|
佐々木氏の紋というと四つ目結紋と考えられていますが、実はもともとは三つ星でした。そのため源平合戦で活躍した佐々木兄弟の子孫のなかで、四つ目結紋を使用したのは長男の定綱流であり、盛綱流は三つ星、義清流は輪違いを使用していました。四つ目結紋が佐々木氏の代表紋になったのは、定綱の子孫が佐々木氏の主流になったことと、江戸時代に歌舞伎などで佐々木盛綱・高綱兄弟の役が四目結紋の衣装を着けて登場していたからでしょう。 沙々貴神社所蔵佐々木系図や六角佐々木氏系図略によれば、四つ目結紋は定綱の子息信綱のときに、菊・桐紋とともに後鳥羽院より給付されたと伝わります。菊・桐紋に関しては、佐々木定綱が後鳥羽天皇の六位蔵人に補任されて元服奉行も勤めていることから、後鳥羽天皇より賜った御服(袍)の文様であったと考えられます。菊・桐紋を賜ったという系譜伝承は、定綱が蔵人であったことを隠喩したものでしょう。しかし四つ目結紋は後鳥羽院由縁のものではありません。 定綱は後鳥羽院の蔵人であるとともに、摂関家九条家の家礼でした。九条家の祖九条兼実は源頼朝と結ぶことで摂政・関白の地位を獲得し、朝幕間で権力を掌握しました。その子孫が九条・二条・一条ら九条流摂関家であり、摂家将軍藤原頼経・頼嗣父子です。その九条兼実の日記『玉葉』では、佐々木定綱が九条家奉仕の殿上人(家礼)として活躍していたことが見えます。また定綱の四男信綱は、九条兼実の孫九条道家が左近衛大将(左近衛府の長官)補任のとき、左近衛将監(左近衛府の三等官)に推挙されて以降、九条道家に奉仕し、道家の娘竴子の御産祈料として絹三万五千疋を献じた功績で近江守を受領しています。このとき誕生したのが四条天皇です。さらに信綱の三男泰綱は、道家の子息摂家将軍頼経の側近でした。このように定綱流と九条家の関係は深く、道家が子息一条実経に譲った所領の中に、佐々木女房から伝来した摂津国富島荘・美濃国古橋荘・越前国河和田新荘・同国東郷荘ら佐々木領が含まれていました。 佐々木氏との関係から、九条家の有紋冠の文様が四目結紋であることに注目できます。五摂家の冠の文様は、近衛流は四つ俵菱紋で、九条流が四つ目結紋でした。さらに近衛流のうち近衛家は俵菱の中に一つ引両、鷹司家は俵菱の中に割り二つ引両で、九条流のうち九条家は七つ割り四つ目結紋、二条家が四つ目結紋、一条家が四つ菱紋でした(鈴木敬三『有職故実図典』吉川弘文館、1995年)。九条流の四つ目結紋は、九条家では真ん中の穴が大きく、二条家では小さく、一条家では穴がなくなるというように変化していきます。 九条家の家礼であった定綱以来の佐々木氏は、四つ目結紋の冠を被って朝廷に出仕していたのです。四つ目結紋は後鳥羽院由縁ではなく、九条家由縁の紋だったのです。後鳥羽院より四つ目結紋を賜ったという系譜伝承は、後鳥羽院のとき九条家の家礼として殿上人であったことを隠喩していたのです。本紋四つ目結紋は冠、副紋菊・桐は袍というように、定綱が蔵人として朝廷に出仕していたときの衣冠の文様から生まれたものだったのです。家紋の文様やそれにまつわる伝承も歴史資料になることが分かります。 このことから、四つ目結紋は隅立てが正しいことも分かります。上杉本洛中洛外図など絵画に見られる四つ目結紋は、隅立てです。現在の沙々貴神社の神紋が平四つ目結紋であるのは、江戸時代の天保14年(1843)丸亀藩主京極家によって再建されたときに、京極家の紋平四つ目結紋に替えられたからと考えられます。六角氏が隅立て四つ目結紋、有力庶子家の京極氏は平四つ目結紋を使用していたのです。 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
母方の母方の姓が沖中といいます。山口士族であることを誇りにしていました。 |
岩永正人 2007/10/25 22:29 |
コメントありがとうございます。 |
佐々木哲 2007/10/26 02:13 |
四つ目の家紋は、華族の大山巌家や西南戦争で処刑された大山綱良も使っていますが、鹿児島の草牟田墓地の大山姓の墓には、違え鷹の羽の家紋のものもある。 |
道下熊助 2007/12/04 15:41 |
女性が嫁ぎ先に実家の紋をあしらった調度品を持参して、それが女紋になることは聞きますが、養子が実家の紋を使うというのは初耳であり興味深い報告です。今後も薩摩のことご報告願います。 |
佐々木哲 2007/12/05 00:24 |
前回、養子が実家の家紋にする話をのせましたが、どうもいま確認できるのは、明治以降の例だけでそれも、養子といっても婿養子で、女戸主の家に入夫した場合について確認しています。私の家の家紋も入婿の曾祖父の実家の物です。 |
道下熊助 2007/12/18 15:35 |
ご報告ありがとうございます。島津家からの養子が、十字紋を使用することは、下賜の一種と考えられます。上位の家からの養子であれば、実家の紋を使用することは他の地域でも見られます。 |
佐々木哲 2007/12/19 11:37 |
すいません。後でしらべなおしたら、賜紋の一例でした。(「家系図の見方作り方」川崎大十著、県立図書館蔵) |
道下熊助 2007/12/23 12:28 |
私の曾祖母の姉は「丸に隅立て四つ目」の平田家(鹿児島では、平田靱負をはじめとする桓武平氏流平田氏のほうが有名で家紋は四つ目ではない)に嫁いだが、その実兄にあたる家の家紋が四つ目ではなく、カタバミ(まだ、その家に直接きいていないがとにかく、四つ目ではない)ですが、これは本家と分家で家紋の別がある一例と見ていいのでしょうか?。 |
道下熊助 2007/12/23 12:47 |
隅立て四つ目の変形のような堀部安兵衛の堀江家の家紋が気になったので、調べたら、堀江家は佐々木氏族馬淵家の子孫らしいですね。堀江家の家紋イコール馬淵一門の家紋と考えても宜しいのでしょうか?。安兵衛の義父も一時期馬淵を名乗っていたようですし。六角に遠慮して変形させたのでしょうか?。 |
忠臣蔵ファン 2008/01/21 01:15 |
四目結紋は鎌倉時代初期の佐々木定綱・信綱父子のときに使用し始め、庶流や家臣にも給付したことで広まりました。信綱の弟広定に始まる守護代馬淵家も、四目結紋を使用しました。一般的には丸に四目結を使用したようです。丸が付くのは分家だからです。このように家紋は、分家になるほど変形されます。理由は、主家と区別するためです。家紋は標識ですから、そのようにして区別していくのです。遠慮するという意味もあったでしょう。堀部安兵衛の紋は二つの四目結を重ねあわせたものですが、それも変形のひとつです。 |
佐々木哲 2008/01/22 11:07 |
御解説ありがとうございました。 |
忠臣蔵ファン 2008/01/23 14:02 |
堀部安兵衛の名が出てるので、先生に質問です。江戸時代の地下の公家に今大路という家があるようですが、元は堀部家(近江源氏、佐々木氏族)と載っていました。堀部安兵衛の堀部家と関係があるのでしょうか?。地下とはいえ、武士が今大路などという公家っぽい家名を賜り朝廷に仕えるなどということが本当にあったのかどうか疑問です?。 |
公家ずき! 2008/01/25 22:44 |
「丸に四つ目」が分家筋が使った紋だというのは、大変参考になります。 |
道下熊助 2008/01/26 10:51 |
私の家の紋は、丸に隅立て四つ目です。姓は「尾形」です。父の田舎は、福井県越前市(旧武生市)に有り、父の代々の墓の有る所には、丸に隅立て四つ目ばかりで、下新庄と言う字だったと思います。鯖江市との境界付近。「尾形」の姓も複数有りますが、「三田村」姓が多い様です。近くの定友と言う字には佐々木小次郎の縁の地との事で、大きく「丸に隅立て四つ目」の紋の纏が出ていた記憶が有ります。 |
薬屋瓶 2009/02/24 13:06 |
コメントありがとうございます。わたしも久々にブログを更新しました。 |
佐々木哲 2009/02/24 15:10 |
何で自分の家紋に興味を持ったか。 |
薬屋瓶 2009/02/26 12:33 |
コメントありがとうございます。 |
佐々木哲 2009/02/27 03:14 |
四半世紀程前、私の大学時代。その頃は家紋なんて関心もなかったので聞かなかったですが、バイト先によく一緒に仕事をした同年代の人間がおり(滋賀県)、姓が「朽木」でした。滋賀県には当時朽木村(現高島市)が有り、織田信長を助けた朽木元綱の話を聴いた事が有るので、関係あるのか聞いた処、曾祖父が福知山の大名だったと聴きました。調べると確かに福知山の殿様は朽木氏で、明治維新まで続いていました。彼こそは系図のはっきりした真の佐々木氏の子孫だったわけですね。彼はどうしているだろうか。家紋を聞いておけば良かった。 |
薬屋瓶 2009/02/27 08:50 |
大名の直系の方は、東京近辺に住んでいらっしゃる方が多いですね。福知山藩主朽木家直系の16代朽木彰氏も、神奈川県鎌倉市に在住されていました。現在は福知山市に転居されて朽木氏を研究されています。 |
佐々木哲 2009/02/27 11:34 |
彼の名前は「晃(あきら)」だったと思います。「彰」氏も「あきら」と読むのでしょうか。何か判りますでしょうか。彼は現在では44〜6才と思います。 |
薬屋瓶 2009/02/27 18:12 |
薬屋瓶様 |
佐々木哲 2009/02/27 23:05 |
ご返事有り難う御座居ます。 |
薬屋瓶 2009/03/02 08:29 |
朽木彰氏は鎌倉に在住されていた方で、定年後に福知山市に移転して活動されている方です。何度もいいますが、別人です。 |
佐々木哲 2009/03/02 12:40 |
三田村氏関連を検索していると、三田村氏会と言うのが有るらしい事が判りました。俳優の三田村邦彦氏も会員で、三田村城跡(長浜市未三田町:浅井郡三田)にも訪れたとの事。二十年以上前、父の郷里(越前市:武生市)に墓参りに行っていた時、近くに三田村邦彦が来ていると、伯母達が言っていたのを思い出しました。三田村氏会の活動の一環だったのでしょうか。 |
薬屋瓶 2009/03/03 08:25 |
三田村氏会のことは存じています。そのような同族会の場で、話をはずませると良いでしょう。貴家・ご親戚に伝わる資料がありましたら、またご連絡下さい。 |
佐々木哲 2009/03/03 11:04 |
先生はじめまして。 |
ハンべー 2009/05/25 11:08 |
佐々木氏のすべてが四目結紋というわけではありません。沙沙貴神社所蔵佐々木系図にも、四目結以外の紋が伝えられています。以下に示して見ましょう。 |
佐々木哲 2009/05/25 20:15 |
早急のお返事ありがとうございます。 |
はんべー 2009/05/25 23:54 |
江戸幕府旗本の中で、笹紋を使用した佐々木氏関係者は、間宮・建部・磯野・浅井・三雲などです。 |
佐々木哲 2009/05/26 12:44 |
笹紋の由来は名前からきてるのかなと思います。 |
はんべー 2009/05/28 23:45 |
名字は勝手に付けたわけではありません。江戸期の庶民も先祖伝来の名字を伝えており、一揆契状では名字をつけて署名しています。 |
佐々木哲 2009/05/29 11:53 |
実家に帰った際親に聞いてみますね(^^) |
はんべー 2009/06/01 22:46 |
はじめまして。母方の姓が佐々木で家紋は四つ目に九枚笹という、一風変わった紋です。江戸末期に奈良から江戸に出てきたと聞いております。祖母の戸籍には士族と書かれていたので武家だとは思うのですが。調べるにあたって何か情報がありましたら、ご教授願います。 |
やまと 2009/07/11 00:04 |
九枚笹に四つ目結紋は、名字由来の九枚笹を、丸のかわりに付けている紋と考えられます。四つ目結紋が本流、丸が付けば分流です。九枚笹が付いても分流です。家紋から分かることは、この程度です。 |
佐々木哲 2009/07/11 01:37 |
ありがとうございます。菩提寺は、戦火で焼け落ちたため、過去帳は難しそうです。ただ、「もんこ宗」という宗派の寺院の出自らしいので、そちらから当ってみます。 |
やまと 2009/07/24 22:59 |
初めまして、私は(家紋)丸に隅たて四つめ結いの橋本家の子孫です。過去に戻って先祖を求めておりましたら佐々木の一族と称するにあたりました。先祖のことを知りたくここにメールにてお知らせします |
橋本家の子孫 2009/08/26 10:59 |
はじめまして、昨年亡くなった父が生前、家の先祖は佐々木高綱と言い続けていました。私なりに調べてみましたが、高綱ではなく盛綱であれば越後との繋がりがあるので、可能性はあるのかと思いますが…。一応、当家の家紋は「丸に隅たて四つめ結い」です。父の言う根拠というのが、遺品を調べていましたら出てきました。それは、当佐々木家の本家に当たる方の文章(コピー)と昭和6年2月4日付けの北越新報(現長岡新聞)のコピーです。 |
越後の佐々木 2009/08/29 22:17 |
橋本様。返事が遅れました。 |
佐々木哲 2009/09/01 12:03 |
越後の佐々木様。返事が遅れました。 |
佐々木哲 2009/09/01 12:10 |
お返事ありがとう御座います。 |
越後の佐々木 2009/09/01 22:54 |
越後の佐々木様。 |
佐々木哲 2009/09/02 00:53 |
はじめまして。丸に隅立て四つ目結を探していたら、ここにたどり着きました。 |
備後の森 2009/09/11 17:02 |
備後の森様、返事が遅くなりました。 |
佐々木哲 2009/09/15 13:01 |
お返事ありがとうございます。 |
備後の森 2009/09/15 17:50 |
京都出身の四方です。家紋は隅立て四つ目でございます。四方のルーツを探っております。伝聞情報では、戦国時代に信長との戦に敗れ京都の山陰地区に逃げのび、江戸時代の中期からは京都市内に出てきたようです。なんでも、綾部市近郊には600世帯もの四方さんがおられるとのことです。四方という姓は六角氏につながっているのでしようか。ご教示いただきたくよろしくお願いいたします。 |
四方家の子孫 2009/11/18 11:54 |
はじめまして! |
朽木 2009/11/21 02:07 |
はじめまして |
まぶちゃん 2009/11/21 20:07 |
岐阜県の馬渕一門について調べています。 |
T/M 2009/11/26 23:15 |
T/Mさん |
まぶちゃん 2009/11/29 14:37 |
岐阜馬淵様 |
T/M 2009/11/29 22:27 |
岐阜馬淵様 |
T/M 2009/12/04 11:19 |
論文執筆中のため返事が遅れました。 |
佐々木哲 2009/12/14 13:11 |
お世話になります。 |
備後の森 改め 備前の森 2010/04/22 17:13 |
論文執筆中のため返事が遅れました。 |
佐々木哲 2010/04/30 22:59 |
お忙しい中、お返事をいただきありがとうございます。 |
備前の森 2010/05/04 23:36 |
名字の由来を知りたいです。 |
ぼたん 2010/06/10 23:58 |
土佐大山祇神社の神職であれば、伊予越智氏の一族と考えられます。平家方の有力武将新居氏が平家の落武者とともに土佐にいたり、安徳天皇の遺品を納めて御陵としたのが、土佐安徳天皇潜行伝説のもとと聞いていますので、越智一族の新居氏が貴家の先祖と考えられます。 |
佐々木哲 2010/06/11 12:08 |
早速のご回答ありがとうございました。 |
ぼたん 2010/06/12 13:59 |
はじめまして!山形楯岡の高宮氏について調べておりました(父方の祖母の一族です)。 |
Coo 2010/07/03 21:27 |
近江高宮というのは、犬上郡高宮郷のことでしょう。高宮氏については、犬上郡誌・多賀町史・高宮町史など地方史・地方誌に詳しく説明されています。今も高宮には高宮城址の碑、高宮神社があります。 |
佐々木哲 2010/07/04 00:35 |
詳しいご説明ありがとうございます。江戸時代「高宮太右衛門」など「〜衛門」と名乗っている者がいるので京極氏に仕えた高宮氏と名前が似ていますね・・。 |
Coo 2010/07/04 01:50 |
「〜衛門」という通称はよくあるので、深くは考えないでください。 |
佐々木哲 2010/07/05 17:57 |
先生、御返事ありがとうございました。あれから山形の図書館、最上徳内記念館にも行き資料を調べてきました。 |
Coo 2010/10/11 18:10 |
本田利明の弟子で、最上徳内と同門である数学者会田安明の著書『自在漫録』(静嘉堂文庫所蔵)二巻に「最上徳内常矩が事」があり、「予が旧友最上徳内常矩は初めの名は高元吉常矩と云ふ」と記しています。もともと高(多賀)氏を称していたようです。近江高宮を本国とする多賀氏と考えていいかもしれません。高宮ももともとは多賀宮(多賀社)という意味です。 |
佐々木哲 2010/10/14 12:10 |
詳しく教えてくださってありがとうございます。もしも多賀氏ということでしたら洲浜紋を使っていることから佐々木氏系の多賀氏ということになるのでしょうか?(多賀氏は京極氏と多賀久徳氏は高宮氏と婚姻が行われていますが..多賀氏自体には自分たちが佐々木系という思いがあったのでしょうか?) |
Coo 2010/10/14 21:58 |
わたしは資料に基づいた議論しかできないので、会田安明が著書『自在漫録』二の「最上徳内常矩が事」で、「予が旧友最上徳内常矩は初めの名は高元吉常矩と云ふ」と記していることまでしかいえません。 |
佐々木哲 2010/10/16 22:59 |
今まで最上徳内関係で何冊もの本を読みましたが、どの本も高宮氏との関係は書かれていても多賀氏との関係で書かれた記述はありませんでした。もし徳内の研究をされる方がいたら大きな発見かもしれません。(というか、自分に縁がある問題ですので自分も徳内の研究を深めてみたいと思っています)先生のご指摘で大きな発見ができました。ありがとうございます! |
Coo 2010/10/17 17:21 |
同門の会田安明の証言であり、とても価値があるでしょう。佐々木氏は、記事「永原氏の系譜」に関するコメントでも書きましたが、佐々木氏自らが他家の養子になって所領を継承し、本主を代官にするという形で所領を広げ、本主を養子にする、あるいは庶子を本主の養子にするという形で一族を拡げてきました。佐々木氏と古代豪族多賀氏の関係もそうです。 |
佐々木哲 2010/10/18 22:31 |
櫟氏について追加です。櫟氏と本佐々木氏が最初につながるのは、「源行真申詞記」に出てくる源守真(井権守盛実)です。盛実の子井源太家実の三男一井三郎家職が、櫟氏を最初に継承した人物と考えられます。櫟氏を紀伊櫟庄出身の御家人とする系譜伝承もありますが、櫟庄は東大寺領櫟庄(現天理市櫟本町)の誤りでしょう。櫟本町には現在も和邇下神社があり、和邇下神社古墳を含む東大寺古墳群は和邇氏のもので、櫟庄は和邇氏族櫟・柿本両氏の所縁の地でした。和邇氏族は近江を本拠としていましたから、近江にも分布し、浅井郡の櫟氏からは天台修験の祖相応も出ています。そのため高宮の本主櫟氏も、この和邇氏族櫟氏と考えるのが妥当でしょう。 |
佐々木哲 2010/10/20 01:55 |
一井氏と高宮氏の関係をもう少し詳しく知りたいところです。まったくの好奇心ですので急ぎませんからそのうち教えてください。 |
佐々木寿 2010/10/20 23:19 |
高宮の伝承によれば、高宮の本主は紀伊櫟庄を本貫とする紀伊御家人の櫟(いちい)氏です。 |
佐々木哲 2010/10/21 12:13 |
ありがとうございます。 |
佐々木寿 2010/10/21 15:56 |
櫟氏と一井氏また高宮氏との関係をわかりやすく教えていただきありがとうございます。自分でも理解できました。高宮多賀両方の可能性を念頭において調べていきたいと思います。 |
Coo 2010/10/21 21:10 |
本阿弥光悦は多賀高忠の曾孫で、多賀高忠―次男宗春(片岡次大夫)―次男本阿弥光二(光心養子)―長男本阿弥光悦と伝わっていますね。 |
佐々木哲 2010/10/25 12:54 |
私の家は佐々木姓で○に平四つ目の家紋が墓にあります。明治の頃に岩手の方から、一族で北海道に来たらしいです。本家には武士のかぶとや刀などあったそうです。昔から武士の出だよと言われてはいましたが、そういうこともありえますか? |
佐々木 2011/05/25 16:37 |
甲冑や刀があれば武士の可能性は高いです。ただし、江戸時代の侍身分(士族)とは限りません。 |
佐々木哲 2011/05/25 23:52 |
お返事ありがとうございます。明治に士族か平民かどうしてわかるのですか? |
佐々木 2011/05/26 17:52 |
除籍謄本の保存期間が80年ですので、直系尊属の方の除籍謄本を取れば、確認できると思います。 |
佐々木哲 2011/05/26 21:12 |
こんにちは! |
MH 2011/08/02 22:30 |
何をお聞きになりたいのか書かれてないので、なんとも返事はできません(笑)。 |
佐々木哲 2011/08/10 23:57 |
|
MH 2011/08/16 12:35 |
早合点しないでください。まず、あなたの家紋など分かっている範囲で、御先祖につながる情報を教えてください。 |
佐々木哲 2011/08/17 10:43 |
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MH 2011/08/17 15:35 |
丸に隅立て四つ目結紋は、佐々木一族や家臣に一般的な家紋ですが、もともと佐々木氏族の家紋は三つ星ですから、九条家家礼で四つ目結紋を冠紋とした近江守護佐々木氏からの下賜と考えられます。また後世には、佐々木氏族で家紋が分からない場合には、歌舞伎で佐々木氏の代表紋とされた隅立て四つ目結紋を使用したとも考えられます、そのため、家紋だけでは判断できません。 |
佐々木哲 2011/08/17 16:57 |
堀です。 |
MH 2011/08/18 07:15 |
拙家は、692年前は、西条と名乗っていました。佐々木源三秀義13代孫の西条高長が三河碧海郡松下→現在の愛知県豊田市舛塚町松下に移住して松下と名乗りました。家紋は、隅立四目結です。本家は松下之綱家で家紋は、丸に隅立四目結です。 |
松下光男 2011/08/26 23:13 |
参考になるお話をありがとうございます。系図などが残っていましたら、大切にしてください。 |
佐々木哲 2011/08/26 23:23 |
有難うございました。先生の著書「系譜伝承論・佐々木六角氏系図の研究」を拝読しています。家系図は戦時中亡父の兄から戦災で焼失を防ぐ為に、兄弟に送られた写しが残っています。先祖は家康に、従い長篠の戦いに参陣し天正12年4月9日に小牧長久手で打ち死にした者と、慶長元年8月1日に伏見城松の丸で打ち死にした者がいます。江戸時代は大番組650石を知行し文化・文政時代に、美濃笠松第21代郡代を勤めた松下内匠堅徳がいます。菩提寺は、東京都新宿区にあります。私は、今後先祖の地豊田市・菊川町・安土・延暦寺等を訪れたく考えています。松下関係の書籍をご存知でしたらご教示下さい |
松下光男 2011/08/27 10:00 |
松下光男様 |
佐々木哲 2011/09/18 23:21 |
お返事が、遅れ申し訳ございません。私は、定年退職をして現在地域→岐阜県多治見市に在住しています。富永先生とは、昭和61年に福島県三春町で開催されました『松下氏三春への道』でお会いしました。宗家松下石見守長綱の年忌の時です。 |
松下光男 2011/10/01 21:09 |
家紋って奥深いですね。 |
川中島 2012/01/05 19:03 |
はい、家紋は面白いです。 |
佐々木哲 2012/01/05 20:40 |
はじめまして。 |
あべ 2012/04/29 15:11 |
コメントありがとうございます。家紋と会津がキーワードになって、ご両親の家系とその因縁が分かったのですね。 |
佐々木哲 2012/05/01 00:06 |
お返事いただきまして、ありがとうございます。先ず訂正させてください。父方の先祖と母方の先祖に何か因縁があったようだ、と書きましたが、コメントしてから蒲生の図書館での資料のコピーを見ました。正確に書きますと、先祖は元々は平井と言い、明応元年(1492)第二次六角征伐の際、六角高頼方の平井和泉守頼国が将軍方の「猛将」安部井和泉守宗行の首を取ったそのほうびとして安部井姓を名乗ったとあるのです。(私の旧姓は安部井です。)私はこの所業自体を「因縁」と表現しました。当時では首を取った取られたは当たり前の出来事なのでしょうが、それを知った時は恐ろしく感じました。誤解のある書き方をしてしまいました。ちなみに安部井の祖先である平井も高島七頭の一流であり高島出身なのだそうです。この高島七頭と言うのは湖西の佐々木氏の総称なのだそうですね。(ここまでは実家の本家が所持していた資料から抜粋、転記しました。)佐々木様とは滋賀、会津とご縁があったということでしょうか。数年前こうした資料を元に蒲生を訪ね、菩提寺にお参りしました。元城跡(上南城)もあり、後に小学校として使われ現在は個人の畑になっていましたが、掘らしき跡がうかがえました。おっしゃる通り、因縁は解けているかもしれません。 |
あべ 2012/05/01 14:19 |
続きです。 |
あべ 2012/05/01 14:21 |
ご先祖のことを知ることが、ご先祖の供養になります。またご先祖が安部井姓を名乗ったのは、安部井和泉守を顕彰するためであり、その家名を残すためです。ですからご先祖を供養することは安部井氏を供養することにもなります。 |
佐々木哲 2012/05/03 13:04 |
再三に渡りの勝手なコメントに、丁寧にお返事を頂きましてありがとうございました。 |
あべ 2012/05/04 12:23 |
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