事では、召し集められた長絹500疋を進上する役を勤め、2月3日に鎌倉を発っています。このように東使も勤めたことから、高綱は朝廷からも信用が厚かったことが分かります。
 しかし建仁2年(1202)出家。高野山に入り、蓮華三昧院を建立して号しました。高綱の出家の理由を、『尊卑分脈』では「北陸道を賜ったといえども、なお不本意によって」と記し、恩賞が少なかったためと伝えています。しかし実際の出家は頼朝没後であり、恩賞が少なかったことによるとは考えられません。むしろ建久10年(1199)源頼朝が没した直後に、三兄盛綱が所領を収公され、翌年の正治2年(1200)次兄経高が淡路・阿波・土佐の兵を率いて京都で騒乱を起こしたとして守護職を解任されているように、2代将軍頼家と佐々木氏の対立がありました。これらの動きが高綱出家の伏線であったと考えられます。
 その高綱出家の翌年である建仁3年(1203)に、長男重綱(太郎左衛門尉)が後鳥羽院の院宣を奉じて、広綱(定綱の長男)・経高・盛綱らとともに延暦寺堂衆を追討しましたが、重綱は討死しました。このとき高綱は出陣する重綱を一言も交わさず秘かに見送りましたが、このとき重綱の鎧が身体に合っていなかったことから、重綱の戦死を予見したと伝えられています。これも高綱の英雄伝説のひとつといえるでしょう。優れた資質を持ち成功もするのですが、孤独な人生でもある。そんな英雄として高綱像は描かれています。
 高綱は建保2年(1214)に没したと伝えられますが、高綱の終焉の地は不明です。しかし信濃や出雲など各地に高綱が建立したと伝えられている寺院があることは、高綱が各地を遊行していたということを隠喩していると考えられます。
 前述のように高綱の長男重綱は戦死しますが、次男光綱は出雲守護佐々木義清(隠岐守)の養子になり、出雲能義郡に住して野木氏の祖になりました。また娘は、建礼門院の跡を継承して大原寂光院主になっています。

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コメント(25件)

内 容 ニックネーム/日時
返事ありがとうございます。系譜につきましては、早速コ−ピーさせていただくように、話をしてみます。所で話が、変わりますが、佐々木高綱の家紋は、丸に隅立四つ目結でしょうか、私供の筑後地方に、佐々木高綱公のご落胤、佐々木三蔵利綱の末裔、佐々木高栄様の家紋は京極家の、家紋と同じ平四つ目結です。この佐々木高栄様、福岡県の小郡市鯵坂町に住んでいますが、勧正寺の家紋と、違うのは何故かわかりません。佐々木様、私の、うきはの佐々木は、うきは市、勧正寺は朝倉市、佐々木高栄様は小郡市
です。このかいわいを、筑後地方といいます。佐々木一族関係を調べて行きます。宜しくお願いします。
うきはの佐々木
2006/11/10 08:19
@高綱はとても人気がある人物で、歌舞伎の演目にも登場しますから、高綱の子孫を名乗る家すべてが高綱の子孫とはいえません。高綱の子孫という先入観を持たずに、調査した方がいいと思います。

A高綱の家紋は不明です。『源平盛衰記』では三つ目結紋としますが、同書は鎌倉後期の作品と考えられ、根本資料にはなりません。

B目結紋は本来、高綱の長兄定綱の四男信綱の子孫(六角・京極・大原・高島流)の家紋だったものです。ところが六角氏・京極氏らが一族や家臣に目結紋を下賜したので普及し、佐々木氏の代表紋になり、やがて佐々木一族であれば誰でも使用するようになったものです。ですから目結紋から、佐々木氏のどの流れか判断することはできません。

高綱の子孫という先入観を持たずに、丹念に郷土史を調査された方が近道と思われます。
佐々木哲
2006/11/10 09:16
 うきはの佐々木さんの地元、うきは市は江戸時代、柳川藩立花氏の領地であり、福岡藩黒田家とは別の藩だったとおもいますが、柳川藩の分限帳(士族名簿)には、佐々木士族はおられないのでしょうか?
道下熊助
2007/12/04 16:11
浮羽の佐々木氏は中世からの家ですから、近世大名としてどの家が入封したかは関係ありません。九州には鎌倉・室町時代からの佐々木氏は多くあります。佐賀鍋島家も佐々木氏の子孫という系譜伝承を持っています。薩摩の大山氏もそうですね。続群書類従本佐々木系図の中に、薩摩大山氏につながる系図が含まれています。
佐々木哲
2007/12/05 00:34
 返事ありがとうございます。
 薩摩の大山氏についてですが、先生のご存知の範囲と思いますが佐々木高綱の孫、野木行綱が建久7年に島津忠久に従い薩摩に下向し応永32年、その6世孫の友綱(「さつまの姓氏」と違う本では佐々木友綱とあります。)が大隅から頴娃郷大山に移住し、大山氏を称したそうですが、「頴娃町郷土史」ではこの家は開聞神社の社家で、おなじ社家の有馬氏や池田氏とともに薩摩藩の郷士一門として広がったそうです。
 ちなみにこの友綱の10世孫の大山綱毅
の養子、大山彦八綱昌は西郷吉兵衛隆盛(あの西郷隆盛の父)の弟でその三男が大山巌陸軍大将らしいです。
 大山巌家の家紋は「丸に隅立て四つ目」とのことです。
道下熊助
2007/12/14 17:54
詳しいご報告ありがとうございます。参考にさせていただきます。
佐々木哲
2007/12/19 10:33
 「元帥公爵 大山巌」(尾野実行編)に大山氏祖の佐々木行綱の弟の泰綱は乃木希典の祖先らしいことがありましたが、ほんとうですか?
道下熊助
2007/12/26 12:16
こんにちは。初めてメールさせてもらいます。私の家も野木姓を称しており本サイトは大変お世話になっています。当家は江戸時代には淡路島の旧五色町で藍染物を扱う商家で「近江屋」を屋号とし、野木姓は江戸期より称してしています。18世紀中頃に淡路由良浦の近江屋本家(こちらも野木姓)より分家したようですが、本家は戦後、淡路から離れているため、分家する以前の伝承・古文書類は残存していません。家紋は「丸に木の角字」、分家して私で9代目になります。ご存じのように、尊卑文脈によると野木氏は、得宗家の偏諱を受けた当主が鎌倉末まで記録されていますが、その後、南北朝期以降の動向については記録が皆無に等しい状態です。(果たして嫡流といえる家の存在には懐疑的です)
近江屋儀八(1)
2008/02/11 20:48
乃木姓については、乃木氏については但馬国宮内総持寺や発掘資料に若干の名が見えるようではありますが、乃木希典が奉じた系譜については不自然な点が多く、光綱の子とされる泰綱については尊卑文脈にも見えないことから、藩政以前の記録は信ぴょう性が低いと考えています。大山氏の野木氏族説も、少々、話が出来過ぎではないでしょうか。野木姓で尊卑文脈以降の系譜伝承を有する家がないか関心のあるところですが、中世資料の発見は難しいでしょう。出雲国に在した二郎左衛門尉光綱の所在についても能義郡野城郷、意宇郡野木(乃木)保説があり詳細は不明で、一度、現地の郷土史等にもあたってみたいところです。野木氏は高綱流のほかに、関東の秀郷流、利仁流なども栄えてはいませんが伝わっており、また、各地の地名起源の一族もあるでしょうから、著名な氏との安易な結びつけは慎むべきところと考えています。
近江屋儀八(2)
2008/02/11 20:49
しかしながら、大族でもなく淡路島内に野木という地名はなく、野木姓は現在一世帯のみであり、商人という流動性の高い家業を考え併せると江戸時代初期以前に島外より淡路島由良浦に移住し、出自縁故の「近江」を屋号としたものと考えています。(出自縁故を佐々木氏と結びつけたいのは人情ですが可能性のひとつ程度でしょう。)先生ご指摘の通り高綱流と称する家の四つ目紋使用は、佐々木氏の系譜意識し後世に採用したものと考えます。以前、勤務のの関係で岩手県沿岸部で勤務したことがありますが、江戸中期以降に高綱流を称した佐々木さんが非常に多くありました。(閉伊源氏と称した田鎖氏も祖・源頼基=閉伊行光が高綱猶子を称し、末裔に伝わる系図にはご丁寧に野木二郎光綱も記載されています。)田鎖一族の存在もあり、おそらく、綱流を得意とする系図師が徘徊していたのでしょう。大身の武家が無く仮冒も容易だったのかもしれません。高綱流に関して先生の今後の研究を期待しています。散漫なコメントとなりましたが、野木氏についてご存知のことがあれば、御教示のほど、よろしくお願いいたします。
近江屋儀八(3・分割してすいません)
2008/02/11 20:50
四郎高綱流の研究は難しいですね。今後の研究課題にしたいと思います。確認ができるのは、高綱・重綱父子のみです。光綱については叔父五郎義清の養子になり、隠岐流に吸収されていますから、隠岐流の研究をすすめていく中で、思慮が見つかるかもしれません。

また江戸初期に公家葛岡宣慶(宇多源氏庭田流)の子息が野木氏を称していますが、詳しくは分かりません。葛岡が佐々木広綱流の家名であるように、庭田家は佐々木野・六角・葛岡・大原など佐々木流の家名の復興をしています。今は、この野木家について興味を持っています。
佐々木哲
2008/02/11 22:14
御返事いただきありがとうございます。葛岡氏の情報は初耳で私も調べてみたいと思います。家名復興であれば佐々木氏族としての野木氏が認識されていたと考えて良いのかもしれません。

なお、当家については明治19年に私の高祖父の弟がノルマントン号事件の犠牲となっているのですが、このことに着目した作家により同事件と佐々木氏族・野木氏の系譜を絡めたミステリー小説が10年ほど前に出版されております。
「血食―系図屋奔走セリ」物集高音著(講談社ノベルス・単行本(ソフトカバー))
同事件の際には、大山巌氏から義援金をいただいており奇遇なのですが、もしかすると野木姓の犠牲者名を見てのことだったのかもしれません。

光綱以降についての調査は、私も難しいとは思いますが、今後も引き続き調べてみたいと思うので、何か発見があれば御報告させていただきます。
近江屋儀八
2008/02/11 23:40
はじめまして兵庫県川辺郡猪名川町の野木と言います。佐々木三太夫高春の弟高重の末裔と思われる野木家の主が主人です。野木利右衛門高重に関係する文献が少なく、摂津の国内馬場で奉行をしていたということなのですが。乃木希典大将までの系図は、たくさん出ていますが、高泰から分かれた高重に関する文献がありましたら教えて頂けませんか?よろしくお願いいたします。
ユーミン
2009/01/22 22:25
高綱の子孫で確認できるのは、重綱・光綱・高重・泰高・景元です。また江戸初期の公卿葛岡宣慶の子息に、野木を名乗った者がいることが確認できるだけです。乃木希典家の系図についても歴史的に確認されたものではありませんので、それに頼らずに調査されるのがいいかと存じます。
佐々木哲
2009/01/22 22:32
お世話になっています。
週末に関西方面の出張があり、よい機会なので安土の沙沙貴神社を参拝してきました。
安土町立図書館で佐々木高綱・野木氏関係の文献をいろいろと探してこましたが、太田亮氏が整理した尊卑分脈、中興系図、浅羽本以上の情報を得ることはできませんでした。

鎌倉幕府滅亡から江戸中期までの間の空白を埋めるのは、やはり無理かという気もしています。乃木希典や玉木文之進が編纂した乃木氏系図の中世部分は、歴史に痕跡をとどめている野木・乃木姓の人物を繋ぎ合せ、乃木冬嗣につなげたと思われますが、その際に参考にした資料については関心のあるところです。(次につづく)













近江屋儀八
2010/03/22 20:53
(続きです・)
文献やネット検索でヒットする野木・乃木姓の人物を若干整理してみました。
(乃木氏系図は除く)

(鎌倉期の出雲国内の地頭職)
乃木七郎ほか乃木姓の地頭の名がみえる。
乃木七郎は光綱の子・七郎景元に推定。

(太平記)
・野木與一兵衛頼玄が高師直与力の兵として登場(ただし読みは「やぎらいげん」)
(梅松論)
・登場する場面は太平記と同じだが、反対に南朝方結城氏の武将として登場
(太平記)
・三十八 野木備前次郎

(但馬國宮内惣持寺本尊造立奉加帳(天文3年−1535)総持寺奉加帳)
乃木日向守、乃木丹後守の記載

(宮内堀脇遺跡出土の木札)山名氏宗家の居城此隅山城の武家屋敷跡
「乃木出羽守」の記載 裏面に「永禄12年(1569)8月24日」

(信長公記)
・野木次左エ門(稲葉一徹の甥という系図もあるらしい)
・美濃斎藤氏家臣・織田信長への刺客六人のうち一人 

尊卑分脈は県立図書館レベルでも収録されている本を閲覧できますが、
浅羽本、正應奥書、中興系図などは私は収録本を見つけることができませんでした。
後は、松江市の乃木や安来市の能義で郷土資料にあたるしかなさそうです。
推測ですが、次男・光綱の系統は高綱の出家、重綱の討ち死にもあり、以降、叔父の義清の庇護の下、出雲国内の小規模な御家人として存続
したが、南北朝の動乱の中、隠岐流も衰退し、守護や守護代としてやってきた、山名氏、京極氏、尼子氏の被官、家臣として取り込まれ本国である但馬や近江などに移動し、さらに土岐氏、斎藤氏、斯波氏、畠山氏などに仕えた家があったのではないかと考えています。我が家はついては最古の記録が享保15年ですから、中世に遡るのは無理かなと諦めモードですが。

報告と参考まで。
近江屋儀八
2010/03/22 21:45
道下熊助さんへ
うきは市は柳川藩でも黒田藩でもありません。
久留米藩(有馬21万石)です。
通りすがり
2011/01/27 14:20
二年ぶりのコメントです。あまり、ネットが得意で無いので以前コメントをした後、本ページが閉じてしまい見る事も出来ませんでした。やはり、先祖伝来の話は、本当の様ですね。高重公の息子の三人兄弟の長男利右衛門と三男谷左衛門の末裔は、今も内馬場に住んでいます。次男弥右衛門の末裔の方は、大阪府能勢町宿野の久佐々神社の神主をされています。今までなぜか江戸年間の先祖の位牌を納めずに大事に仏壇の中に祀られたままだったのですべて慶安四年1651年からの位牌と資料はあります。高重公が内馬場奉行をしていたのは、やはり、事実でしたか。高重公の息子の利右衛門以下のお墓は、内馬場正林寺にあります。もし、兵庫県においでの際は、お立ち寄り下さい。
ユーミン
2011/02/23 02:05
高綱系で高重の子孫は大野木家な訳だけど
寛政重修の大八木家系譜と柳川藩の大八木家の系譜を見る限りじゃ大野木加賀守家と浅井家から養子をもらった大野木土佐守家は別家な気がしないでもない

加賀守家が六角家家臣で土佐守家が京極家・浅井家家臣臭そう
加賀守
2013/12/09 09:22
系図学校で勉強させていただいております。
葛山家譜について教えてください。
葛山維重(治承年中・・・北條佐々木而四十六騎逞兵也云々)の妹が佐々木高綱の嫡子重綱の妻となり、その子である綱高が、葛山氏を継いでいます。
葛山家譜記載の葛山氏の名前に綱の文字が多いのは重綱の関係かもしれません。なお、鎌倉幕府の御家人であった、佐々木高綱と葛山景倫は、出家し、高野山に入山しています。佐々木(1202年出家)、葛山(1219年出家)佐々木高綱の子孫については、乃木氏、野木氏、大野木氏に脚光があたっておりますが、葛山氏も高綱の血を引いている可能性はありますか?

補足
@葛山氏と阿野氏 
駿河の興国寺は、葛山氏によって建てられており、
葛山氏の支配する地は阿野の庄と呼ばれていました。
A佐々木氏と阿野氏
「吾妻鏡」によると、頼朝が平家打倒の兵を挙げると全成はいち早く醍醐寺を抜け出して東国を目指し、佐々木定綱・盛綱高綱兄弟と箱根山中で行きあった。佐々木兄弟は全成を相模国(神奈川県)渋谷荘の渋谷重国の館に連れて行き全成はそこに匿われた。とあります。また、全成の孫である阿野実遠の娘が佐々木氏信の妻であり、その子孫に佐々木道誉がいます。
B太田渋子郷(葛山氏、佐々木氏、阿野氏)
太田渋子郷(川崎市宮前区)は応永27年(1410)の史料までは佐々木氏(道誉〜持高)が領家職を持っていました。応永25年に太田渋子郷の地頭方の葛山定藤が領家方に押し入り、佐々木氏が幕府に訴えています。阿野全成を院主とした威光寺は、太田渋子郷にあり、佐々木氏の領家職任名及び葛山氏の地頭職任命と関係があるかもしれません。

山本
2013/12/30 15:23
12月30日に投稿させていただいたコメントの追加情報です。五来重著「高野聖」において、「高綱は、高野へのぼって明遍のもとに投じ、蓮花谷の高野聖になった・・・ここに数年住んで明遍に住房をゆずるのは1195年であろう」とあります。また、「葛山五郎景倫入道願生が明遍に十八道加行の印明を伝授された」とあります。この記事から、明遍を通じた、佐々木高綱と葛山景倫の関係がうかがえます。
山本
2014/01/30 23:18
佐々木高綱に関する伝承を持つ史跡は多く存在します。私の生活圏である、東京、神奈川で私の知っているだけでも、下記の通りです。
@建立した寺社仏閣・・・稲毛神社(川崎区)、三会寺(横浜市港北区鳥山町)
A館跡・・・鳥山町
B馬頭観音(池月)・・・鳥山町、馬堀海岸(横須賀市)
C池月発祥伝説・・・千束八幡神社(大田区)
川崎区や鳥山町については、もともと秩父平氏河崎氏の所領であったのを六角氏が引き継いでいます。川崎庄の代官は六角庶流の小杉氏であり、小机郷鳥山の代官は六角泰綱の子の鳥山氏です。鳥山町の最寄り駅は小机駅であり、小机駅の2駅隣が中山駅です。それぞれ、渋谷氏と同族の小机六郎(河崎基家)、中山四郎(河崎重政)の所領でした。なお、鳥山町の近くに六角橋という町があります。佐々木高綱が高野聖であることを考えると、これらの地に佐々木高綱の伝承が残っていることは、不思議ではありませんが、佐々木源氏といえば、歌舞伎に登場し人気のあった佐々木高綱のことであった時代の名残である可能性があります。なお、黒田官兵衛ゆかりの播磨荘厳寺には多宝塔(県重要文化財)があって、元来、佐々木高綱によって建立されたとの伝承を残しています。余談ですが、平成23年に荘厳寺が公表した黒田家略系図によれば、黒田氏は播磨守護赤松円心の弟円光を祖としており、黒田官兵衛の祖母を佐々木兵庫頭高信女としています。

山本
2014/02/09 10:55
佐々木源氏と日吉大社

佐々木源氏は日吉大社を崇拝していたようです。
日吉大社:日吉・日枝・山王神社の総本社です。(大宮:大己貴神)通称として山王権現とも呼ばれています。最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬していました。

⦅佐々木源氏が日吉大社を崇拝していたことに関する根拠⦆
1.私の親戚がいる町について

@滋賀県(目賀田)
目賀田氏は六角氏の重臣で、藤原兼家あるいは、佐々木行実の子孫との系譜伝承を持っています。西澤照雄著の「目賀田氏考」によると、「目賀田氏は、特に山王社に対する崇敬の厚かった佐々木氏の庶流と目されるようになり、山王社の十禅師権現を譲り受け春日神社に合祀した。」とあります。(「作者部類」には、藤(原)信良、佐々木家人目賀多也とあり、藤信良の右肩に三井とあります。目賀田氏の一族が三井氏です。また、藤信良の母は佐々木源氏一族で、比牟礼神社の神主である一井氏娘です。)

A島根県(隠岐郡、島後)
江戸時代の島後の庄屋若林伊賀正⦅末次城(現、松江城)城主若林伯耆守(尼子氏に所属)の末裔か⦆は、国府尾城主佐々木正之五郎の四天王(若林、池田、服部、団)の子孫との系譜伝承をもっており、村内の日吉神社を崇拝していました。
(続きあり)
山本
2014/03/12 01:04
(続き)
2.以前、四郎左衛門尉高綱のブログに投稿(2013年12月〜2014年2月)させていただいたコメントにある町(神奈川県)について
@太田渋子郷(川崎市宮前区)
郷内の威光寺(阿野全成が院主、現、妙楽寺)や等覚院は、比叡山延暦寺の末寺。等覚院は、1573年に再興しました。等覚院は、山王権現の別当寺でした。
A稲毛神社(川崎市川崎区)
明治維新までは、河崎山王社と言われていました。
末社に佐々木神社(10月19日例祭)があります。
B三会寺(横浜市港北区鳥山町)
鳥山町と隣接した場所に山王森公園や山王宮跡があります。また、中山駅近くに日枝神社(小山町)があります。
C武蔵小杉(川崎市中原区)
丸子山王日枝神社があります。
また、東横線武蔵小杉駅の2駅先には、日吉駅があります。
***ただし、@〜Cの寺院仏閣いずれも、佐々木源氏との関係について、更なる調査が必要です。
山本
2014/03/12 01:06
高綱は、浄土真宗のいくつかの寺院で開祖伝承を残しています。浄土真宗では、法然を「元祖」と称しています。
『昭和新修法然上人全集』第八 傳法然書篇 に
「佐々貴四郎高綱に示す御詞・・・みな人の、おのれとおのが知恵に迷いて、近き極楽を遠くし、かほどやすき世間を苦しみとなすことは浅ましきことなり。」とあります。
また、幕末の志士、高杉晋作の辞世の言葉に「面白きこともなき世を面白く住みなすものは心なりけり」(下の句は野村望東尼)とあります。


山本
2015/12/30 11:31

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