佐々木哲学校

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zoom RSS 右衛門督義治

<<   作成日時 : 2005/04/14 00:15   >>

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六角義治(一五四四−一六一二)義賢の長男。母能登畠山義総娘。幼名亀松丸(朽木文書:十一月二十八日付佐々木民部少輔宛亀松丸書状、同日付同宛水原氏家書状)。本名義弼。四郎、右衛門尉(木村文書『六角氏書状巻物』)、右衛門督(『顕如上人書状案』)。法名玄雄。
 永禄三年(一五六〇)宿老衆が義弼(四郎)と美濃斎藤義龍の娘との縁談を進めた。それに反対した父六角承禎の同年七月二十一日付書状(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書)によって、斎藤道三の国盗りが、実は父長井新左衛門尉との二代にわたるものであったことが分かる。この中で、承禎は次のように述べている。
 六角氏と美濃土岐氏の重縁は慈光院殿以来のものであり、このことはよく知られている。それにもかかわらず、土岐氏の仇敵斎藤氏と縁組をすることは言語道断である。また朝倉・織田・遠山と三方に敵を抱えている斎藤氏では当家の助けとはならない。むしろ越前朝倉氏との関係を重視すべきである。
 このように承禎が強く説いているのは、土岐頼芸が当時近江で亡命生活中であり、頼芸は承禎の妹婿であり、承禎も頼芸の妹婿(再婚)だったからである。しかし六角・斎藤同盟は成功した。永禄四年(一五六一)三月美濃に侵攻した浅井長政を破っている(竹中文書:閏三月二十五日付竹中遠江守宛六角義弼書状)。以後浅井氏は六角氏旗下として行動する。
 後顧の憂を断った六角氏は、河内畠山高政とともに三好包囲網を築き、京都奪還を目指すことになった。永禄五年(一五六二)三月には父承禎・義弼・弟高盛の三人が大将になって京都に出勢している。
 ところが義治は、永禄六年(一五六三)宿老後藤但馬守(賢豊)・壱岐守父子を謀殺して、宿老衆と対立した(観音寺騒動)。このとき承禎は義治(右衛門尉)を叱責している(木村文書『六角氏書状巻物』:五月二十二日付木村筑後守宛六角承禎書状)。
 「佐々木系譜」(『系図綜覧』所収)や『近江蒲生郡志』では、このとき家督が弟高盛(高定)に移譲されたとしている。しかし義弼は義治と改名するものの、家督を弟に移譲するどころか、官位も右衛門尉(三等官)から右衛門督(長官)に昇進し、本願寺と音物を贈るなど交流があった(『顕如上人書状案』)。家督が義治から弟高盛に譲られたとする学説は、実証歴史学を唱えながら資料を見ていないといえる。
 永禄八年(一五六五)五月三日将軍義輝が三好義継・松永久秀によって謀殺された。このとき義輝の母慶寿院は火の中に飛び込み自殺し、弟周ロは殺害されている。これは観音寺騒動(後藤騒動)で六角氏が身動きできなかった間隙を突いて、三好・松永党が起こした事件であった。
 永禄十年(一五六七)家臣団は六角式目を制定し、承禎・義治父子に承認させることで、父子の行動を規制し、体制の立て直しを図った。しかし義治は三好三人衆に近づき、家督義秀を奉じる家臣団と対立することになった。
 永禄十一年(一五六八)九月足利義昭を奉じた織田信長の上洛戦では、三好三人衆石成友通の援軍を得て箕作城に籠城した。十一日近江愛智川で合戦があり、信長は敗れて帰国したため、石成友通は帰京している(『言継卿記』)。しかし信長は石成氏が帰京したのを見計らって翌十二日に再び近江に出張し(『言継卿記』)、六角氏の前線和田山城・本城観音寺城との正面衝突を避けて、承禎父子の箕作城を直接攻めた。激戦の末、父承禎・義治・弟高盛は敗れて近江甲賀に逃走している(『信長公記』『江源武鑑』)。
 しかし元亀元年(一五七〇)四月承禎・義治父子は浅井長政を誘い挙兵した。五月織田信長は近江勢多の山岡城で、承禎・義治父子と和平交渉を進めるが決裂している。承禎・義治父子は二万の大軍で近江甲賀郡石部城まで出張した(『言継卿記』)。
 姉川の戦いでは六角・浅井・朝倉軍が、織田・徳川連合に勝利している。信長は自軍の勝利と宣伝したが、九月には浅井・朝倉連合軍が近江高島郡の織田方の宇佐山城を攻略に成功した。このとき信長の弟織田信治と森可成が戦死している。さらに承禎・義治父子は逢坂山を越えて山科まで進駐した。信長が正親町天皇による調停を引き出すことに成功したため、十一月承禎・義治父子は信長と和談している。十二月には朝倉義景も信長と和談した。
 承禎・義治父子は、その後も甲賀郡石部城を拠点に信長包囲網を構築するのに尽力し、義治はさらに愛智郡鯰江城に進出している。しかし天正元年(一五七三)七月足利義昭が京都を追放され、八月朝倉義景・浅井長政が相次いで滅亡すると、九月四日義治は信長と和睦した(『信長公記』『江源武鑑』)。
 その後も承禎・義治父子は甲賀郡石部を拠点に活動し、甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を実現し、再び信長包囲網を築くことに成功している(木村文書所蔵『六角氏書状巻物』・黒川文書)。しかし、こののち義治の動きをしばらく資料で追えなくなる。父承禎が晩年の一時期能登に滞在しており(石川県裏本友之氏所蔵佐々木承禎自画像)、朝倉宮増丸らの朝倉氏復興運動に尽力した佐々木源兵衛(吉川文書:十二月七日付武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状)が義治である可能性がある。
 義治が再び資料に登場するのは、文禄元年(一五九二)九月六日関白豊臣秀次が犬追物を催したときであり、弓馬師範として召し出されている(『鹿苑日録』)。また慶長十二年(一六〇七)五月十二日当時は豊臣秀頼に仕えていた(『鹿苑日録』)。このとき法名玄雄(玄由)と称していたことが確認できる。慶長十七年(一六一二)十月二十二日没。享年は六十九歳。法号は覚園院殿四品前右金吾天英雄公大居士。位牌は父承禎と同様、京都宇治の一休寺にある。

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コメント(18件)

内 容 ニックネーム/日時
私の家の墓に先祖佐々木源兵衛は佐々木義賢左京太夫より出ず。とあり、佐々木源兵衛はその徒数人を率いて阿波国を浪遊したとありました。この佐々木源兵衛は佐々木義治なのでしょうか?
源兵衛
2005/05/25 22:10
佐々木源兵衛が随って六角義堯(大本所)は、天正6年に阿波・淡路の兵を率いて和泉堺に着岸し、多武峰衆徒に挙兵を呼びかけています。ですから佐々木源兵衛に関する事跡を正確に伝えていると思います。しかし義治には男子が無く、甥の高賢を婿養子にしています。そのため義治の子孫と即答はできませんが、義堯に随っていた佐々木源兵衛の縁者の可能性はあります。
佐々木哲
2005/05/25 23:48
はじめまして。
佐々木家系譜興味深く拝見いたしました。
私の家は佐々木家の配下で和田と申します。
承禎・義治父子と共に観音寺城を出、その後の
この佐々木家と共に落ち延びた家系と聞いております。私の家は現在真田紐を作っておりまして
屋号を江南と申します。近江に居た当時甲賀・伊賀を治めておったらしく当時統治していた領地で真田紐や組紐の製作を地域振興策並びに当時の軍事産業として行っていたようです。
私が昔祖父から聞いていた流れをお話ししますと戦乱の世が落ち着きを取り戻した跡佐々木家の殿様一家を守りつつ我々含め三軒の家老職が京都に移住しそれぞれ地元でやっていた刀鍛冶・金具細工・真田紐制作をして殿様一家を食べさせていたようです。明治維新までお家再興を願っていた様ですがそれも叶わず現在に至っております。
殿様一家はその後大阪に移住し戦後最後に残っていたおばあさんが亡くなり途絶えたようです。
三軒の家老職の家は現在でも京都にありそれぞれ庖丁屋・和風家屋の飾り金具・真田紐のそれぞれの
職人としてやっております。
江南
URL
2009/03/28 16:53
菩提寺にはまだ姫様の御墓があり、たまに参拝しております。御墓には龍現院殿近江太守代々の墓 江国寺殿鎮主将軍源成頼公 明栄院陸奥太守姫君源●●とあります。(アドレスのトコに行ってもらえれば写真があります。)
古い系譜が書かれたものは寺に置いてありますので出してもらわなければなりません。
もっと古い事が知りたければ「本門に行け」という言葉が残っておりますがその「本門」がどこを指すのかわかりません。たぶん「本山」とかという意味での「本門」だと思いますが何かご存知でしたらお教え下さい。
江南
URL
2009/03/28 16:54
本門には、@表門・正門の意味と、A法華経における仏語の意味があります。菩提寺の専祥寺は法華宗ですか? これだけでは何とも答えられません。
佐々木哲
2009/03/28 22:18
ありがとうございます。
専祥寺は浄土宗ですが安土周辺で浄土宗から法華宗に変わった寺(もしくは逆)とかあるのかもしれませんね。
江南
2009/03/30 12:20
専祥寺が浄土宗でしたら、A法華経における仏語と考えなくてもいいですね。@表門・正門の意味でしょう。「本門に聞け」は、六角佐々木氏の本所(本家)に聞けという意味と思われます。
佐々木哲
2009/03/31 02:03
ありがとうございます。本門=本家という意味もなるほど,あるんですね。
ちなみに専称寺先々代の住職の覚書に少々佐々木家の事が書かれております。
●佐々木六角家之事
当山には近江太守六角家の位牌と25代〜31代までの菩提所と記入せし過去帳が保存されております。六角家は元東近江の観音寺城主であったが織田信長が上京の際に意に反するものは攻められ落城の運命となり
江南
2009/04/08 03:55
末孫は皆ちりぢりになったと思われる。
当山には白木の位牌7基と墓地.墓地には龍現院殿近江太守代々尊儀と明清院浄盃童子(元徳元年)と記入せし二基の墓石が残っている。過去帳には31代の太守と妻女の二霊が記入され明治時代に末孫二名(京都五条坂と大阪より)が盆と彼岸に参えられしが現在は不明である。

と以上です。
なお文中の過去帳のコピーがこちらにもございますが機会あれば見てみます。ありがとうございました。
江南
2009/04/08 04:08
コメントありがとうございます。

龍現院は六角氏歴代に見られない院号です。これまで知られる六角氏の子孫とは、別の系統でしょう。また元徳元年(1329)と鎌倉末期に没した童子の墓石があるのですか?信長以前です。調査の必要があるかもしれませんね。
佐々木哲
2009/04/08 12:17
専称寺は京都・三十三間堂の西側にあります。
童子の墓石は私も子供の頃から見ておりますがそんな古いものだったのですね。ですが現住職は元公務員の方であまりこういう事に興味がなく去年無縁墓地を整理された際、現住職を説得しまして写真の墓石のみなんとか守る事は出来ましたが童子の方は処分されてしまったかも知れません。整理される際何とか守ろうと滋賀県の教育委員会にもメールにて状況をご説明し調査される様たのんだですが全くご返信戴けませんでした。過去帳には乗っておるかと思いますので機会あればおたづねください。ありがとうございました。
江南
2009/04/09 05:18
もう一つ。
私の家は甲賀周辺を治めておりましたので和田惟政公の直系もしくは一派だと思いますが佐々木六角義治公が甲賀を出た後に和田惟政公が高槻城の城主になったとされるHPを見たのですがほんとうでしょうか?
江南
2009/04/09 05:24
そのHPにどのように書かれていたか知りませんが、和田惟政は織田方になっていますので、義治追放後もそれに従ったということはありません。また和田氏には六角氏の一族が養子として入っていますが、その一族も六角氏嫡流(義秀)の側です。義治に和田氏が従ったというのは初耳です。分流の一人が従ったのかもしれません。ただし、家伝には錯誤も含まれますので、それをきっちりと見分けていく必要があります。わたしは、伝承から作為や錯誤を注意深く取り除いていくことで歴史にたどり着けるという立場ですので、すべてを疑っているわけではありませんが、調査が必要だと思います。
佐々木哲
2009/04/09 13:06
こんにちは。ありがとうございます。
和田氏一族というのはあまり歴史的な文書には書かれておりませんが佐々木一族であって佐々木一族でない部分がございまして信長方・佐々木方他各国の武将に通じているとお考えいただいた方が適切かと思いますが,その後の忍びの原型となるのかもしれませんがどちらかというと独立した存在かと思います。歴史書的にはそれぞれの武将に味方すればそれぞれの文書で見方,反発すれば敵方と書かれてしまいますので。
得意分野はどちらかというと戦後処理(脱出や落延等)・仲裁等々裏方仕事が多かったようですね。
江南
2009/04/12 03:34
[従った]という表現より事後義治一族や江南家(滋賀県と愛知県の境目にあった一族だそうです)他脱出した方々のの立つ瀬を[なんとかした]という方が正しいのかも知れません。その辺り義昭の近江脱出に係わった時からそういった知識があったのかも知れませんね。今よりも敵味方の区別は曖昧で血縁で動く者も居れば報償や除名の為動く者もいる中で状況の中間で動いている者も居たのだと思います。またご意見を伺えれば幸いです。
江南
2009/04/12 03:51
六角氏の子孫とは言っても、承禎・義治の子孫だけではありません。京都には、六角氏嫡流の義実・義秀・義郷の子孫もいます。和田氏はこちらとの関係が強いので、義治の動向にこだわる必要はありません。

また甲賀武士を忍者と決めつけないで下さい。独立した武士で、とくに和田氏は将軍御供衆を勤める名門でした。

焦らず憶測せず、残っている資料から地道に調査しましょう。
佐々木哲
2009/04/12 20:16
一般的な歴史の教科書では石部城鯰江城などの記述は無く、信長の上洛の時に六角氏は滅亡したことになっています。どうしてこのようなことに現在なっているのですか?。信長の同盟軍の徳川の江戸の歴史が明治以降の現在にも引き継がれているのでしょうか?。
忠臣蔵ファン
2010/06/15 22:13
箕作落城で、六角承禎・義治父子の近江支配が実質上失われたと考えられているために、石部城・鯰江城のことは、一般的な歴史学の教科書では記されないことになります。

しかし六角義堯の活躍が見られるように、その後の六角氏を無視しては信長包囲網を正しく理解することはできないでしょう。現在の研究でも六角義堯を過小評価していると思います。

また義秀や近江修理大夫の存在も、信長を語る上では忘れてはならない人物でしょう。

これらの人物がいまだに無視、あるいは過小評価されていることは歴史学の怠慢だと考えています。資料に基づくと言いながら、先達の研究から大きく逸脱したものは、たとえ資料に記載されていても認めないからです。これでは実証歴史学とはいえません。
佐々木哲
2010/06/18 03:01

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