佐々木哲学校

アクセスカウンタ

zoom RSS 弾正少弼定頼

<<   作成日時 : 2005/04/16 14:19   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

六角定頼(一四九五−一五五二)高頼の次男。始め相国寺僧承亀。永正十三年(一五一六)九月戦傷で病床にあった兄氏綱の陣代になった(永源寺文書)。翌永正十五年(一五一八)に氏綱が病没すると、氏綱の嫡子義久(四郎)が家督を相続した。さらに永正十七年(一五二〇)父高頼も病没すると、定頼が還俗して甥義久の後見になった。
 大永元年(一五二一)足利義稙が管領細川高国と不和になり、淡路に出奔すると、替わって足利義晴(義澄の子)が高国を支持して入京し、将軍に就任した。翌二年(一五二二)三月定頼も入京し、六角氏は近江で没した義澄が所有していた足利氏伝来の小袖の鎧を、将軍義晴に献上している。
 近江国内では、大永二年(一五二二)七月に守護代家である蒲生秀紀を討伐して六角氏の権力基盤を固めている。さらに大永五年(一五二五)北近江で浅井亮政が台頭すると、甥義久(当時は隆頼)と定頼は、京都対策のためにも背後を撹乱されないよう、北近江に侵攻して浅井亮政を破った。
 大永七年(一五二七)柳本賢治・三好元長に敗れた細川高国が、足利義晴を奉じて近江に逃亡すると、将軍義晴を観音寺城内の桑実寺に保護し、阿波公方足利義維・細川晴元による堺幕府と対峙した。
 享禄四年(一五三一)細川高国が戦死すると、六角氏は細川晴元と和睦して、定頼の娘と晴元の婚約を成立させた。この六角氏と細川晴元の同盟によって、晴元の支持を失った堺幕府は崩壊し、畠山義堯・三好元長は戦死、堺武家足利義維は阿波に逃亡した。ところが、このとき晴元が一向一揆を利用したため、一揆勢力が拡大して畿内が混乱に陥った。天文元年(一五三二)晴元は六角氏・法華一揆の援軍を得て山科本願寺を焼討ち、一向一揆も鎮圧されて、畿内も安定に向かった。しかし、こんどは山科本願寺焼き討ちで活躍した法華一揆が、京都で大きな力をもつことになった。
 天文三年(一五三四)三月足利義晴と近衛家の婚礼では、烏帽子姿で参上した(『天文三年於江州桑実御台様むかへニ御祝目六』)。同年六月には、甥六角義久(六角四郎)と弟大原高保が供奉して義晴は帰京した。
 天文五年(一五三六)五月京都法華一揆と山門側が対立すると、六角氏は調停を試みるものの不調に終わった。七月六角氏は大原高保(中務大輔)を大将にして、山門とともに天文法華の乱を鎮圧している。同年十二月には近江の近松顕証寺蓮淳(兼誉)の仲介で本願寺と和睦した。以後、六角氏は本願寺と同盟を結んだ。これ以後、能登畠山氏など一向一揆対策に苦しむ戦国大名は、六角氏との同盟関係をすすんで結んでいる。
 天文五年(一五三六)甥義久が江州宰相(相公)に補任されると、翌六年(一五三七)定頼は正式に近江守護に補任された(『御内書案』)。同年五月定頼の娘と管領細川晴元の祝言を挙げた(『長命寺結解』)。さらに定頼は、足利義晴御内書に添えて副状を発給しているように(大友文書など)、定頼は幕政に大きく関与するようになった。天文十五年(一五四六)足利義輝元服では、従四位下に叙位されて管領代になっている(『光源院殿元服記』)。
 このように幕府での定頼の役割は大きく、天文期における定頼の政治的位置の重要性を研究を強調した研究(今岡典和「六角氏式目の歴史的位置」一九八六年)を始め、天文六年(一五三七)以降に定頼が口入者として幕政に関与してことを明らかにした研究(奥村徹也「天文期の室町幕府と六角定頼」一九九三年)、さらに足利義晴を擁立して幕府を後見した定頼が京兆(右京大夫)専制の主体細川晴元と対等に対峙・両立していたことを明らかにした研究(西島太郎「足利義晴期の政治構造−六角定頼『意見』の考察」二〇〇〇年)など、定頼に注目した研究がある。
 天文十六年(一五四七)六月十七日六角氏の仲介で延暦寺と日蓮宗の講和を実現した(『蜷川文書』:天文十六年六月十七日付延暦寺日蓮衆徒講和文書案)。
 しかし同年(一五四七)七月足利義晴が細川氏綱(高国の後継者)を支持したため、細川晴元は定頼を説得して義晴父子の北白川城を攻めた。義晴父子は近江坂本に逃走。河内でも晴元方が大勝したことで、義晴は再び晴元・定頼と和睦した。これが定頼が足利義晴と対立した唯一の事件である。以後は再び義晴父子を奉じた。
 天文十七年(一五四八)こんどは細川晴元政権内部で三好長慶と三好政長が対立すると、晴元が政長を支持したため、細川晴元と三好長慶は対立し、長慶は細川氏綱を支持した。天文十八年(一五四九)摂津江口の戦いで三好政長が戦死し、晴元は足利義晴・義輝父子を奉じて近江に逃亡して六角氏に保護を求めた。この年六角氏は日本初の楽市を観音寺城の城下町石寺新市で実施、内政の充実もはかっている。
 しかし天文十九年(一五五〇)五月足利義晴が近江穴太で病没した。同年七月足利義輝・細川晴元が出兵している。十月には三好長慶が六角氏を仲介に和談を申し込んだものの不調に終わり、11月戦闘があって義輝と晴元は再び近江に逃亡している。その後も六角氏は和平交渉を継続したが、天文二十一年(一五五二)六角定頼は病没した。法号は江雲寺殿光室承亀大居士。
 定頼の官職は弾正少弼だったが、それは京都を巡察して非違を糺す弾正台の次官で、公家を弾劾することもできた。幕政に大きく関与した定頼にとっては、単なる名誉職的な王朝官職ではなく、実利的なものといえる。弾正台の唐名が霜台であったため、定頼は六角霜台と呼ばれたが、以後霜台は幕府で実権を握る者が好んだ観がある。松永久秀は弾正忠・弾正少弼に任官し、織田信長も顕官への任官を拒否して弾正忠であり続けた。幕府と朝廷に睨みを利かせ、京都を支配しようとする者にとって、霜台は実利的な官職だったといえる。

【参考文献】
今岡典和「六角氏式目の歴史的位置」(有光友学編『戦国権力と地域社会』吉川弘文館、一九八六年)
今岡典和・書評「今谷明『室町幕府解体過程の研究』」(史林六九−四、一九八六年)
奥村徹也「天文期の室町幕府と六角定頼」(米原正義先生古稀記念『戦国織豊期の政治と文化』続群書類従完成会、一九九三年)
西島太郎「足利義晴期の政治構造--六角定頼『意見』の考察」(日本史研究四五三号、二〇〇〇年)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

恋愛哲学

弾正少弼定頼 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる