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zoom RSS 大膳大夫政勝

<<   作成日時 : 2005/04/27 23:46   >>

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六角政勝(生没年未詳)久頼の長男。『甲賀二十一家之由来』では「政頼」。六角亀寿、四郎、治部少輔、大膳大夫、近江守護。
 康正二年(一四五六)父久頼が憤死すると、遺児亀寿が近江守護職を継承した。しかし亀寿が幼少だったため、文安の乱で被官に支持されながらも敗死した六角時綱(五郎、民部少輔)の遺児政堯(四郎)が後見になった。ところが長禄二年(一四五八)五月十四日亀寿は突然近江守護を解任され、後見の政堯が近江守護に補任された(『尋尊大僧上記』長禄二年六月八日条)。幕府が六角氏の内政に干渉したのである。この事件で亀寿は没落した(『尋尊大僧上記』長禄二年六月八日条)。しかし長禄四年(一四六〇)七月十八日政堯が守護代伊庭氏の子息を罪もなく殺害したことで、同月二十八日将軍足利義政の勘気を被り大原に出奔し(『碧山日録』長禄四年七月十八日・二十八日条)、亀寿が近江守護に返り咲いた(『碧山日録』長禄四年七月二十九日条)。このように翻弄された亀寿に対して、佐々木鞍知氏出身の『碧山日録』記主は同情的だった。
 この六角亀寿守護復帰に関する『尋尊大僧正記』長禄四年七月晦日条で、亀寿の年齢を六歳としているが、それでは子息高頼の生年が寛正三年(一四六二)であることと合わない。十六歳の誤記であろうか。これ以後、「六角」と呼ばれていることからも、守護再任を契機に元服したと考えられる。
 寛正二年(一四六一)六角(亀寿)は、河内岳山(畠山義就)追討に参加した(『尋尊大僧正記』寛正二年八月二十三日条・同年十一月五日)。このとき山内氏が陣代であった(『尋尊大僧正記』寛正二年十一月十日条)。文正元年(一四六六)十二月幕府が畠山義就を赦すと、義就は千本地蔵院に陣取り、山名宗全(持豊)・斯波義廉が畠山義就に合力した。それに対して畠山政長は屋形の四方に矢倉を設置、六角(亀寿)と赤松政則は畠山政長邸に立て籠もり、これに京極持清・細川勝元が与力して、将軍足利義政も合力した。六角(亀寿)が当初、東幕府の一員として行動していたことが分かる。
 応仁元年(一四六七)に応仁・文明の乱がはじまるが、同年六月八日東西両軍の間で駆け引きがあって入れ替わりがあり、六角(亀寿)は山名宗全ら反主流派の西幕府についた。そして山名方になった斯波義廉・六角(亀寿)・土岐成頼ら三人はそれぞれ屋形に立て籠もった(『尋尊大僧正記』応仁元年六月八日条)。しかし翌九日には、土岐成頼・六角(亀寿)・富樫政親三人が幕府に降伏を申し入れている(『尋尊大僧正記』応仁元年六月九日条)。このときまだ駆け引きは行われており、事態は流動的であった。
 幕府は当初六角(亀寿)と政堯(四郎)の双方に御教書を与えていたが、文明元年(一四六九)頃には六角(亀寿)は西軍方に決し、幕府は政堯を近江守護職に補任した。しかし東幕府は突然政堯の近江守護を解任して、京極持清(京極入道)に近江守護職を与えている。近江守護は六角氏であったが、京極氏も北近江の軍事指揮権を確保していたため「両佐々木」と呼ばれていた。このとき東幕府は「両佐々木」の原則を無視して、京極持清ひとりに近江一円の守護職を与えたのである。これに対して尋尊は「六角不便」と同情し、比叡山は幕府に抗議した。しかし京極氏は近江一円支配を推し進めている。それに対抗して六角(亀寿)は近江に乱入して京極氏と合戦したが敗北して、伊賀・大和越智に逃亡した。この過程で六角(亀寿)は、南朝を支持していた伊賀・大和・伊勢の一揆勢力と結びつき、そして再起に成功する。そして同年九月十七日六角(亀寿)は入京を果たした(『尋尊大僧上記』文明元年九月十七日条)。
 文明二年(一四七〇)九月には六角氏では六角亀寿・六角六郎がともに西軍、京極氏でも有力被官の多賀出雲・若宮が西軍となり、近江は西軍一色になった(『尋尊大僧正記』文明二年九月二十二日条)。文明四年(一四七二)正月には、六角四郎(亀寿)・山内宮内大輔と京極政光(始め黒田)・多賀出雲守が西軍であり、六角政信(持綱の子息四郎)と京極孫童子丸・京極政経・多賀豊後守が東軍であった(『尋尊大僧正記』文明四年正月二十五日条)。
 実は応仁元年(一四六七)十一月から文明二年(一四七〇)二月まで六角政勝という人物が文書を発給している。政勝発給文書は六通確認でき、応仁元年十一月四日付山中太郎宛政勝直状(山中文書)は岩根郷半済の給恩、文明元年十月十四日付望月弥太郎宛政勝直状(望月文書)は麻生荘の給恩、文明二年正月十九日付望月弥太郎宛政勝直状(望月文書)は杣荘の給恩、文明二年二月十五日付誉侍者・杉山藤八宛政勝感状(古証文:杉山文書)は観音寺馬場ノ合戦に関する感状であり、また(年未詳)五月八日付朽木高親宛政勝書状(朽木文書)は丹後与保呂村の文書六通ならびに案文三通を使者に渡したという内容である。さらに(年未詳)十一月十二日付井関某宛政勝書状(大覚寺文書)は、贈物に対する礼状であるが、その中では浅井郡丁野郷御公用に触れられている。これらは六角氏当主に相応しい内容であり、とくに文明二年二月十五日付政勝感状に添えられた信慶副状には「御屋形様御志うしやう無申計候、能々旁々可申由候、以御書被仰候」とある。これで、政勝が六角氏当主(御屋形様)であったことが確認できる。
 一般に久頼の子息は高頼と考えられている。しかし父久頼の没年は康正二年(一四五六)であるのに、高頼の生年は寛正三年(一四六二)である。久頼と高頼が父子では年代が合わない。この間に一世代いたことになる。しかも久頼と高頼の間の世代にあたる六角氏には、系図上の位置が不明である政勝(山中文書、黒川文書、望月文書)がいる。この政勝が、久頼と高頼のあいだの一世代である六角亀寿の実名だろう。
 没年は定かではないが、足利義稙(義材)六角氏征伐に関する『尋尊大僧正記』延徳三年(一四九一)八月晦日条で、「於六角高頼者不知行方、父子共不知云々」とあるのは政勝・高頼父子である可能性が高い。このとき、まだ高頼の長男氏綱は誕生していないからである。『甲賀二十一家之由来』でも「六角政頼・高頼父子」とある。この「政頼」が政勝のことであろう。ただし『尋尊大僧上記』明応元年十二月九日条に「高貞」という人物が登場する。この人物は、六角亀寿(政勝)本人か、あるいは応仁・文明の乱で六角亀寿と行動をともにした六角六郎であろう。
 沙々貴神社所蔵佐々木系図は父久頼と子政勝の事跡を混同して、「政頼」という人物を記しているが、その政頼の子息のひとりに大徳寺七十六代住持代古嶽宗亘を記している。古岳宗亘は天文十七年(一五四八)六月二十四日に八十四歳で寂しているように寛正六年(一四六五)生まれであり、久頼の没後に生まれたことになる。やはり政勝の子息であろう。また『尋尊大僧上記』長享三年正月十二日条などに登場する土岐成頼の弟六角次郎も、年代的に政勝の猶子と考えられる。

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