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zoom RSS 左馬頭義政

<<   作成日時 : 2005/04/18 01:34   >>

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仁木義政(生年未詳−一五七三)六角氏綱の次男。五郎次郎。佐々木左馬頭。実名は義信であろうか(『安養寺文書』)。系譜伝承では「河端義昌」「八幡山義昌」とする。永禄八年(一五六五)足利義輝が謀殺されると、弟義昭(覚慶)は近江六角氏・若狭武田氏・越前朝倉氏を頼った。永禄十年(一五六七)には足利義昭の朝倉義景邸御成があり、このとき六角氏被官山内六郎左衛門尉と九里十郎左衛門尉が門警固役を勤め、亭主朝倉義景と義政(仁木殿)が義昭を大門の外で出迎えている(『朝倉義景亭御成記』)。このとき義政は迎えられる側ではなく、出迎える朝倉側の人物であり、義景の後見者として振舞っている。このことで朝倉義景に六角氏出身という異説があることも(『朝倉家録』)、十分に納得できる。
 天正元年(一五七三)二月足利義昭と織田信長の対立が決定的になると、仁木義政は、上野陸奥守(信秀)・荒川掃部助・山岡光浄院(暹慶)・杉原淡路守・甲賀衆・伊賀衆とともに近江石山・堅田城に籠城し(『明智軍記』)、三月十八日朝倉義景は近江武士多胡宗右衛門尉に宛て佐々木左馬頭の要害に合力することを約束している(尊経閣文庫所蔵文書)。この文書で、やはり仁木義政と佐々木左馬頭は同一人物であることが確認できる。
 実は義政を資料で最初に確認できるのは、『鹿苑日録』の足利義稙十七回忌の記事である。同記天文八年(一五三九)三月九日条に、足利義稙一七回忌で公帖をもって五千疋が寄進された記事があり、同月十六日条には「義久」の名代五郎次郎大夫が京都に上るとともに、細川高久・飯尾堯連らが仏事料五千疋を寄進したという記事がある。この記事で、公帖をもって五千疋寄進したのが六角義久(系図では義実)と分かる。その弟が五郎二郎である。
 さらに義久の名代五郎次郎は、四月四日焼香のため恵林寺に赴いているが、このことを『鹿苑日録』では「御焼香御成」と記している。五郎次郎を「御成」の主体にしていることは注目できる。しかも五郎次郎には、将軍御供衆大館晴光・細川晴賢・伊勢貞孝が御供している。このことで兄義久が将軍に準ずる待遇だったことが分かる。
  『鹿苑日録』天文八年(一五三九)閏六月二十日条に、六角氏から使者があったことを「自霜台并典厩有使節」と記しており、霜台は弾正台の唐名で弾正少弼定頼を指し、典厩は馬寮の唐名で左馬頭義政を指していると考えられる。このときまでに左馬助あるいは左馬頭に任官したのだろう。
 また義政が仁木氏を称するようになったのは、天文十一年(一五四二)十月六角氏が伊勢国司北畠氏を破り、北伊勢朝明・員弁郡を領したからと考えられる。義政が旧伊勢守護家仁木氏を称したことと、『江源武鑑』天文十一年十月二十七日条で義政が伊勢を領して伊勢義政を称したと伝えることと一致する。旧伊勢守護仁木氏を名乗ることで、伊勢国司北畠氏と対抗したのだろう。
 さらに仁木氏を名乗ることで、佐々木六角氏一門というだけではなく御相伴衆にも列した。御相伴衆は管領に準ずる名誉的格式で、将軍の饗膳に相伴するだけではなく、幕政に参画する幕府宿老衆でもあった。義政の子息河端輝綱(兵部丞)は、永禄八年(一五六五)足利義輝が謀殺されたときに殉じて討死したが(『言継卿記』)、義政はその後も足利義昭の帰洛運動を支え、天正元年(一五七三)義昭が信長と対立すると近江で挙兵している。しかし天正四年(一五七六)の義昭備後下向では名が見えない。天正元年(一五七三)の室町幕府滅亡、朝倉・浅井氏滅亡という一連の事件のなかで戦没したと考えられる。

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コメント(13件)

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古い記事にコメントして申し訳ありません。
河端氏に関して、姓氏家系大辞典には河端郷に住んだことにより名乗ったという記述になっていますが、近江に河端という地名は見あたりません。
どちらの河端であるかご存じでしたらご教授下さい。
きせき
2006/12/14 11:49
郷土史家(故)田中政三氏の報告によれば、(旧)野洲郡仁保村です。
田中政三『近江源氏』3巻の河端氏の項(256頁)に記されています。
佐々木哲
2006/12/14 12:00
お忙しい中ご教授頂き恐縮です。
当地は江頭湊で栄えたようですね。仁保川(日野川)河口の端という感じの地名由来でしょうか。
ありがとうございました。
きせき
2006/12/14 14:32
お役に立つことができて、うれしく存じます。
佐々木哲
2006/12/15 01:04
仁木氏は御相伴衆だったんですか・・・
初期の分家なんで、細川の家来くらいに思ってました。
近江と伊賀は繋がっているので、もともと姻戚関係があったのかもしれませんね。伊賀まで支配してしまうとは、さすが六角氏。先生の御話を聞き、越前、若狭など近江周辺国は全部六角の傘下にあったことを知ることが出来ました。
服部
2008/01/21 01:40
細川氏も仁木氏も、足利氏初期の分家ですので、鎌倉時代は吉良・斯波よりも家格は低いものでしたが、南北朝期の活躍で家格を上昇させ、足利一門の有力者になり、仁木氏は伊勢・伊賀・丹波などの守護家になり、戦国期にも伊賀を保持していたようです。仁木氏は近江甲賀郡信楽荘(近衛家領)の地頭職も得ていましたので、それで六角氏との接点があったようです。
佐々木哲
2008/01/22 11:30
甲賀の地頭でもあったんですか・・・
伊賀と甲賀・・・最強の忍者部隊が組織できそうな仁木氏ですね。
服部
2008/01/23 23:48
江源武鑑、永禄四年三月十九日八幡山義昌
死去以下略、との関係はどのように考えればよろしいですか?
相良
左馬頭義政について
2008/09/21 17:05
『江源武鑑』には錯誤が多いと、わたしは考えています。
佐々木哲
2009/02/27 23:42
八幡山義昌についてお伺い致します。八幡山と名乗っているところから、八幡山に城を構え麓に館を構えて住んでいたのでしょうか、推定できる書物等も含めてお教え下さい。
津田四郎
2010/02/15 18:36
どの程度の内容で知りたいのでしょうか?
すでに拙著は読んでいただけましたか?わたしは論文・著作執筆でコメントに答える余裕はなく、コメント欄を廃止しようかどうか迷っているほどですから、あまり詳しくは説明できません。

豊臣秀次以前の中世の八幡山城は、鶴翼山山頂の秀次の遺構とは異なる支峰にあったようで、滋賀県中世城郭分布調査で言う「北之庄城」のことと思われます。大きな曲輪が2つあり、高度な技術で築城されています。滋賀県のホームページから調べられると思います。

ところで山頂に城郭・麓に屋形というのは、六角氏の本城観音寺城でも見られるもので、豊臣秀次の八幡山城はそれを模しています。

義政を「八幡山」とするのは、沙沙貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略などの系図や江源武鑑・江陽屋形年譜などの編纂物ですが、当時の資料では「仁木義政」「佐左馬」としています。六角氏で資料上「八幡山」を名乗るのは、豊臣秀次後に八幡山城主になった江州八幡侍従・左京大夫父子です。

ところで豊臣秀次後の同時期に、江州八幡侍従と京極八幡侍従の二人の八幡山城主がいるのは、鶴翼山主峰の八幡山城と北之庄城(旧八幡山城)があるためかもしれません。
佐々木哲
2010/02/19 12:30
佐々木氏一門で足利流の仁木を継がれた方がいたとは驚きでした。洛中洛外図に「額田邸」というのがありますが、新田流の額田でしょうか?。先生の武衛邸や幕府の四ッ目結紋の御説に感激しています。図に描かれるくらいの屋敷なので、さぞ名家なのだとは想像できますが。
忠臣蔵ファン
2010/06/15 22:25
東博模本洛中洛外図に描かれている「額田」のですね。額田氏は、細川氏の本貫三河国額田郡細川郷出身の三河武士で、鎌倉時代以来の細川氏の根本被官です。

薬師寺・額田・若槻という細川氏の有力被官の武家屋敷も描くことで、細川氏が畠山・仁木・伊勢・小笠原・石橋などの有力大名よりも重視されていたことを表現しています。
佐々木哲
2010/06/18 02:50

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