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zoom RSS 左衛門督侍従豊臣義康

<<   作成日時 : 2005/04/19 23:52   >>

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六角義康(生年未詳−一六二三)義堯の子息。母は織田信長養女(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。六角氏と岩倉・犬山織田氏が行動をともにし(『織田信長文書の研究』:『武家事記』二十九所収松井友閑宛織田信長黒印状写)、六角佐々木氏系図略で義康母を「信康女」とすることから、義康母は犬山之伊勢守息女(『織田信長文書の研究』:『南陽堂楠林氏文書』所収天正三年正月十一日付斎藤玄蕃助宛織田信長朱印状)と推定できる。官位は、右兵衛佐・左衛門督・侍従・左近衛中将・近江守と累進した。近江八幡山城主。系図では、元亀三年(一五七二)比叡山を再興した六角義郷(義秀の弟)と混同されている。
 父六角義堯(義秀の嫡子)が足利義昭に同行して備後鞆に下向し、信長包囲網を築いたが、義康は幼少だったため信長陣営の江州衆に擁立されていた。天正十年(一五八二)本能寺の変に始まる明智光秀の乱では、江州衆が光秀と対抗するが敗れ(『言継卿記』)、義康は明智軍による安土・観音寺城攻撃直前に蒲生賢秀に救出された。しかし明智軍は近江平定に時間を費やしたため、態勢を整える間もなく山崎に戦いで羽柴秀吉に敗れている。
 救出された義康は足利義昭の養子になったが、天正十三年(一五八五)秀吉の命で六角氏を再興し、近江八幡山城主羽柴秀次の与力になった(沙々貴神社所蔵佐々木系図)。『兼見卿記』同年十月六日条に「今度内昇殿之衆」のひとりとして武衛侍従が見える。沙々貴神社本ではこのとき従四位上左衛門督に補任され、さらに翌十四年(一五八六)豊臣朝臣姓を給付されるとともに侍従に補任されたとする。それを裏付けるように『歴名土代』には、従四位下の項に左衛門督侍従豊臣義康が見える。天正十五年(一五八七)の九州征伐では、一万石相当の兵力(四〇〇人)を動員している(『当代記』)。
 天正十六年(一五八八)四月聚楽第行幸で豊臣秀吉に供奉し、歌会にも出席した(『聚楽亭行幸記』)。このときの義康の序列は豊臣・織田一族に次ぐ高いものだった。
 天正十八年(一五九〇)小田原征伐では、五月二十九日に陣中で催された茶会に招かれている(『天王寺屋会記』)。このとき義康に足利義昭の近臣真木島昭光が供奉している事実は、義康が足利義昭の養子であったとする沙々貴神社所蔵佐々木系図の系譜伝承を支持している。さらに同系図では、義康の妻を織田秀信(信長の孫)の娘と伝えているが、『多聞院日記』天正十九年(一五九一)五月十一日条に「去月廿六日商山様へ関白ヨリ祝言在之、信長ノヒサウノ虎福女也」とあり、この記事が義康の祝言を指しているかもしれない。そうであれば、秀信の娘では年代は合わない。信長の娘か孫であろう。
 文禄元年(一五九二)三月二十六日豊臣秀吉出陣で、義康(金吾殿)は第一陣を勤め、先駆が山伏の姿で法螺貝を吹くという出立ちで注目された(『鹿苑日録』)。第二陣が足利昌山(義昭)、第三陣が黄門衆、第四陣が浅井長政・津川三松(義近)・堺衆・近侍衆、第五陣が太閤衆であった。金吾は衛門の唐名であり、左衛門督侍従義康と同一人物だと分かる。義康は武衛侍従とも呼ばれるため(『兼見卿記』天正十三年十月六日条)、斯波氏(武衛)の子孫津川三松とよく混同されるが、この記事で左衛門督義康と津川三松と別人であることが確認できる。さらに、義康と足利義昭(昌山)が親い関係にあることが確認できる。
 『太閤記』では、名護屋御留守在陣衆に江州八幡侍従・左京大夫父子が見られる。これが義康である。秀次が尾張清洲城に移るとともに、与力義康が近江八幡山城主になったと考えられる。また子息左京大夫は、系図で義康の弟とされる秀綱のことだろう。
 その後、まもなく義康は帰京した。文禄三年(一五九四)二月二十日義康(左衛門督殿)は、豊臣秀吉・秀次の花見で御供衆が帯びる金太刀・金脇差のうち城預かり分を、秀次から渡された(『駒井日記』)。この記事で、義康が関白秀次の与力大名だったことが確認できる。
 そのためだろう。文禄四年(一五九五)関白秀次謀反事件直後の諸大名血判状(『木下文書』)に、左衛門督侍従義康の署名血判がない。秀次謀反事件によって失脚したと考えられる。
 『江源武鑑』などでは、慶長五年(一六〇〇)関が原の戦いで義康は石田三成の誘いを断り西軍に属さなかったことを、家康から賞されたという。しかも義康は戦功はないとして取立てを丁重に断り、その領地を比叡山の再興に資してほしいと願い出たという(『江源武鑑』『関原軍記大成』『難波戦記』『石田軍記』など)。義康が比叡山を再興したという系譜伝承は、元亀三年(一五七二)に比叡山を蒲生郡中荘山に再興した六角義郷(『朽木文書』では氏郷)と混同したものとも考えられる。
 その後豊臣秀頼に公家衆として出仕したようで、『鹿苑日録』慶長十一年(一六〇六)正月二十九日条に江家中将(カウケ中将)として登場する。この記事は、義康・鹿苑院主らが豊臣秀頼に歳首を賀したというもので、このとき義康は承禎の次男高盛(佐々木中務)と初対面だったため、義康から声をかけて今後の入魂を誓い杯を酌み交わしている。没年は元和九年(一六二三)と伝わる。また一休寺所蔵佐々木六角氏位牌によれば、子息秀綱(泰雲院殿前左京兆)は義康に先立って慶長六年(一六〇一)十一月二十九日に没している。

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コメント(12件)

内 容 ニックネーム/日時
小瀬甫庵太閤記の聚楽第行幸に「左衛門侍従義康朝臣」とありました。
同和歌御会に「侍従 豊臣義康 左衛門督」とありました。
ようやく安心しましt。
岩永 正人
2005/05/05 18:27
きちんと『聚楽第行幸記』に出てますよ。
佐々木哲
2005/05/05 21:05
 先日は、トラックバックでたいへんお世話になりました。さて、こちらの記事中にある「金吾は衛門の唐名」または「衛門府(えもんふ)の唐名」ということですが、本文中の「義康(金吾殿)」のほか、当方が調べております、清和源氏満政流 (新訂寛政重修諸家譜 第六 巻第三百二十八)の系図にある、水野下野守右衛門大夫忠政は、ご存じの通り、『信長公記』「村木の取手攻められしの事」の文中に「水野金吾」として登場してきますが、その嫡男、水野下野守四郎右衛門も一説には「金吾」と呼ばれていたとあります。またその弟水野藤次郎忠分(ただちか)(同第三百三十五)も「金吾」と呼ばれていたとの説もありますが、こちらは「衛門」を含む名はみられません。
 そこで浅学のため疑問に思うのですが、当時「衛門」を含む名の人達が全て「金吾」と呼ばれていたのか、または、呼ぶことが可能だったのか。また、「衛門」を含まない名の人達も一部では「金吾」と呼ばれていた可能性があるのか、ということなのです。
 ご講演のご準備でたいへんご多忙と承知しており、決して急ぎませんので、お時間が取れましたら、ぜひお教え願えれば幸いに存じます。
∞ヘロン
2005/12/13 12:11
父祖が任官していた官職名を、幼名、あるいは通称の一部に使用する場合がありました。
 中世までは規則性があったのですが、江戸時代には規則性がなくなり、自称が多くなります。それは大名や高家、役職にあるもの以外は官職を得られなかったからです。衛門府であれば督・佐・尉・志という四等官にあたる部分を省略すれば、たとえ任官していなくても通称として名乗ることができたのです。「□左衛門」「□右衛門」「式部」「兵部」「兵庫」「近江」などが四等官に当るところを省略した通称です。逆に官庁名を省いて、四等官にあたる「助」「丞」などを幼名・通称に使用することもできました。つまり江戸時代は、官庁名と四等官が正式なものと完全に一致していなければ、通称として使用できたのです。唐名もそれに当ります。
 中世までは先祖の官職を名乗っていましたが、江戸時代には父祖の官職とは関係ないものもあったと思われます。江戸時代は特別とお考え下さい。
佐々木哲
2005/12/13 12:52
 ご多用の中にも係わらず、たいへんご丁寧で行き届いたご回答を賜りまして誠にありがとうございました。おかげで長い間の蟠りが解けました。またこれからもどうかよろしくお願いいたします。
∞ヘロン
2005/12/13 13:35
ここは歴史や系図に興味をお持ちの方が多く訪問されますので、今回のような質問には興味を持たれる方も多いと思われます。こちらこそ、今後も宜しく願い致します。
佐々木哲
2005/12/13 13:43
小生がブログを始めた頃、友人からブログの活用法として「こういう使い方があるんだ」と珍しがられたのですが、この度、展示会の宣伝のため「系図……」で検索していて、ようやくこちらのような念願のブログに辿り着くことができました。暗い山道で先達に出会えたような喜びを感じております。これからも手本とさせていただき、また聴講生としてお仲間に入れていただけますればとても幸せです。(^^)
∞ヘロン
2005/12/13 18:41
そのように言って頂いて光栄に存じます。
拙い講演ですが、ぜひ聴講願います。
佐々木哲
2005/12/14 00:04
 先日は「金吾」のご解説をどうもありがとうございました。今般誠に勝手でしたが、こちらのコメント欄のやりとりをマイ・ブログに転用させていただきました。
投稿しました記事の内容は『信長公記』にある「村木砦の戦い」に登場する「水野金吾」について考察しました。ご高覧願えますれば幸いです。身勝手な振る舞いをお許しくださいませ。


http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/5e502834710aa62a0c11bc6e718324dc
∞ヘロン
2005/12/27 17:42
拝見いたしました。いい引用の仕方だと思います。
私のブログでは、トラックバックは必要ないだろうと思い、トラックバック機能をはずしています。トラックバックが必要なときには、連絡頂ければ幸いです。
佐々木哲
2005/12/28 04:03
早速ご高覧いただきましてどうもありがとうございました。また勝手に引用させていただいたことに対しましても、寛大にもお許しを賜り深謝いたします。
 トラックバックにつきましては、コメント欄にURLを記載できますので用が足りていると思われます。ご配慮に感謝いたします。
∞ヘロン
2005/12/28 10:35
お役に立てたなら、研究者としてうれしく思います。今後も気軽に質問してください。
佐々木哲
2005/12/28 22:15

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