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help リーダーに追加 RSS 三郎兵衛尉盛綱

<<   作成日時 : 2005/04/04 15:58   >>

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佐々木盛綱(?-1216)秀義の三男。母源為義の娘。本名秀綱。佐々木三郎。左兵衛尉。父秀義とともに東下。はじめ相模波多野義常の許に寄寓しましたが、父秀義の命で長兄定綱とともに源頼朝に近侍。頼朝の乳母子安達盛長を烏帽子親に元服。盛綱と名乗りました。
 治承4年(1180)源頼朝の挙兵では、はじめ加藤次景廉・堀藤次親家らとともに頼朝の側近にありましたが、頼朝の命で伊豆目代山木兼隆攻めに加わり、加藤景廉とともに兼隆の首を獲りました。石橋山合戦でも活躍。元暦元年(1184)備前藤戸合戦で馬では、備前国児島に籠城した平行盛を藤戸の海路を渡り破るなど、その後も活躍。
 文治元年(1185)の守護・地頭設置で、上野国磯野郷・越後国加地荘などを得るとともに上野・越後・伊予守護に補任。越後・出羽地方を管掌しました(『吾妻鏡』建久2年10月1日条)。建久元年(1190)奥州藤原泰衡を滅ぼし上洛する源頼朝に、盛綱は俣野箭一腰を進上しました。これは源頼義が前九年合戦で勝利して帰洛するときに携えていたものと同様のものでした。盛綱が武家故実に詳しかったことが分かります。建久5年(1194)2月14日に頼朝に生鮭2を献上していますが、これは領地越後加地荘でとれたものでしょう。建久6年(1195)3月の東大寺供養および4月の源頼朝上洛では、定綱・経高・盛綱・義清兄弟が供奉。このとき「佐々木三郎左兵衛尉盛綱」と呼ばれており、このときまでに左兵衛尉に任官していたことが分かります。
 建久10年(1199)1月源頼朝が没すると、側近であった盛綱は出家して西念と号しましたが、3月22日将軍頼家によって所職を没収。上野国磯部郷に隠退しました。しかし建仁元年(1201)越後国城氏の乱で盛綱が鎮圧に当り復権。建仁3年(1203)盛綱は兄経高(中務丞)・甥重綱(高綱の長男、左衛門太郎)とともに後鳥羽院の院宣を奉じて延暦寺堂衆を追討。元久2年(1205)京都守護平賀朝政追討でも、甥広綱(定綱の長男、左衛門尉)・高重(経高の長男、弥太郎)とともに討手となり、京都警固に当たりました。
 建保3年(1215)10月10日には、守護人北条氏とともに越後国の検断(軍事・警察)を担当するように命じられました。盛綱流佐々木氏は守護正員ではなかったものの、守護正員北条氏とともに検断を担当する立場にあったことを示しています。越後・出羽地方における盛綱の影響力を無視し得なかったのでしょう。以後、越後では盛綱流佐々木氏が栄えることになります。
 承久の乱(1221)では、盛綱の次男盛季(小三郎左兵衛尉)が、定綱の長男広綱(山城守)、経高(中務入道経蓮)・高重(太郎判官)とともに京方に参加。一方、盛綱の長男信実(佐々木兵衛太郎)は幕府方に参加しました。
 次男盛季が左衛門尉に任官しているにもかかわらず、長男が左兵衛尉盛綱の長男を意味する仮名「兵衛太郎」のままなのは、信実が父盛綱から勘当されていたためでした。建久元年(1190)7月20日営中の双六御会で、頼朝の相手をしていた父盛綱の傍らで見ていた信実(当時15歳)を、後から来た工藤祐経が抱いて退け、信実の席に座したため、信実は拾ってきた石で工藤祐経を負傷させたのです。頼朝は怒り、信実は出家して逃亡。しかし盛綱は工藤祐経にも責があると主張、工藤祐経も宿意をもたなかったため、信実も父盛綱からの勘当で済みました。しかし勘当されて関東にいたため、かえって承久の乱では幕府方に参加することになったのです。
 信実は、北条義時の次男名越朝時とともに北陸道の大将になりました。北陸道では越中以西が京方の勢力範囲であり、越後が幕府方の拠点でした。そこで越後の検断を担当していた盛綱流佐々木氏の信実が、北陸道の大将になったのです。信実は越後での京都方深勾氏を追討しましたが、これが承久の乱での幕府方の一番矢です。この戦功で信実は備前守護に補任され、子孫佐々木加地氏によって、幕府滅亡まで守護職を維持しました。

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コメント(12件)

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 佐々木盛綱(寛文年間の島津家の資料で鬼塚氏が佐々木四郎秀綱の子孫とありますが、盛綱のことっぽいですが?)の子孫が野村氏を称し、日向に下向していますが、島津家の資料に野村氏は日向伊東氏の家臣から、島津家臣になった家ですが、この伊東氏は工藤氏の子孫です。上の記事をみると、どえらい因果をかんじます。
立山源次郎
2007/12/29 13:04
 以前、大山綱良の先祖を佐々木盛綱の子、康綱の子孫といいましたが、盛綱の子に康綱がいないので、「元帥公爵 大山巌」(尾野実信著)で調べなおしたら、大山綱良は佐々木盛綱の後裔、康綱の子孫とあり、このことだと思います。同書に大山家は3系統いるそうです。
 1;佐々木行綱の子孫、大山兵部少輔友綱の系統、大山巌家はこの系統。
 2;佐々木盛綱の子孫、民部少輔康綱の子孫。大山綱良はこの系統。
 3;佐々木行綱の7世孫、大山主馬佐綱行の子孫。一説、佐々木定綱の5男、大山藤次実定の子孫
 
道下熊助
2008/01/14 16:15
源頼朝が没すると将軍側近であった佐々木兄弟は苦境に立たされます。盛綱も守護を取り上げられましたが、勘当されていた信実が承久の乱で活躍したため、守護家に復帰し、子孫も栄えています。日向・薩摩にも地頭として盛綱流佐々木氏が栄えたのでしょう。ただし系図には誤伝も多いので、系図記述を鵜呑みにするのではなく、資料に基づいて研究することが必要だと思います。
佐々木哲
2008/01/19 22:36
 ご教示ありがとうございます。やはり、私もそのように思います。大山巌の祖先については野村氏の子孫と言う説もあるそうです。なお、鬼塚氏を佐々木秀綱の子孫と載っていたのは、薩摩藩主島津綱貴が寛文9年に作らせた、「諸家大概」という資料です。
立山源次郎
2008/01/26 10:24
初めまして、九州・熊本在住の野村と申します。
祖父の家にあった家系図と家紋の関係を調べていて、こちらのサイトにたどり着きました。

その系図によると、先祖は元々は佐々木姓で近江国から日向の方に移って来たことなどが書いてありました。
代々の家紋は「隅立て四つ目結」です。

まだちょっとネットで調べただけですが、やはり先祖は近江発祥の野村氏なのかな?とか
今の滋賀県のどの辺にいたのか、なぜ九州に来たのかなど、
かなり興味が深まりました。

また佐々木氏全体の流れというものも、野村氏の系統に限らず興味が出てきたので、
時間のあるときにもっとちゃんと勉強して調べてみたいと思いました。
沙沙貴神社という所にもいつか是非行ってみたいと思います。
野村肥後人
2009/07/11 03:10
盛綱の次男盛季(小三郎左兵衛尉・左衛門尉)が近江国野村郷を領したことから、野村氏が始まりました。

盛綱の長男信実は勘当されていたため、盛季が嫡男として在京御家人として京都に出仕していました。しかし承久の乱で、盛季は佐々木広綱・経高らとともに京方であったため、盛季の子盛蓮は出家し、さらに日向国諸縣郡に四ヶ所の所領があったことから日向に下向しました。盛蓮の長男頼親は踏切郷・村角郷を領し、六男光盛は伊東祐光の養子になりましたが後に帰家し中村を領し、七男光秀は佐土原を領しました。

このうち光盛の孫信盛は肥後国楠郷を所領を得たと伝えられます。
佐々木哲
2009/07/13 12:44
こんばんは、貴重なお話ありがとうございます。
日向に下向した野村氏は京側だったために、承久の乱後は下向せざるを得なかったということですね。
その後、子孫達が日向から九州の他の地域に広がっていったと考えて良さそうですね。

我が家の系図は今手元にないのですぐに確認は出来ないのですが、
近いうちに詳しく見なおそうと思います。
去年見て以来なのでうろ覚えですが、
宇多天皇を祖とする佐々木氏の子孫である事、近江から日向の国に移ったことなど載っていました。

ところで、今の滋賀県内には「野村」という地名が4カ所ありました。
野村氏の発祥の地域としては「近江国野村郷」とのことですが、
ネット上には「近江国浅井郡野村庄」という表現もありました。これは同じ地域と捉えて良いのでしょうか?
浅井郡という地名は現在の琵琶湖北東部あたりのようで、現在の長浜市野村町あたりが野村郷(庄)なのかなと思いました。
野村氏発祥の地もいつか行ってみたいので、ちょっと気になりました。
野村肥後人
2009/07/16 01:40
東浅井郡野村郷が名字発祥の地のようですが、野洲郡や栗太郡にも野村という地名があり、東浅井郡と同系の野村氏が居住していました。野村氏の移動とともに野村という地名も付けられたと考えられます。

また、この近江野村氏を継承したと思われる六角氏流の野村氏もあります。六角満綱の庶子久綱の子孫と伝えられます。

このように野村氏は承久の乱後にいちど日向に居住しましたが、主流は鎌倉御家人として復帰して近江に戻り栄えたようです。
佐々木哲
2009/07/16 13:37
こんばんは、なるほど滋賀県内に今も残る野村町の類は関係があった訳ですね。
そして同じ近江発祥の野村氏でも、佐々木→野村だけでなく途中で別の姓を経て野村姓を名乗ったり、色んなパターンがあるようですね。
とても参考になりました。
まずは野村氏のことをもっと調べてみて、いずれ佐々木氏全体の流れも勉強したいと思います。
こちらのサイトもちょくちょく拝見させていただきます。
野村肥後人
2009/07/20 00:33
初めまして。祖先のルーツを調べており、こちらのサイトを拝見させて頂いております。祖先野村氏は葛西氏浪人を経て伊達藩に仕えたことまでは分かっております。それ以前は近江野村氏の出身と思われるのですが、上記コメントにありました、「六角氏流の野村氏もあります。六角満綱の庶子久綱の子孫」こちらについて大変興味があるのですが、どの資料を見れば詳しく載っているでしょうか?何卒ご教授頂けませんでしょうか?
仙台 野村と申します
2009/09/29 03:33
返事が遅れました。
沙沙貴神社所蔵佐々木系図がいいと思います。沙沙貴神社に問い合わされるといいでしょう。『佐々貴一家流々名字之分系』というタイトルです。掲載されているのは4代6人です。

沙沙貴神社
TEL:0748-46-3564
FAX:0748-46-5311
佐々木哲
2009/10/02 13:16
ご返答頂き本当にありがとうございます。ルーツ調べに行き詰っておりましたので、大変貴重な情報を頂き嬉しい思いです。
是非とも、「佐々貴一家流々名字之分系」について問い合わせしてみたいと思います。
ご教授頂き感謝致します。
仙台 野村と申します
2009/10/02 18:57

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