メールマガジン系図学校第2号

1.系図の見方

先祖の名で家系を知る2
~農民に多い衛門や兵衛

通称に多い衛門や兵衛は、衛門・兵衛府の判官である尉です。そのため源右衛門とあれば、源氏で右衛門尉を意味します。さらに尉には大尉・少尉・権少尉があり、右衛門尉とあれば、定員外の右衛門権少尉を意味します。〈権〉は定員外を意味し、行幸のときには正員の少尉が権少尉を率いました。

源義経は左衛門少尉で検非違使を兼任し、しかも天皇の御所に上がる昇殿を許されました。左衛門少尉は皇居の大門と京中を警固する武官であり、兼任した検非違使は警察と検察・裁判官を兼ね、大尉が法律家、少尉は軍勢を率いて追捕する武官でした。さらに天皇や上皇の行幸では美しく着飾る花形でした

少尉は地方の反乱の鎮圧にも向かうため、平氏追討の大将義経が検非違使の少尉(判官)に補任されたのは有職故実にかなっていました。義経が源氏の名誉と考えたのは当然で、頼朝が怒ったのは、頼朝の許可なく任官したからです。

農民に衛門・兵衛と名乗る者が多いのは、江戸以前には衛門尉や兵衛尉を勤める武士だったからです。豊臣秀吉の刀狩令による兵農分離まで武士と農民は実は同じ身分であり、農民が衛門や兵衛を通称とするのは自然でした。

全国で新田開発をした庄屋・名主の多くは、戦国時代に没落した守護・地頭の子孫であり、織豊時代に成り上がった武士よりも名門であることも珍しくありませんでした。また本家筋が幕府や藩に仕官しないことも多く、自らは本貫の地を守り、分家が仕官することもありました。

2.歴史研究実況中継

【出雲佐々木延福寺氏】

佐々木延福寺氏は、「永享以来御番衆帳」(群書類従二十九輯)の二番に佐々木延福寺対馬守・平四郎が見えます。佐々木氏は源氏であるため、平氏を継承して平四郎と名乗ったと分かります。正長二年(1429)分の杵築大社三月会一番饗二番饗神物引付では、「二貫文、永享二・二月十三日、延福寺内遠江殿さた」とあり、この遠江殿も佐々木延福寺氏と考えられます。同書で「二貫文、八月六日、加賀庄内延福寺内遠江殿さた、東殿なかたに殿沙汰」とあるように、延福寺は加賀庄内にありました。

さらに同書で「弐貫文、同年五月二十八日、かゝ庄宍道殿さた」とありますが、祭事で資金を負担したのは地頭ですから、室町期には宍道氏が加賀庄地頭だと分かります。宍道氏は京極高秀の子遠江守秀益(宍道八郎)に始まる佐々木京極氏庶流です。

鎌倉期の加賀庄地頭は良文流平氏の土屋氏であり、佐々木延福寺氏は土屋氏を継承したため、平四郎と名乗ったと考えられます。鎌倉評定衆の土屋左衛門尉宗光(弥三郎)は承久の乱で出雲国内に地頭職を獲得し、その子左衛門尉光時の妻に佐々木信綱の娘を迎えました。

永享年間当時の佐々木遠江守としては、『建内記』永享二年七月二十五日条の足利義教右大将御拝賀式に「佐々木遠江守高慶」が見えます。佐々木宍道氏と考えられ、延福寺遠江殿と同一人物の可能性が高いといえます。

メールマガジン系図学校第1号

1.系図の見方

先祖の名で家系を知る
~通称が資料になる

各家にはそれぞれの通称がありました。そのため通称で家が区別されました。普段は名字を名乗らなかった農民や町民も、通称で家を区別しました。そのため通称で家系をたどれます。

たとえば源右衛門尉であれば、源氏で右衛門尉という意味です。新任であれば新右衛門尉であり、平氏であれば平右衛門、藤原氏であれば藤右衛門です。また右衛門も右衛門尉を指します。明治維新まで続いた律令の官位制度では、ひとつの官職を長官・次官・判官・主典の四等官に分け、右衛門・兵衛・式部と官名のみで呼ぶのは実務担当の判官です。紫式部の父親は、式部省の判官である式部丞でした。そこで紫式部は、源氏物語の主人公紫の上の〈紫〉と父の官職〈式部〉を合わせて、紫式部と呼ばれました。

次に応用です。太郎左衛門であれば長男で左衛門尉になった者ですが、左衛門太郎はどういう者でしょう。正解は、左衛門尉の長男です。また長男が代々三郎を名乗っていれば、家祖が三男です。これが、通称で系譜が分かる理由です。

2.歴史研究実況中継

佐々木宇津木氏
~源氏なのに平氏

室町時代の佐々木氏の動向を当時の資料で調べる中で気づいたのが、佐々木氏が源氏であるに、通称で平氏を名乗る者がいることです。江戸時代に塙保己一が小さな資料を収集して『群書類従』を編集しましたが、そのなかに「永享以来御番帳」があります。

「永享以来御番帳」は室町将軍家奉公衆(直臣)の五番編成を記述したもので、そのなかに宇多源氏の佐々木一族も見られます。一番に佐々木大原(大原庶流白井)、佐々木宇津木、佐々木浅堀、吉田、二番に佐々木延福寺、高島(高島庶流)、佐々木井尻、三番に塩冶、五番に大原、三上、鏡、岩山です。

このうち佐々木宇津木氏は佐々木宇津木平次郎と名乗り、二番の佐々木延福寺は佐々木延福寺対馬守・平四郎と名乗ります。これは、宇津木氏も延福寺氏ももともと平姓だったからです。また、文永八年十一月出雲国杵築大社御三月絵相撲舞頭役結番事(千家文書)によれば出雲井尻保地頭に宇津木十郎と記されており、承久の乱(一二二一年)の宇治川渡河戦で活躍した宇津幾十郎が新補地頭として出雲入りしたことが分かります。

東国御家人宇津木氏は、実は武蔵七党横山党(小野姓)の一族であり、宇津木三郎が源頼朝の上洛に随いました。横山党は縁戚関係にあった和田義盛の乱で滅び、武蔵国横山庄地頭には大江広元が補任されましたが、宇津幾十郎が承久の乱で戦功を上げます。文永八年の記録に井尻保地頭として見える宇津木十郎は、その直系でしょう。『吾妻鏡』によれば、承久の乱の宇治川渡河戦で負傷した者に宇津幾平太が記されているので、和田義盛の乱後に平姓の人物が宇津木氏を継承していたと分かります。太平記でも正平七年閏二月十六日条に宇津木平三が見えます。さらに佐々木氏が継承した後も、通称の「平」を使用し続けました。

天文九年八月十九日付の竹生島奉加帳(竹生島宝厳寺文書)では「出雲州衆次第不同」の中に宇津木殿が見られます。ただし尼子氏の御一族衆(京極庶流)は宍道八郎・鞍智右馬助・宍道九郎のみであり、宇津木氏はあくまで国衆でした。

ところで彦根藩重臣宇津木氏は上野国(群馬県)出身で、戦国期に宇津木下総守(氏久)が八王子城主北条氏照の女婿となり、子治部右衛門泰繁が箕輪城主時代の井伊直政に仕え、井伊家の近江彦根転封にともない、彦根藩家老の家柄になります(大阪天守閣所蔵宇津木氏文書)。同じく横山党の系譜ですが、出雲の佐々木宇津木氏の子孫ではありません。

宇多源氏である佐々木一族が通称で平を名乗るのは、もともと平姓の宇津木氏を継承したからです。家名と通称は平ですが、血筋は源姓佐々木氏です。このように家名の名字と血筋が異なる例はよくありました。これまで系譜伝承に佐々木氏とも平氏ともあると誤りと決めつけましたが、実は歴史事実を伝えていたのです。資料で見つかった矛盾は新発見につながるので、研究者にとって大きな喜びです。

現代文メモ

評論文には共通するテーマ「常識を疑う」があります。常識を疑い、新しい知識を身につけるということです。「常識を疑う」ので逆接の接続詞〈しかし〉が重要です。そしてそこには新しい知識があります。物語文では、背景・気持ち・きっかけの「は・き・け」が重要です。場面ごとの背景は気持ちを表し、場面が変わると気持ちも変わります。そして、気持ちが変わったきっかけが、物語文では読みどころです。どちらも「逆・転」が重要です。

逆接の接続詞
評論文は常識を疑うので、逆接の後が筆者の意見です。ただし〈もちろん〉〈たしかに〉と常識の一部を認めながら、〈しかし〉と自分の意見を述べます。対話しながら二つの意見をまとめて、より良い意見にするのです。〈正〉〈反〉〈合〉の弁証法です。これが評論文の基本形です。これを知っておけば読めます。だから対比に注目すると、論点が見つかりやすいです。また接続詞問題では、〈もちろん〉+〈しかし〉の組み合わせがよく問われます。

重要なことは繰り返す
評論文では重要なことは繰り返します。〈つまり〉〈すなわち〉と言い換えたり、同じ言葉を繰り返したりします。そのため抜き出し問題なら傍線部や空欄の前後、挿入問題ではあれば挿入文のキーワードと同じ言葉を探しましょう。設問文中に「~という気持ち」とあれば、本文中から「気」「気持ち」を探しましょう。設問文中の言葉にも注目です。

論理はひとつひとつ積み上げられる
言い換えの接続詞がなくても、論理的文章はひとつひとつ積み上げられているので、前後の文が言い換えや理由になっています。傍線部や空欄の前後には注目しましょう。

選択肢問題
最初に選んだのが正解で、見直したら不正解ということはよくあります。それは重要ではない細かいところで、あれこれ悩むからです。重要なことは繰り返されるので、一読して印象に残ります。選ぶコツは述語部に注目することです。いくら前半がよくても、後半の述語部がまちがっていれば不正解です。だから先に述語部で選ぶと正解を選びやすいです。

論述問題
25字でキーワードひとつです。50字ならキーワード2つ。75字なら3つ。100字なら4つです。長い論述なら、キーワードごとに箇条書きにしてまとめるといいです。私立なら本文中の文をうまく利用し、国立ならそれを自分の言葉に置き換えましょう。

三井・目賀田氏の略系譜

 三井・目賀田氏はその系譜伝承によれば、藤原道長流御子左家の権中納言藤原基忠の子右馬頭信忠の子孫という。そして一井氏の女婿になることで、比牟礼八幡社神主となった。一井氏は和邇氏族だが、佐々木荘下司源行真(豊浦冠者行実)の孫家職が一井氏に養子に入り源氏となった。さらに一井氏に目賀田氏が女婿に入った。まず一井中務太郎入道生蓮から目賀田女房(一井丞正観)に正神主職と大島郷内の田畠が譲渡され(一七六九号、『鎌倉遺文』23362)、延慶元年十二月日付袖判文書で一井丞正観(源氏女)が神主に補任された。さらに元弘二年(一三三二)正月十三日付比牟礼神主下文(一七七一号)で一井正観から目賀田信職(藤原信職)に神主職が譲与され、さらに文和四年八月十一日付一井殿御譲正文(一七七二号)で一井氏から信職に所領が譲渡されている。

 ところで目賀田信職は藤原氏を名乗っていたが、天龍寺供養で六角満高に供奉した目賀田次郎左衛門尉源兼遠は源氏を名乗っていた。源氏の名乗りは、源姓一井氏を継承したからだろう。佐々木六角氏に仕えるときは、佐々木一族として源氏を称したと考えられる。このように目賀田氏は藤原氏とも源氏とも名乗っている。これが『尊卑分脈』で御子左流藤原氏に平信忠が記されている理由かもしれない。分脈によれば御子左流藤原信忠は三条源氏右中将信宗の実子とも伝えられ、藤原氏とも源氏とも名乗るには都合がいい。しかし資料上で左馬頭信忠に相当する人物は、後白河院近臣右馬助平信忠であり、藤原氏ではなく平氏である。さらに系譜伝承で信忠の子とされる右馬信生は、資料上の左馬権頭平信業(信成)に相当しよう。信業は信忠の弟だが年齢差もあり、父子の礼をとっていた。信業は長い間左馬権頭であり、のち大膳大夫に至ったものの、系譜伝承で大膳大夫ではなく右馬と伝えられても不思議ではない。むしろ自然であろう。このように左馬頭藤原信忠で探しても見つからなかった信忠も、左馬頭・信忠という官位と実名をもとに探したことで、後白河院近臣右馬助平信忠に至り、系図上の信生も左馬権頭信業(信成)に相当すると考えるに至った。さらに系図で信生の子とされる信政についても、東寺百合文書に見える左近衛将監平信正と同一人物と考えられる。年代的に左馬頭信業の子にふさわしく、官位の左近衛将監(六位相当)は天皇の親衛隊である左近衛府の判官(三等官)であり、現場で指揮をとった。そのため近衛将監は、六位蔵人・式部丞・民部丞・外記・史・衛門尉と同様に、正月の叙位で叙爵枠があり、人気のある官職であった。左近衛将監で五位に叙爵された者をとくに左近大夫という。鎌倉御家人では北条氏が補任され、佐々木氏では信綱が初官で六位左近衛将監に補任されている。任官当時の左近衛大将九条道家の推挙であろう。このように名誉ある左近衛将監は大膳大夫(四位相当)の子にふさわしいといえよう。さらに信正の子は大膳允で大膳職の判官(三等官)であった。藤原氏という考えを捨てることで三井・目賀田氏の系譜研究は一歩前進したといえる。

 右馬助平信忠は壬生家文書によれば、摂津採銅所預(奉行)大江氏の実子あるいは養子であり、検非違使補任のときには大江氏を名乗っている。その摂津には目賀田氏と同様、平姓で信の字を通字とする芥河氏があった。右馬寮の官職に補任され、家紋が杏葉紋であることも目賀田氏と共通している。摂津採銅所の権益を有した平信忠(大江信忠)の直系の可能性がある。

 また東寺百合文書所収の平信正敷地文書紛失状案の証人のひとりに伊勢権守平永貞がいることから、平信忠・信業の系譜を伊勢平氏に求められるかもしれない。また証人の一人佐々木助友(助朝)が京都梅小路の敷地を購入していることから、この信正・大炊允父子のとき近江に移ったと考えられる。佐々木助友(助朝)もすぐに源国末に転売しており、仲介者であった可能性もある。また源国末が清和源氏義親流の源太国季と同一人物であれば、摂津採銅所がある摂津能勢郡を本拠とする能勢国能の女婿であり興味深い。

 では目賀田氏が名乗る藤原氏は、どのような系譜であろうか。そこで杏葉紋を使用する藤原氏を調べてみよう。すると車紋に杏葉紋を使用した勧修寺流藤原親雅(沼田頼輔『家紋大辞典』)、藤原氏頼宗流持明院家、あるいは中原親能(藤原親能)の子孫摂津氏が見つかる。このうち中原親能は、御子左流藤原俊忠の実子で中原広季の養子とも、また逆に広季の実子で俊忠の養子とも伝わり、その系譜は確定しがたい。豊後大友氏が杏葉紋を使用したのは、初代能直が中原親能の養子だったことによる。しかし、もっとも注目できるのは平信業(系図上の信生)の女婿藤原親雅であろう。勧修寺流からは、信正父子の先祖伝来の地である梅小路周辺を家名とする梅小路家が派生する。しかし勧修寺流藤原氏の諸家は、中近世には竹に雀紋を使用している。そのため勧修寺流藤原親能が杏葉紋を使用したのは、杏葉紋が馬具に由来するように、馬寮の官職を得た平信忠・信業・業忠との関係とも考えられる。親雅と信正の名乗りの間には通字の関係あるかもしれない。

メールマガジン系図学校一覧

「先祖の名で家系を知る―通称が資料になる」「佐々木宇津木氏―源氏なのに平氏」第1号、2013年3月1日。
「先祖の名で家系を知る2―農民に多い衛門や兵衛」「出雲佐々木延福寺氏」2号、2013年3月15日。
「先祖の名で家系を知る3―氏姓と名字のちがい」「佐々木近江四郎氏綱と佐々木加地氏」第3号、2013年4月1日。
「関東奉公衆佐々木氏の系譜」「六角氏と近衛家」第4号、2013年4月15日。
「天龍寺供養に参列した佐々木一族」第5号、2013年5月1日。
「観応の擾乱と佐々木一族」第6号、2013年5月15日。
「南北朝合一と相国寺供養」第7号、2013年6月1日。
「石清水八幡宮放生会に参じた佐々木一族」第8号、2013年6月15日。
「応仁文明の乱で西軍に参陣した京極氏」第9号、2013年7月1日。
「系図の基礎知識―佐々木氏の基礎知識」「六角家領尾張国上門真庄」第10号、2013年7月15日。
「御料所越中国阿努庄」第11号、2013年8月1日。
「応仁文明の乱後の六角氏」第12号、2013年8月15日。
「長享の乱」第13号、2013年9月1日。
「長享・延徳の乱と六角氏被官」第14号、2013年9月15日。
「応仁文明の乱直後の佐々木一族の動向」「細川幽斎の養父」第15号、2013年10月1日。
「長享・延徳の乱後の六角氏」「佐々木大原氏流細川氏」第16号、2013年10月15日。
「信濃滋野氏の系譜」第17号、2013年11月1日。
「紀伊竹中氏の系譜」第18号、2013年11月15日。
「佐々木馬淵氏と美濃守護土岐氏(1)―長山遠江守頼基と土岐明智氏の系譜」第19号、2013年12月1日。
「佐々木馬淵氏と美濃守護土岐氏(2)―尾張守護代長山遠江守の系譜」第20号、2013年12月15日。
「美濃土岐氏の系図を読む」第21号、2014年1月1日。
「大河ドラマ『軍師官兵衛』―黒田氏と佐々木大明神」第22号、2014年1月15日。
「初期明智氏の系譜」第23号、2014年2月1日。
「黒田官兵衛の系譜」第24号、2014年2月15日。
「赤松政則と近江」第25号、2014年3月1日。
「系図研究実況中継―今後の研究課題」第26号、2014年3月15日。
「後南朝の系譜」第27号、2014年4月1日。
「宇喜多氏の系譜」第28号、2014年4月15日。
「尼子氏の系譜(1)」第29号、2014年5月1日。
「尼子氏の系譜(2)」第30号、2014年5月15日。
「出雲尼子氏の系譜」第31号、2014年6月1日。
「駿河葛山氏の系譜」第32号、2014年6月15日。
「天文二十四年九月二十日付多賀大社梵鐘銘文(1)」第33号、2014年7月1日。
「天文二十四年九月二十日付多賀大社梵鐘銘文(2)」第34号、2014年7月15日。
「天文二十四年九月二十日付多賀大社梵鐘銘文(3)」第35号、2014年8月1日。
「天文二十四年九月二十日付多賀大社梵鐘銘文(4)」第36号、2014年8月15日。
「文化人鞍智高春について―佐々木京極庶流」第37号、2014年9月1日。
「竹生島奉加帳(1)―出雲尼子氏の一族と家臣」第38号、2014年9月15日。
「竹生島奉加帳(2)―出雲尼子氏の一族と家臣」第39号、2014年10月1日。
「竹生島奉加帳(3)~出雲尼子氏の一族と家臣」第40号、2014年10月15日。
「竹生島奉加帳(4)―出雲尼子氏の一族と家臣」第41号、2014年11月1日。
「竹生島奉加帳(5)~出雲尼子氏の一族と家臣」第42号、2014年11月15日。
「竹生島奉加帳(6)―出雲吉田氏」第43号、2014年12月1日。
「竹生島奉加帳(7)―竹生島奉加帳全文」第44号、2014年12月15日。
「源満義の崇徳院襲撃事件」第45号、2015年1月1日。
「吾妻鏡の原資料としての佐々木氏奉公初日記(1)」第46号、2015年1月15日。
「吾妻鏡の原資料としての佐々木氏奉公初日記(2)」第47号、2015年2月1日。
「室町期九里氏の系譜」第48号、2015年2月15日。
「亀井秀綱の系譜―惟宗藤原氏の意味」第49号、2015年3月1日。
「出雲に残った京極氏旧臣」第50号、2015年3月15日。
「足利義尚右大将拝賀式と京極一族」第51号、2015年4月1日。
「佐々木定綱の舅新田義重」第52号、2015年4月15日。
「鎌倉幕府の上野支配と佐々木盛綱」第53号、2015年5月1日。
「江州中原氏と九里氏―佐々木高綱の因幡守護補任との関係」第54号、2015年5月15日。
「『園太暦』に見る佐々木氏の官位昇進」第55号、2015年6月1日。
「古河公方家臣佐々木氏と菖蒲城(1)」第56号、2015年6月15日。
「古河公方家臣佐々木氏と菖蒲城(2)」第57号、2015年7月1日。
「『小栗判官』と京都扶持衆」第58号、2015年7月15日。
「能登畠山氏と六角氏」第59号、2015年8月1日。
「能登畠山氏の系譜」第60号、2015年8月15日。
「能登畠山義春の系譜」第61号、2015年9月1日。
「幕府奉公衆三上氏の系譜(1) ―佐々木六角氏庶流の研究1」第62号、2015年9月15日。
「幕府奉公衆三上氏の系譜(2)―佐々木六角氏庶流の研究2」第63号、2015年10月1日。
「鯰江高久・高昌の系譜(1)―佐々木六角氏庶流の研究3」第64号、2015年10月15日。
「鯰江高久・高昌の系譜(2)―佐々木六角氏庶流の研究4」第65号、2015年11月1日。
「種村氏の系譜(1)―一色氏を名乗った種村氏1」第66号、2015年11月15日。
「種村氏の系譜(2)―一色氏を名乗った種村氏2」第67号、2015年12月1日。
「種村氏に関する資料」第68号、2015年12月15日。
「種村三河守貞和と種村大蔵丞貞誠―六角氏宿老種村氏の系譜」第69号、2016年1月1日。
「伊庭氏と種村氏」第70号、2016年1月15日。
「佐々木山内氏の系譜」第71号、2016年2月1日。
「佐々木山内氏の重臣(1)―近江高田氏の系譜」第72号、2016年2月15日。
「佐々木山内氏の重臣(2)―野田・宇佐美・赤座ら三氏の系譜」第73号、2016年3月1日。

2015年東大後期総合科目Ⅲ・解答と解説

解説
第一問
 東大では、二〇一〇年八月二十五日にハーバード教授マイケル・サンデル氏を招いて「正義」をテーマに白熱講義がおこなわれた。また二〇一一年冬学期には「正義を問い直す」というテーマで学術俯瞰講義(全十三回)が行われ、第十一回はサンデル氏が講義した。
【問一】正義と不正に対する人びとの反応の違いの理由を問う問題だ。注目できるのは、正義を冷静に批判する人が、不正を糾弾するときには熱くなると述べられている箇所だ。これを形式的概念を超えた、心の奥底にあるものの吐露と捉えると、正義理念が見える。最終段落の意味が理解できるはずである。
【問二】第一次世界大戦前は無差別戦争観が唱えられ、戦争に正義も不正義もなく、国家は権利として戦争ができると考えられた。そこで第一次・第二次世界大戦後の戦争を例に挙げた。現代の国際社会は二度の世界大戦を反省して戦争を違法と見なした上で、個別的自衛権、集団的自衛権、国連が認めた武力制裁を例外とした。そのため、テロと結んで大量破壊兵器を開発・保有する独裁国家と戦うイラク戦争は、「国際社会を守る」という正義を盾にした戦争といえる。第二次世界大戦を例に挙げることもできる。「対ファシズム」という正義を有していたからである。

第二問
 カフカの『変身』をこのように解釈できるのと納得した受験生は多いだろう。イモムシのように転がっている死にゆく私である。少子高齢社会の日本が抱える問題であり、誰もが迎える問題である。
【問一】「正義」に関する第一問と関連付ければ、生活を立て直す父親の立場を残忍なものと否定しきれなくなる。母も最初のうちは助けを求めるが、助けられないと知ると不幸を嘆くだけで何も対処しない。そして妹グレーテが彼を介護した。妹は無意味さを考えないようにしながら介護したが、疲れ果て介護の質は低下した。ここに介護疲れの問題を見ることができる。
【問二】「正義」について論じた第一問との関連付けると、「害虫としての生」の問題を医療・介護の問題だけではなく、広く社会の問題として論じることができよう。そして具体例を探すと、試験日直前の十一日の東日本大震災の追悼式典が思い出す。原発再稼働の動き、追悼式典と黙祷、今なお仮設住宅に住む避難民を支援する地元の苦しみである。わたしたちにできることは、彼らが存在意義を見出せるようにすることである。

解答例
第一問「正義概念と正義観」
【問一】
 強い誘惑に負けずに正義を実現することは難しく称賛に値する。しかし真似できないがゆえに、実は偽善だと冷ややかに見られる。さらに認識論的見地からも、正義は絶対的なものではなく、相対的なものだと批判される。しかし、そのような批判者たちでさえ不正に対しては熱く語る。実は、この冷たさと熱さの違いが非対称性の原因である。
 正義について論じるとき、実は二通りの問いができる。「正義は何か」という問いは、多くの正義に共通する普遍性を見出そうとするものであるのに対して、「何が正義か」という問いは、特定のものを正義と見なすということである。個々の正義に対する懐疑と、すべての人びとに共通する不正への怒りという正義理念はまったくの別物といえる。
 人びとが熱く不正を糾弾するとき、実は不正義を許さないという正義理念を有していることを吐露している。正義観が個々の社会・文化を背景とする相対的なものであるにもかかわらず、普遍的であるように語られる。それに対して、怒りの感情のもとである正義理念は、人間に共通の倫理的熱情である。このちがいが、人びとの正義と不正に対する「非対称性」の理由といえる。

【問二】
 現代の国際社会は、二度の世界大戦を反省して戦争を違法と見なしているが、個別的自衛権、集団的自衛権、国連が認めた武力制裁などは国際法上許される戦争とされている。
 では、二〇〇三年のイラク戦争はどうだろうか。同時多発テロの首謀者と見なされたウサマ・ビン・ラディンと、イラクのサダム・フセイン大統領を結びつけ、そのイラクが大量破壊兵器を有していると訴え、国連安保理の承認もないまま米英連合軍は開戦した。
 米国ブッシュ政権は開戦の理由について、大量破壊兵器を開発・保有する独裁国家イラクの脅威から国際社会を守るためと説明した。「平和」「国際社会を守る」という正義を盾にしたのである。
 しかし開戦理由だった大量破壊兵器は発見されず、大量破壊兵器の情報は虚偽だったことが後に明らかになった。
 第一次世界大戦を経験した第二次世界大戦でも、多くの戦争では「自衛戦」と主張された。第二次世界大戦も「対ファシズム」を正義の盾にして、戦犯裁判も行われた。しかし東京大空襲や原爆を思うと、正義であれば相手に何をしても許されると考えるところに、正義の危うさがある。

第二問
【問一】
 生き物はいずれ死ぬ。どんなに周囲から愛されようとも、社会から必要とされていようとも、その状態はやがては終るという期間限定のものである。しかもその期間は、生物的生死と必ずしも一致するわけではなく、社会的死と生物的死がずれることはある。このずれの期間を「害虫としての生」ということができる。ここに問題が生じる。
「害虫」に変身したグレーゴルに、父親は暴力を振るう。父親は早く生活を建て直そうと、有害無益な存在を排除しようとした。
 母はまず医師にすがろうとしたが、息子に手の施しようがないと分かると、もはや死んだものと見なして、正面から向き合わず不幸を嘆くのみであった。
 そして妹グレーテが彼を介護した。妹は無意味さを考えないようにしながら介護したが、疲れ果て介護の質は低下した。
 グレーゴルは「害虫」になることで、その存在を否定され、介護の対象になる。グレーゴルは、生きながらにして社会的に死んだ状態であり、本人に意識があれば、自分の運命を呪うとともに、他人に迷惑をかけ続ける自分を責めながら、その絶望状態が永久に続くように感じられるだろう。

【問二】
「害虫としての生」を考えると、東日本大震災とそれにともなう津波、福島第一原発事故を思い出す。はやく原発を再稼働させたいと日本経済と、三月十一日に行われる追悼式典、そして今なお仮設住宅に住んでいる避難民を支える人びと、まさにグレーゴルの父と母、妹に重ね合わさる。
 早く日本経済を震災から立ち直らせたいという人びとは、原発再稼働を主張する。現在の発電は火力発電が中心であり、深刻な貿易赤字と、温室効果ガスの排出による地球温暖化対策の遅れを訴える。父の立場である。
 また三月十一日の追悼式典・黙祷は母の立場である。追悼式典には三月十一日を忘れないという意味があるが、また死者を追悼するものであり、震災をすでに過去のものと見なす装置になっている。
 それに対して避難住民を支える地方自治体やボランティアは妹の立場である。現在もある被害に対処している地方公務員の多くが疲れ果てている。
 わたしたちにできることは、彼らの話を聞き、その記憶を社会の役に立て現在の生に意義をもたせ、彼らを支援する者を支援して一部のみに負担をかけないことである。

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2010年東大前期・国語第1問「個人のプライバシーのありか」

 個人の本質はその内面にあるとみなす私たちの心への(あるいは内面への)信仰は、私生活を重要視し、個人の内面の矛盾からも内面を推し量ろうと試みてきた。もちろん、このような解釈様式そのものは近代以前からあったかもしれない。しかし近代ほど内面の人格的な質が重要な意味をもち、個人の社会的位置づけや評価に大きな影響力をもってさようしたことはなかっただろう。個人の内面が、社会的重要性をもってその社会的自己と結び付けられるようになるとき、(ア)内面のプライバシーが求められるようになったのである。
 プライバシー意識が、内面を中心として形成されてきたのは、この時代の個人の自己の解釈様式に対応しているからだ。つまり、個人を知るカギはその内面にこそある。たしかに自己の所在が内面であるとされているあいだは、プライバシーもまた、そこが拠点になるだろう。社会的自己の本質が、個人のうちにあると想定されているような社会文化圏では、プライバシーのための(a)ボウヘキは、私生活領域、親密な人間関係、身体、心などといった、個人それ自体の周囲をとりまくようにして形づくられる。つまり、個人の内面を中心にして、同心円状に広がるプライバシーは、人間の自己の核心は内面にあるとする文化的イメージ、そしてこのイメージにあわせて形成される社会システムに対応したものである。
 個人の自己が、その内面からコントロールされてつくられるという考え方は、自分の私生活の領域や身体のケア、感情の発露、あるいは自分の社会的・文化的イメージにふさわしくないと思われる表現を、他人の目から隠しておきたいと思う従来のプライバシー意識と深くかかわっている。このような考え方のもとでは、個人のアイデンティティも信用度も本人自身の問題であり、鍵はすべてその内面にあるとされるからである。
 これは個人の自己の統一性というイデオロギーに符合する。自己は個人の内面によって統括され、個人はそれを一元的に管理することになる。このような主体形成では、個人は自分自身の行為や表現の矛盾、あるいは過去と現在との矛盾に対し、罪悪感を抱かされることになる。というのも自分自身のイメージやアイデンティティを守ることは、ひたすら個人自らの責任であり、個人が意識的に行っていることだからだ。このとき個人の私生活での行動と公にしている自己表現との食い違いや矛盾は、他人に見せてはならないものとなり、もしそれが暴露されれば個人のイメージは傷つき、そのアイデンティティや社会的信用もダメージを受ける。
 ただし(イ)このような自己のコントロールは、他人との駆け引きや戦略というよりは、道徳的な性格のものであり、個人が自らの社会向けの自己を(b)イジするためのものである。だからこのことに関する個人の隠蔽や食い違いには他人も寛容であり、それを許容して見て見ぬふりをしたり、あるいはしばしば協力的にさえなる。アーヴィング・ゴフマンはこうした近代人の慣習を、いわゆる個人の体面やメンツへの儀礼的な配慮として分析し、その一部をウェスティンなどのプライバシー論が、個人のプライバシーへの配慮や思いやりとしてとらえた。
 だが人びとは、他人のプライバシーに配慮を示す一方で、その人に悪意がはたらくときには、その行為の矛盾や非一貫性を欺瞞ととらえて(c)コウゲキすることもできる。たとえばそれが商業的に利用されると、私生活スキャンダルの報道も生まれてくるのだ。
 しかし、もし個人の内面の役割が縮小し始めるならば、プライバシーのあり方も変わってくるだろう。(ウ)情報化が進むと、個人を知るのに、必ずしもその人の内面を見る必要はない、という考えも生まれてくる。たとえば、個人にまつわる履歴のデータさえわかれば十分だろう。その方が手軽で手っ取り早くその個人の知りたい側面を知ることができるとなれば、個人情報を通じてその人を知るというやり方が相対的にも多く用いられるようになる。場合によっては知られる側も、その方がありがたいと思うかもしれない。自分自身を評価するのに、他人の主観が入り交じった内面への評価などよりも個人情報による評価の方が、より客観的で公平だという見方もありうるのだ。だとすれば、たとえ自己の情報を提供し、管理を受け入れなければならないとしても、そのメリットもある。
 「人に話せない心に秘密も、身体に秘められた経験も、いまでは情報に吸収され、情報として定義される」とウィリアム・ボガードはいう。私たちの私生活の行動パターンだけではなく、趣味や好み、適性までもが情報化され、分析されていく。「魅惑的な秘密の空間としてのプライヴァシーは、かつてあったとしても、もはや存在しない」。(エ)ボガードのこの印象的な言葉は、現に起こっているプライバシーの拠点の移行に対応している。個人の身体の周りや(d)ヒフの内側とその私生活のなかにあったプライバシーは、いまでは個人情報へと変換され、個人を分析するデータとなり、情報システムのなかで用いられる。ボガードはいう。「観察装置が、秘密のもつ魅惑を観察社会のなかではぎとってしまった」。そして「スクリーンは、人びとを「見張る」のでも、プライヴァシーに「侵入する」のでもなく、しだいにスクリーンそのものがプライヴァシーになりつつある」と。
 スクリーンとは、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に登場するあのスクリーン、すなわち人びとのありとあらゆる生活を監視するテレスクリーンのことである。この小説では、人びとは絶えずテレスクリーンによって監視されていることが、プライバシーの問題になっていた。しかし今日の情報化社会では、プライバシーは監視される人びとの側にあるのではなく、むしろ監視スクリーンの方にある。つまりの内面や心の秘密をとりまく私生活よりも、それを管理する情報システムこそがプライバシ(e)ホゴの対象になりつつある。
 「今日のプライヴァシーは、管理と同様、ネットワークのなかにある」とボガードはいう。だからプライバシーの終焉は妄想であると。だが、それでもある種のプライバシーは終わった。ここに見られるのは、プライバシーと呼ばれるものの中身や性格の大きな転換である。「今日、プライヴァシーと関係があるのは、「人格」や「個人」や「自己」、あるいは閉じた空間とか、一人にしてもらうこととかではなく、情報化された人格や、ヴァーチャルな領域」なのである。そして、情報化された人格とは、ここでいう(オ)データ・ダブルのことである。(坂本俊生『ポスト・プライバシー』)

〔注〕
○アーヴィング・ゴフマン――Erving Goffman(一九二二~一九八二)アメリカで活躍したカナダ人の社会学者。
○ウェスティン――Alan F. Westin(一九二九~)アメリカの公法・政治学者。
○ウィリアム・ボガード――William Bogard(一九五〇~)アメリカの社会学者。
○ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』――イギリスの小説家George Orwell(一九〇三~一九五〇)が著したNineteen Eighty-Four(一九四九年発表)

設問
(一)「内面のプライバシー」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
(二)「このような自己のコントロール」(傍線部イ)とあるが、なぜそのようなコントロールが求められるようになるのか、説明せよ。
(三)「情報化が進むと、個人を知るのに、必ずしもその「人の内面を見る必要はない、という考えも生まれてくる」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(四)「ボガードのこの印象的な言葉は、現に起こっているプライバシーの拠点の移行に対応している」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
(五)傍線部オの「データ・ダブル」という語は筆者の考察におけるキーワードのひとつであり、筆者は他の箇所で、その意味について、個人の外部に「データが生み出す分身(ダブル)」と説明している。そのことをふまえて、筆者は今日の社会における個人のあり方をどのように考えているのか、一〇〇字以上一二〇字以内で述べよ。
(六)傍線部a、b、c、d、eのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
a ボウヘキ  b イジ  c コウゲキ  d ヒフ  e ホゴ

【要約と解説】
 第一段落に早々と傍線部ア[内面のプライバシー]がある。この最初の段落では、わたしたちは私生活を重視すること、また個人の内面を知ろうとするとき個人が抱える内面の矛盾を切り口に推し量ろうとする。そして個人の内面が、社会的自己と結び付けられ、(ア)[内面のプライバシー]が求められるようになった主張する。
 第二段落では、近代のプライバシー意識が、個人の内面を中心として形成されてきたことを述べている。そしてその後の文章は、「つまり」「たしかに」とつづく。「たしかに」は他の意見の一部を承認するときに使う接続詞だから、この文章全体で主張したいプライバシーは、ここで述べられている「内面のプライバシー」ではないと分かる。「しかし」で始まる第七段落以降が筆者の主張である。
 第三段落で、従来のプライバシー意識が具体的に説明される。社会的に知られるとまずいと思われることを、他人の目から隠しておきたいと思う従来のプライバシー意識だ。これは傍線部(ア)につながる。続けて、個人のアイデンティティも社会的信用も本人自身の問題とされると述べられる。これは傍線部(イ)につながる。
 第四段落では、自己同一性について述べられ、個人の私生活での行動と公での自己表現との矛盾は他人に見せてはならないものであり、それが暴露されると個人のイメージは傷つき、社会的信用もダメージを受けると述べる。そして第五段落で傍線部(イ)で[このような自己のコントロール]と述べられる。自己のコントロールとは戦略というより道徳的なものであり、個人が自らの社会的地位を維持するためのものである。そのため、個人が隠し事をしていても矛盾していても他人は寛容であると述べる。だが第六段落では、人びとは他人のプライバシーに配慮を示す一方で、その人に悪意をもつときには行為の矛盾や非一貫性を欺瞞ととらえて攻撃する。それが商業的に利用されると、スキャンダル報道にもなる。
 第七段落では、「しかし」と話を始める。ここからが筆者の言いたいことだ。傍線部(ウ)で[情報化が進むと、個人を知るのに、必ずしもその人の内面を見る必要はない、という考えも生まれてくる]と述べられる。個人の内面が分からなくても、個人の買物履歴や閲覧履歴、さらにデータ処理された個人情報がわかれば十分だ。その方が手軽で手っ取り早くその個人の知りたい側面が分かる。
 そして第八段落では、「魅惑的な秘密の空間としてのプライバシーは、かつてあったとしても、もはや存在しない」という言葉を引用した後で、傍線部(エ)の[ボガードのこの印象的な言葉は、現に起こっているプライバシーの拠点の移行に対応している]がある。そして次の第九段落で、個人のプライバシーが個人情報へと変換され、個人を分析するデータとなり、情報システムのなかで用いられると述べられる。さらに、第十段落では、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』を具体例に、小説では人びとが監視されていることがプライバシーの問題になっていたが、今日の情報社会では、個人情報を管理している情報システムから個人情報が奪われていると述べられる。そして情報管理システムが、プライバシー保護の対象になりつつあると主張される。
 第十一段落ではまとめとして、今日のプライバシーは、ネットワークの中にあるというボガードの言葉が引用され、今日のプライバシーは個人情報であり、傍線部(オ)[データ・ダブル]であると結ばれる。

【解説と解答】
(一)第一段落で、わたしたちは私生活を重視すること、また個人の内面を知ろうとするとき個人が抱える内面の矛盾を切り口に推し量ろうとする。そして個人の内面が、社会的自己と結び付けられると、傍線部(ア)[内面のプライバシー]が求められるようになるという。第二段落では、近代のプライバシー意識が説明され、第三段落で社会的自己との関係が述べられる。
【解答例】社会的に知られるとまずいと思われる個人的なことで、他人の目から隠しておきたいと思う従来のプライバシー意識のこと。

(二)第三段落で、従来のプライバシー意識が具体的に説明され、続けて個人のアイデンティティも社会的信用も本人自身の問題と述べられている。これが傍線部(イ)につながる。第四段落では、自己同一性について述べられ、個人の私生活での行動と公での自己表現との矛盾は他人に見せてはならないものであり、それが暴露されると個人のイメージは傷つき、社会的信用もダメージを受けると述べる。そして第五段落で傍線部(イ)で[このような自己のコントロール]と述べられる。
【解答例】個人が自らの社会的地位を維持するため、公的発言と矛盾する私的行為を隠すために自己をコントロールする。

(三)傍線部(ウ)のある第七段落では、「しかし」と話を始める。ここからが筆者の言いたいことであり、傍線部(ウ)の内容だ。個人の内面が分からなくても、買物履歴や閲覧履歴で個人のことは分かり、そのようなデータがわかれば企業は戦略をうつことができる。スマートフォンの普及で、そこから得られたデータがビッグデータとして、今日利用されているのは知っているだろう。
【解答例】個人の内面が分からなくても個人の履歴やデータ処理された情報で、企業は必要な個人情報を得られるから。

(四)第八段落では、「魅惑的な秘密の空間としてのプライバシーは、かつてあったとしても、もはや存在しない」という言葉が引用された後で、傍線部(エ)がある。そして次の第九段落で、個人のプライバシーが個人情報へと変換され、情報システムのなかで用いられると述べられる。さらに第十段落では、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』を具体例に、小説では人びとが監視されていることがプライバシーの問題になっていたが、今日の情報社会では、個人情報を管理している情報システムから個人情報が奪われていると述べられる。そして情報管理システムが、保護の対象になりつつあると主張される。この第九・十段落の内容を要約しよう。
【解答例】今日では情報管理システムから個人情報が奪われているように、情報管理システムにプライバシーのありかが移っている。

(五)第十一段落ではまとめとして、今日のプライバシーは、ネットワークの中にあるというボガードの言葉が引用され、今日のプライバシーは個人情報であり、それが傍線部(オ)「データ・ダブル」であると述べられている。そして設問のなかで、「データ・ダブル」とは、個人の外部につくられた「データが生み出す分身(ダブル)」であると説明している。
【解答例】企業は個人の内面が分からなくても、買物履歴や閲覧履歴から個人を特定できる情報を抜いたデータで、個人に対応したサービスを供給している。個人は特定されないといわれるが、データを重ね合わせると個人が見えることを個人も自覚する必要があろう。

2010年東大前期・国語第4問「詩人に必要なもの」

 極めて常識的なことだが、もし詩人が自ら体験し、生活してきた事からだけ感動をひきだし、それを言葉に移すことに終始していたならば、詩人なんてものは、人間にとって、あってもなくても一向にさしつかえのないつまらないものになるだろう。詩が私たちに必要なのは、そこに詩人の想像力というものがはたらいているからであって、それが無いと、謂うところの実感をも普遍的なものにすることはできない。しかし、場合によっては、その想像力が、作者よりも読者の方により多くあってそのはたらきかけによって、作者をはなれて、作者と読者の中間に、あらかじめ計画されたものではないという意味において、一つの純粋な詩の世界をかいま見せるときがある。生なままで放り出されている実感が、受けとる側に、構築されたものとして、たしかな手ごたえをあたえるのはそういう場合である。私たちは、読者にあるこのような想像力の作用が、ときに、眼前にある物や、日常次元にある平凡な実感に、積極的な詩の力をあたえ、それらを変質させてしまう場合があることをみとめなければならない。それと同時に、またこの関係が逆になっているときのことも考えることができる。すなわち、一見、豊富な想像力と、多彩なイメージによって構築されているように見える作品が、これも読者に想像力があるために、そのはたらきかけによって、内質は日常次元の平凡な生活感情にすぎないことを、たちどころに看破されている場合もあるのである。現代詩は難解などと云って、詩を理解する力のないことを、さも謙虚そうに告白している人が、まったく嘘をついているように私に思えるのは、それによって、彼らがすべての作品の質を習慣的に選別し、自らの立場においてそれを受け入れたり、突き放したりしている、この彼らの中にある想像力に対する自信を喪失してしまった形跡が見えないからだ。それはときに、すきまなく重層して硬く鱗質化してしまったようなイメージの中へ浸透していって、それをぐらぐらに解体させる。
 想像力は、それが外見は恣意的に八方に拡散しているように見えるときでも、必ずある方向性を持っている。ただそれは明白な観念や思想のように、直線コースにおいて目標を指示していないから、ときに無方向に見えたり、無統一に見えたりするだけである。詩における想像力は、目標に向かって直進する時期においてよりも、むしろ目標から逆行する時間もふくんだ極端なジグザグコースにおいて、その本来の機能を発揮するものだとさえ考えてよいだろう。想像力の中にある方向とは、このような蛇行状態の中にある意志のようなものであって、目標から背を向けて動いている筋肉のする部分において、その目標をより確実にひきつけているのである。あたかもガラガラ蛇の行進のごとくにだ。現代詩が、一たび、イメージによって考えるということを重視したからには、イメージとイメージがぶつかり、屈折して進行してゆく状態の中に、思想や観念によって考える場合にかんたんに切りすてられるこの目標から背馳する力が作用しながら、それが、究極において、作者の想像力に一定の方向と思想性さえあたえるというこの関係を、詩の力学として、詩人はしっかりとつかんでいなければならない。個別的に分析すると、救いがたいニヒリズムに通じるような否定的なくらいイメージの一つ一つが、重層し、錯綜し、屈折しながら進行してゆく過程で総合され、最後的に読者の世一心にそれが達するときは、ケミカルな変化をとげていて、逆に人間に大きな希望と勇気をあたえる要素となっている場合を考えれば、凡そ詩において、想像力というものはいかなるはたらきをしているかが理解できるだろう。しかし、この否定的なモメントの中に肯定的なモメントを、暗さの中にある明るさを(その逆の場合もあるが)、それをとらえることができるのも、詩人の方だけでなく読者の側にもその想像力というものがあるからで、むしろ重大なのはこの方ではないだろうか。私は、現代の詩人は、読者もまた持っているところのこの想像力という能力の計量を、その方法の出発においていくらかあやまっているように思えてならない。
 ここにおいて、再び問題になってくるのは経験である。あるいは経験の質だと云おう。強烈な想像力は、直接経験したことがらを超越するという意味において、現実の次元からとび出すことは可能であっても、その現実の中での経験の質的な核を破壊することはできない。かりに宇宙というイデーをそこにぶっつけても、想像力の行動半径は、この経験の質的な核によって限定される。そして限定さているものであるために、私たちは、その想像力の実体というものを正確に計算することができるのである。どのような詩人の持っている想像力も、その意味で、いついかなる場合においても現実をふんまえ、敢えていえば、生活をひきずっているものであるといってよいだろう。したがって、想像力の実体をつきとめるということは、それがふんまえている現実を、生活現実をあからさまにするということに他ならない。                 (小野十三郎『想像力』)

設問
(一)「詩人なんてものは、人間にとって、あってもなくても一向にさしつかえのないつまらないものになるだろう」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(二)「まったく嘘をついているように私に思える」(傍線部イ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(三)「詩の力学」(傍線部ウ)とはそういうことか、説明せよ。
(四)「その現実の中での経験の質的な核を破壊することはできない」(傍線部エ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

【要約】
 詩人が日常的なものだけから感動をひきだして詩を作るなら、ア「詩人なんてものは、人間にとって、あってもなくても一向にさしつかえのないつまらないものになるだろう」と筆者は述べている。筆者は、詩人に想像力を求めている。その一方で、詩人より読者に想像力があることもあると認めている。第一段落の後半である逆接の接続詞「しかし」の後は、読者の想像力について述べられている。詩が作者をはなれて、作者と読者の中間に純粋な詩の世界ができるときがある。読者の想像力が、ときに日常生活のものに積極的な詩の力をあたえることもある。また同時に、豊富な想像力と多彩なイメージによって作られているに見える作品が、想像力ある読者に、実は平凡な内容であると看破される場合もある。現代詩は難解などと謙虚そうに告白している人が、イ「まったく嘘をついているように私に思える」のは、彼らがすべての作品の質を習慣的に選別しており、自信を喪失してしまった形跡が見えないからだ。
 このように第一段落に傍線部アとイがある。傍線部アは詩人には想像力が必要であること、傍線部イは読者が作者よりも想像力を有する場合があることが述べられている。
 想像力は、恣意的に八方に拡散しているように見えも、必ずある方向性を持っている。ただそれは直線的に目標を指示していないから、ときに無方向に見える。むしろ目標から逆行する時間もふくんだ極端なジグザグな道程をたどることで本来の機能を発揮するとさえ考えてよいだろう。現代詩ではイメージとイメージがぶつかり、屈折して進行してゆく中で、思想や観念からはかんたんに切りすてられるような、目標から背馳する力が作用しながら、究極においては作者の想像力に一定の方向と思想性さえあたえる関係を、ウ「詩の力学」として、詩人はしっかりとつかんでいなければならない。この傍線部の直前の文がそのまま傍線部の意味内容である。
傍線部の後の文はそれを具体的に述べたものである。しかし逆接の接続詞「しかし」の後は、傍線部「詩の力学」をまとめている。否定的なモメントの中に肯定的なモメントを、暗さの中にある明るさをとらえることができるのも、詩人だけでなく読者の側にもその想像力があるからで、むしろ重大なのは読者の側に想像力があるということだ。そして筆者は、現代の詩人は、読者の想像力を見あやまっているように思われると述べる。
 そして最後の段落だ。経験の質がテーマになる。強烈な想像力は、直接経験したことがらを超越するという意味において、現実の次元からとび出すことは可能であっても、エ「その現実の中での経験の質的な核を破壊することはできない」と筆者は述べる。たとえ宇宙を想像しても、想像力の行動半径は経験によって限定される。そして限定さているゆえに、私たちは、その想像力の実体を正確に知ることができると結んでいる。
(小野十三郎『想像力』)

【解説と解答】
(一)詩人が日常的なものだけから感動をひきだして詩を作るなら、傍線部ア「詩人なんてものは、人間にとって、あってもなくても一向にさしつかえのないつまらないものになるだろう」とあるのだから、傍線部の前の部分に注目しよう。また第一段落の前半が、傍線部から接続詞なしで続いているので、傍線部の言い換えだ。これをまとめよう。筆者は詩人に想像力を求めている。
【解答例】詩人には想像力が必要であり、日常の出来事をそのまま詩にするだけでは詩人である意味がないということ。

(二)第一段落の中ほどにある逆接の接続詞「しかし」の後は、読者の想像力について述べられている。詩が作者をはなれて、作者と読者の中間に純粋な詩の世界ができるときがある。読者の想像力が、ときに日常生活のものに積極的な詩の力をあたえることもある。また同時に、豊富な想像力と多彩なイメージによって作られているに見える作品が、想像力ある読者に、実は平凡な内容であると看破される場合もある。現代詩は難解などと謙虚そうに告白している人が、イ「まったく嘘をついているように私に思える」のは、彼らがすべての作品の質を習慣的に選別しており、自信を喪失してしまった形跡が見えないからだ。
【解答例】読者が詩人以上に想像力をもち、詩人の実力を見抜いているにもかかわらず、現代詩は難解だなどと謙遜してみせるから。

(三)傍線部ウの前で、詩の想像力は、直接目標に向かうのではなくジグザグな道程をたどると述べている。この傍線部の前をまとめるといい。傍線部に続く文はそれを具体的に述べたものだが、逆接の接続詞「しかし」の後は、傍線部「詩の力学」をまとめている。否定的なモメントの中に肯定的なモメントを、暗さの中にある明るさをとらえられるのも、詩人だけでなく読者の側にもその想像力があるからだとも述べている。ここも参考になる。
【解答例】まっすぐ表現するのではなく、闇の中に光というように逆のものを見出すことで、常識を破る内容を表現すること

(四)最後の段落では、経験の質がテーマになる。強烈な想像力は、直接経験したことを超越することは可能であっても、傍線部エ「その現実の中での経験の質的な核を破壊することはできない」と述べられており、さらに傍線部に続けて、想像は経験に裏打ちされており、経験に限定さているゆえに、私たちは想像力の実体を正確に知ることができると結んでいる。傍線部の前後を自分の言葉に替えてまとめよう。
【解答例】想像は現実を超えており一見すると経験とは無関係に見えるが、実は経験の延長であり、経験に基づいているということ。

多賀大社梵鐘銘文(天文24年)

  多賀大社鳧鐘銘文 天文二十四年九月二十日
                          本願上人祐尊謹誌
 大日本国近江州多賀大社鳧鐘
    天文廿四年九月廿日奉鋳之畢

佐々木宮内少輔源賢誉 横関妙祐        太田監物
尼子沙彌宗志       同 彦助        同 安久里女
多賀豊後守        藤田与三兵衛尉    山路玄蕃助
多賀與九郎左衛門    □□□□猿女     同 橋松女
高宮右京亮豊□□    梅戸加賀守      神戸於劫女
高宮権九郎        神戸下総守       同住 茶ノ女
同 千代光女       後藤兵部少輔     峯北村茶智女
同 大一坊女       羽津宗桂        同 一色千女
高宮新右衛門尉     萱生宗明        野々村徳聚軒
馬場若狭守        同 見清女       桑原兵部丞
□□□□□□      海老名三川守      兼貞七郎左衛門尉
尾州岩倉野村      雲林院兵部少輔    丹輪清右衛門尉
片岡善右衛門尉     同 宗二郎       高信千代女
浅井猿夜叉        同 阿茶女       小岐治子ノ女
同 周勝          同 茶智女       来乗大徳
今村右近佐        奥平監物        雲州分
今村甚二郎        藤川久兵衛尉     米田大方
浅井左衛門太夫     菅沼織部佑       三澤左幸黨
河瀬左松女        同三郎左衛門尉    吉田筑後守
河瀬嶺夜叉        能州七尾村井左京進 隠岐守
狩野彌一□□       真如坊定朝      大東尾張守
井口越前守         (一ノ中段)      (一ノ下段)
(一ノ上段)

多賀与一       小聖宮内卿祐賢
浅見紀伊守      同少弐云善豪
安見美作守      同兵部卿佑重
野尻孫五郎      同   善行
丹下備中守      同   玄範     妙林
平三郎左衛門尉   同 常陸玄甲    永正
冨春軒         同 上総玄重    長言
走井備前守      同 筑後青原    福乗
大谷東阿□      同 上野平音    行春
松田左衛門尉貞□  同 播摩車順    覺禅
中路修理進      同 式部卿玄長   成圓
今村紀伊守      同 土佐玄龍    (二ノ下段)
今村源四郎      同 長順
石原孫二郎      同 讃岐定俊
秋山龍雲軒      同 備後祐玉
松浦周防守盛     同 武蔵宗俊
泉州寿松        同 伊勢正俊
目賀田次郎左衛門尉 同 出雲
堀遠江守秀治      同 越中
百々越前守□□    同 仙朝
武州遠□□□      同 若狭
同 丹松楠女      同 丹後眞□
祐 方          同 越前行徳
(二ノ上段)       同 越後長賢
              同 永玉
              同 和泉慶吉
              (二ノ中段)

小倉又次郎
三川□□□
同□□□□
(三ノ上段)


【参考】
多賀講創設五百年記念出版『多賀信仰』多賀大社社務所、一九八六年、35‐6頁。

近江尼子氏の系譜

 足利尊氏から佐々木導誉(京極高氏)へ康永四年(一三四五)に給付された近江国甲良庄尼子郷について、「ミま」に譲与する内容の佐々木導誉置文がある。「ミま」は、まだ若いのだから百二十年後まで生き残るであろうと述べられているので、若い人物であろう。これは、国立国会図書館所蔵「伊予佐々木文書」所収の応安六年(一三七三)二月二十七日付治部少輔宛導誉置文(解題第六巻110)である。
 これに京極高秀(治部少輔)は、正(五か)月二十六日付佐々木隠岐入道宛京極高秀(解題115)で、尼子郷が最良の土地と考えており、百二十年後まで尼子郷については何も心配はいらないので、ご安心なさるよう御披露下さいと返事している。さらに高島郡中庄も給付している。また在所についても屋形と近いが四方の壁の作事を許すことが述べられている。高秀に「ミま」を討たないことを保証したものであろう。実は高秀には、長兄秀綱の孫秀頼(近江守秀綱の孫)の家督相続を支持した守護代吉田厳覚を討った前歴がある。「ミま」側が警戒したのだろう。また尼子郷であれば導誉がつくった時衆道場が近くていいとも述べられているので、時衆とも関係する人物と分かる。

導誉┬秀綱―秀詮―秀頼
   ├秀宗
   └高秀(治部少輔)┬高詮―高光―持清
               └秀久(六郎左衛門・刑部少輔)

 京極高秀書状の宛先佐々木隠岐入道が、「ミま」の後見人と分かる。佐々木隠岐入道は、鎌倉幕府滅亡時に六波羅探題北条仲時とともに近江番場蓮華寺で自害した隠岐守護佐々木清高の兄弟と、その子孫たちである。京極氏のもとで守護代を勤めていた。
 永和五年(一三七九)三月八日付足利義満御判御教書(解題第六巻111)で、将軍義満は尼子郷を、導誉の譲状に任せて、後家尼「留阿(北と号す)」の領掌に相違ないことを認めた。留阿は時衆による法名と考えられる。導誉が四条道場に土地を寄進したので、留阿が時衆に帰依したのか、留阿が時衆に帰依していたから導誉が京都四条道場に所領を寄進したのか、どちらかは判断できないが、導誉の時衆保護と妻(北方)留阿の時衆帰依は関係があるだろう。
 応永五年(一三九八)六月一日付導誉後家きた譲状(解題第六巻112)で、きたは導誉の譲状証文に任せて、尼子郷を佐々木六郎左衛門に永代譲与し、一期の後は「いや六」へ伝えるよう譲状を与えた。導誉の譲状に任せて佐々木六郎左衛門尉に譲与するのだから、「ミま」はこの佐々木六郎左衛門尉だろう。またもうひとつの同日付きた譲状(解題第六巻113)では、「いや六殿へかたく御ゆつり候べく候」と記すとともに、「たけどうしこ」にもいかほどにても御計らいあるよう譲状を記した。佐々木六郎左衛門尉の家督が「いや六」で、二男が「たけどうしこ」であろう。
 弥六は孫あるいは曾孫の六郎という意味であり、導誉の北方の孫(曾孫)にあたる六郎という意味で、六郎左衛門の子と考えられる。また竹童子は弥六の弟で、のち出雲守護代となる尼子四郎左衛門尉であろう。系図で持久とされる人物である。
 導誉の譲状に任せて尼子郷を譲与された佐々木六郎左衛門は、導誉譲状に見える「ミま」であろう。米原正義は「ミま」を佐々木六郎左衛門と推定しているが(米原正義『出雲尼子一族』新装版、新人物往来社、一九九六年、二九頁)。『国立国会図書館所蔵貴重書解題』第六巻も「孫の六郎左衛門」とする。それに対して『滋賀県の地名』(日本歴史地名体系25)の尼子郷の項で「導誉の妻北か」と推定しており、森茂暁は導誉がわざわざ高秀に保護を依頼していることに注目して、高秀の子ではなく、後家北(留阿)だろうと推測している(森茂暁『佐々木導誉』人物叢書、吉川弘文館、一九九四年、一七〇―三頁)。このような混乱が生じる理由として、義満御教書で、導誉の譲状に任せて導誉後家留阿(北と号す)の領掌にまかせることを述べる一方で、「きた」譲状では導誉の譲状に任せて六郎左衛門に譲るとあるため、導誉譲状にある「ミま」をどちらとも解釈できるからである。
 おそらく導誉譲状でいう「ミま」は六郎左衛門であり、留阿はその母であろう。そのため義満は導誉の譲状にまかせて相続すべき「ミま」の母留阿(北)が領掌することを認め、きた譲状で留阿は導誉の譲状に任せて「ミま」(六郎左衛門)が永代譲与したと考えられる。ただし高秀に対して「ミま」に身寄りがないと述べていることから、高秀の実子とは考えにくい。導誉の後妻留阿の子を、形式的に高秀の実子とした可能性がある。
 さらに明徳三年(一三九二)七月五日付京極高詮安堵状(解題116)で、六郎左衛門尉は出雲大原郡内近松庄を安堵されている。また年未詳十月二十七日付京極道通(高光)書状(解題117)で、飛騨国司退治の恩賞である飛騨国古川郷内快与名が尼子六郎左衛門尉に給付されている。応永二十四年(一四一七)四月二十五日付某譲状で、弥童子に飛騨国古川郷快与名が譲られ、前述の京極高光書状が副えられている。この弥童子が孫六である。譲状を記した尼子某は六郎左衛門尉であろう。これで六郎左衛門の花押が判明した。
 さらに応永二十九年(一四二二)五月四日付足利義持御判御教書(解題114)で尼子郷の当知行分の相伝が刑部少輔秀久に認められた。このときまでに六郎左衛門尉から刑部少輔に補任されていた。また実名が秀久と分かる。系図では高秀の三男尼子高久を佐々木六郎左衛門尉・刑部少輔としており、秀久と高久は同一人物とみられる。系図に示すと以下のとおりである。

 京極高秀―尼子六郎左衛門尉秀久(刑部少輔)―弥六

 秀久に永代譲与された尼子郷は弥六へ譲与が確約され、さらに飛騨国古川郷快与名も相伝した。また尼子氏の幼名は「弥」の字を用い、通称が「六郎」であったと分かる。そうであれば出自が不明だが、席次から京極庶流と分かる奉公衆佐々木六郎国貞や又六郎秀貞は、近江尼子氏であろう。
 「永享行幸記」によれば永享九年(一四三七)十月二十一日天皇の室町第行幸では、足利義教が迎えに参内したが、佐々木九郎秀直(のち治部少輔)と佐々木六郎国貞が帯刀十一番を勤めている。この六郎国貞が「きた」譲状で「いや六」と呼ばれていた人物だろう。秀久譲状では「弥どうし子」と記されている。九郎秀直は高秀の末子京極多田満秀(佐渡入道祐繁)の子と考えられる。
 この時期、出雲尼子氏の活動も見られる。日御碕神社文書所収の永享十一年(一四三九)十一月日付日御崎社一神子重申状案(新修島根県史大社七〇六号)で「一正長元年十月十七日并当年正月六日、国造卒大勢、御崎仁令発向、種々狼藉、以外之間、尼子四郎左衛門尉殿雖有御成敗、更無承引、結句重而令乱入、舟別棟別等押取之条、言語道断悪行也、」とあり、尼子四郎左衛門尉が見える。前述の竹童子が成長した姿であろう。系図でいう尼子持久である。同状案で尼子四郎左衛門尉以前の守護代が宇賀野殿であったこともわかる。この宇賀野殿は高秀の子九郎左衛門尉高雅と考えられる。
 また集古文書所収の享徳元年(一四五二)十一月十二日付牛尾三河守宛尼子清貞書状写があり、当時尼子清貞が出雲守護代であったことが分かる。群書類従所収佐々木系図では尼子清定とするが、資料では「清貞」である。近江尼子氏との間に通字の関係がある。
 小野家文書所収の(康正二年)七月二日付又四郎宛京極持清書状(新修島根県史大社七四六号)の宛先又四郎が尼子清貞であろう。又四郎という通称から尼子四郎左衛門尉の子と分かる。日御碕神社文書所収の康正二年(一四五六)七月二十日付三沢対馬(為信)宛尼子清貞書状(大社七五〇号)で、前述の又四郎が尼子清貞であると再確認できる。
 小野家文書所収の同年十二月一日付京極氏奉行人連署奉書案(大社七五三号)で、宛先の筆頭に尼子殿御代官とあるように、清貞がまだ幼少であったと考えられる。しかし応仁二年(一四六八)までには刑部少輔に補任されていることが、東大史料編纂所影写本佐々木文書所収の応仁二年七月六日付尼子刑部少輔宛京極生観(持清)感状で分かる。以後、尼子刑部少輔と資料に見える。祖父秀久の官途を得たことになる。
 続群書類従本佐々木系図の一本で初期尼子氏の実名を記さず、尼子高久(資料では秀久)の長男近江尼子氏を出羽守、二男出雲尼子氏を上野介と記し、上野介の子を刑部少輔と記すものがある。初期尼子氏の実名がすでに不分明になっていたのだろう。そのため系図で「持久」とされている出雲尼子氏初代の尼子四郎左衛門尉の実名は不明とした方が、資料を探しやすいと考えられる。初期尼子氏の資料が少ないのは、系図に記された実名に引きずられて、資料を見落としているからとも考えられる。
 再び近江尼子氏に目を転じると、寛正六年(一四六五)八月十五日の八幡放生会では、足利義政が乗る車前の帯刀のひとりに佐々木又六秀貞が見え、京極庶流や隠岐佐々木氏など佐々木一族の筆頭に記されている。国持大名ではないが、外様の格式である。これまで佐々木六郎国貞と佐々木又六秀貞が尼子氏と特定できなかったため、近江尼子氏の動向が不明であったが、これで室町期の近江尼子氏の動向が分かる。系図に示すと以下のとおりである。

 刑部少輔秀久(六郎左衛門尉)―六郎国貞(弥六)―又六郎秀貞

 諱字「貞」は近江尼子氏の通字であり、出雲守護代尼子清貞とも通字になっている。この時期の尼子氏の通字が「貞」であり、南北朝初期の出雲守護塩冶高貞(義清流隠岐佐々木氏)の子孫という系譜伝承も生まれた。あるいは実際に、塩冶高貞と血縁関係にあった可能性もある。そうであれば、「ミま」に身寄りがなかったことも理解できる。
 沙沙貴神社所蔵佐々木系図では塩冶高貞―富田秀貞―直貞―尼子清貞という系譜を記すが、これは出雲守護の地位の継承を示した職掌相伝の系図といえる。とくに出雲守護富田氏の子孫とするのは出雲尼子氏が出雲月山富田城を根拠にしたことによろう。また清貞自らが出雲支配の正当性を主張するために、出雲旧守護家である義清流佐々木氏の塩冶・富田両氏の系譜を名乗ったとも考えられる。
 ところで又六秀貞には子がなかったようで、年未詳九月二十八日付道善譲状(一二〇号)で、又六秀貞に対して「仍万一無子候間、兄弟可有親類之間相続」と述べている。道善は国貞であろう。秀貞に子がない場合、兄弟同族に相続させるよう伝えている。
 そして文明二年(一四七〇)四月十六日付道善譲状は「佐々木弥六」に当てて、尼子郷を一円不輸の郷として譲与し、出雲大原郷近松庄千巻村を譲与し、これまでの譲状証文など一切を譲与するという譲状を送った。又六秀貞が没したのだろう。
 『長興宿禰記』文明十八年(一四八六)七月二十九日条で、足利義尚大将拝賀式に佐々木尼子宮内少輔長綱が京極加賀政数らとともに列している。この宮内少輔長綱が弥六だろう。「貞」の字を使用しないことから庶子から家督になった可能性もある。
 長享二年(一四八八)京極政経が小倉氏の望み通り尼子郷半分の代官職を与えている(京都大学文学部博物館所蔵来田文書所蔵の長享二年八月三日多賀経家書状)。このとき政経は近江伊香郡松尾で京極高清と戦い、家臣多賀経家とともに伊勢梅津へ逃れた。翌延徳元年(一四八九)近江国人衆の協力を得て高清を追放し、延徳二年(一四九〇)には幕府から近江守護に補任されるが、明応元年(一四九二)十二月に足利義稙によって家督を取り上げられた。翌年の明応の政変で義稙が失脚すると政経が復帰した。京極高清は舅斎藤妙純の支援を得て北近江に進出し、政経は六角高頼と結んだ。こののち尼子氏も六角方として活動する。
 天文二十四年(一五五五)の多賀大社梵鐘の刻銘に「佐々木宮内少輔賢誉」の名があり、浅井長政の幼名浅井猿夜叉も見られる。この佐々木賢誉は、近江尼子氏の世襲官途宮内少輔を名乗ることから長綱の子孫であろう。浅井氏の外戚近江尼子氏と考えられる。近江尼子氏は六角氏に従い、六角義賢(承禎)の一字書出を給付されている。
 また、六角氏旧臣石部家清が永禄十一年(一五六八)の箕作落城後も六角承禎に従った者の菩提を弔った、慶長三年(一五九八)十一月二十六日付石部右馬允平家清法名掛軸(石部善隆寺文書)に、「尼子宮内少輔宗澄七月廿六日」と見える。宗澄の通称は六郎左衛門であり、天正十二年(一五八四)四月小牧の戦いでは豊臣秀吉の馬廻組頭として組士を引率して従軍し(浅野家文書)、翌十三年(一四八五)七月十一日には中村一氏・大谷吉継らとともに叙爵されて、従五位下宮内少輔に叙任された(歴名土代)。六角承禎没洛後に豊臣秀吉に仕えたことが分かる。
 さらに連枝と考えられる尼子三郎左衛門も豊臣秀吉馬廻組頭で、天正十八年(一五九〇)小田原の陣で組士七五〇人を引率して従軍している(伊達家文書)。文禄元年(一五九二)肥前名護屋の陣でも五番組頭として本丸広間を警備し(太閤記)、番衆には進藤新次郎や永原孫左衛門尉・山岡修理亮・河毛二郎左衛門尉など近江衆も見られる。宮内少輔から三郎左衛門に近江尼子氏の中心が移っており、宮内少輔宗澄が天正十八年までに没したと考えられる。三郎左衛門は、同四年正月秀吉の草津湯治では宮木藤左衛門と上野落合宿を警備している(浅野家文書)。尼子三郎左衛門は千利休切腹の検使とも伝えられる(千利休由緒書・武辺咄聞書)。三郎左衛門はのちに藤堂高虎に仕え、『高山様御世分限帳寛永七年正月』に母衣組千五百石尼子三郎左衛門が見える。
 また藤堂出雲組伊賀付に二百石物成尼子六郎左衛門が見える。豊臣秀次の馬廻衆尼子寿千寺が秀次謀反事件で失脚した後、やはり秀次旧臣であった藤堂高虎に仕官したと考えられる。六郎左衛門と名乗るのであれば、宗澄の子であろう。
 このように見てくると、伊予佐々木文書は近江尼子氏の所領相伝に関わる文書群であり、近江尼子氏に伝えられたものと考えられる。

宇喜多秀家の系譜

 宇喜多氏の出自に関しては、『宇喜多能家寿像画賛』の百済王出自説がもっとも有名である。能家は宇喜多秀家の祖父である。能家―直家―秀家と続く。京都南禅寺の僧九峰宗成による『宇喜多能家寿像画賛』は岡山県立博物館に収蔵され、国指定の重要文化財になっている。奥書によれば成立は大永四年(一五二四)八月であり、同時代資料といえる。
 九峰宗成については、朝倉尚の論文「景徐周麟の文筆活動――延徳三年(2)」(地域文化研究三〇巻、二〇〇四年)に詳しい。九峰宗成の系譜には不明な点が多いが、足利義政の子息といわれている。九峰宗成は『蔭凉軒日録』の記主亀泉集証と親しいが、亀泉は赤松氏の一族であり、同記には赤松氏が多く登場し、「浮田新兵衛」「浮田将監」を確認できる。このような由縁があり、九峰宗成が宇喜多能家寿像画賛を記したのだろう。
 この画賛によると、宇喜多氏の出身地は備前児島で、本姓は三宅氏であり、百済王の子孫だという。日本に流れ着いた百済王子兄弟の子孫で、児島に来てから三宅姓を名乗ったという。しかし宇喜多という地名については記さない。現在、岡山県に浮田村があったが、これは明治二十二年(一八八九)に成立したもので、宇喜多氏の名字の地ではない。宇喜多氏そのものは備前三宅氏の出自ではなく、三宅氏に接ぎ木したと考えられる。
 備前藩士大森景頼所蔵宇喜多系図(『戦国宇喜多一族』)によれば、百済王の子孫三条中将の子孫だという。三条中将は大治年間(一一二六~三一)に山城国大荒木田宇喜多社領であった備前児島に至ったという。この大荒木田は、『三代実録』貞観元年(八五九)一月二十七日条で、「京畿七道諸神進階及新叙惣二百六十七社」として山城国正六位上与度神を従五位下に叙したとある淀姫大明神のことであり、「菟芸泥赴」によれば西鴨浮田森を大荒木といったという。
 実は、『万葉集』巻十一で「かくしてやなをや守らむ大荒木の浮田の杜の標ならなくに」とあるように、大和宇智郡荒木神社(現五條市今井町)を「浮田の杜」と呼んでいた。祭神は大荒木命である。宇智は内という意味であり、孝元天皇を祖とする内臣の本拠である。武内宿禰(たけしうちのすくね)の母が紀国造であるように、大和から紀伊にむかう巨勢道にある。荒木神社のある大和宇智郡と山城宇治、宇治川下流の淀川と日向浮田庄を流れる大淀川の関連が気にかかる。さらに宇治・淀川水系の水源琵琶湖沿岸の高島郡に宇伎多神社があることから、浮田(宇伎多)は水運に関する地名と考えられるが、また日向隼人と浮田物部の関係も推測できる。大荒木命は、海人族によるアラハバキ神の呼称とも考えられる。
 『系図纂要』所収の三宅系図では、三宅氏を新羅王子の天日槍の子孫三宅範勝に、佐々木盛綱の子孫備前守護佐々木加地氏の子孫である東郷長胤の次男和田備後守範長が養子に入り、そのあと児島高徳(備後守)―高秀(始住宇喜多)―高家―信徳―久家―能家と続いたという。太平記で活躍が描かれている児島高徳の子孫と伝えられる。
 嘉永四年(一八五一)成立の飯田忠彦著『野史』でも、宇喜多氏を児島高徳の子孫とし、高徳の子高秀が宇喜多氏を始めて称したという。『赤松再興記』でも、「浮田は、佐々木の庶流備後三郎高徳が後胤也」とある。さらに鈴木真年編『百家系図』所収の浮田系図では、宇喜多高秀の子高家のとき、三条家の落胤藤原宗家を女婿にしたという。そして宇喜多氏は、宗家―久家―能家―直家―秀家と続く。
 宗家については資料で確認でき、岡山県西大寺文書に「成光寺来迎免名主職寄進状案文」として 文明元年(一四六九)五月十六日付宇喜多五郎右衛門入道沙弥宝昌寄進状案文と文明二年五月廿二日付宇喜多修理進宗家渡状、延徳四年七月廿五日宇喜多蔵人佐久家寄進状が伝わる。おそらく沙弥宝昌が父で、宗家が子、久家が孫であろう。
 また邑久郡弘法寺の過去帳位牌に、次のようにある。

 一、道 幸   内山二郎右衛門
 一、妙 秀   宇喜多東春母
 一、妙 言   南条五郎衛門母
 一、宗 家   宇喜多三郎右衛門
 一、妙 融   笹賀郷
 一、東 春   宇喜多越中殿
 一、去仲常政 和泉殿
 一、道 光   南北条中屋□□□村
 一、円周妙性 但馬殿上
 一、浄 泉   阿知村
 一、小島方   邑久郷
 一、大京方   阿知村

 このうち、宇喜多三郎右衛門宗家は修理進宗家であろう。妙秀は宇喜多東春殿母とあり、宗家の室の可能性がある。そして宇喜多越中殿(東春)が宗家の子久家で、和泉殿が孫宇喜多能家、但馬殿は寄進状を伝える宇喜多但馬守であろう。また邑久郷の小島方が見え、邑久郷を本貫とした佐々木小島氏との関係も推測できる。
 宇喜多の地名を探すと、太田亮編『姓氏家系大辞典』の浮田氏の項で、「古代奥州に浮田国あり、其の他武蔵に宇喜田、日向に浮田の地あり」とある。
 まず武蔵国葛飾郡東西宇喜田村(現在の江戸川区宇喜田町)は、化政期に編集された『新編武蔵国風土記稿』葛飾郡二之江村条によれば、扇谷上杉朝昌の庶子宇田川石見守親種の第三子宇田川定氏(喜兵衛尉)とその子喜兵衛定次が、慶長元年(一五九六)に開発したため、宇田川喜兵衛が開発した新田という意味で「宇喜田」と名付けられたものであり、備前宇喜多氏とは関係ない。
 また日向国浮田庄(現宮崎市浮田)は、『宇佐大鏡』によれば、天善五年(一〇五七)国司管野政義が国務の責任で豊前宇佐八幡宮に納入すべき封物の一部、封民三四人相当の代替として宮崎郡内の荒地を開発して神領として宇佐社に寄進して成立した。鎌倉期には摂関家が本所であり、宇佐氏が地頭・弁済使職を相伝していた(東寺文書所収建仁三年十一月日近衛基通政所下文案)。また『民経記』寛喜三年八月十八日条・同月二十二日条・九月一日条・十一月十六日条も、本所が近衛家実、領家が土御門定通で、大宮司宇佐公定の一族の間で所領をめぐり相論があったことが伝えられている。南北朝期には南朝方の肝属氏に従った跡江方預所瓜生野八郎左衛門尉が城を構えて立てこもり、北朝方の土持宣栄は高浮田に城を構えた(旧記雑録所収建武三年二月七日付土持宣栄軍忠状)。室町期には宇佐八幡宮の神職田部氏の一族土持氏が城を築いていたが、その一族に浮田氏は見えない。
 陸奥については、『先代旧事本紀』巻第十で染羽国造と信夫国造の間に浮田国造が挙げられ、成務天皇(志賀高穴穂朝)のとき、崇神天皇(瑞籬朝)の五世孫賀我別王を国造にしたという。浮田国は大化の改新後に陸奥国が設置されると、宇多川流域が宇多郡に、新田川流域が行方郡に分割された。
 賀我別王は上毛野氏の祖鹿我別王であり、その子孫は吉弥侯部氏として奥羽に広がったが、その一族には上毛野陸奥公・上毛野名取朝臣・上毛野中村公のほか物部斯波連の氏姓を給付される者もあり、『続日本紀』承和二年(八三五)二月四日条に、俘囚である勳五等吉弥侯宇加奴、勳五等吉弥侯志波宇志、勳五等吉弥侯億可太らに物部斯波連の姓を賜ったという記事がある。岩手県に浮田村(現花巻市東和町上浮田・下浮田)があり、天正九年(一五八一)一月の和賀氏分限帳(小田島家記録写)の地下士(堪忍衆)のなかに浮田左兵衛が見える。同氏の館と伝える車館跡が上浮田山居沢西側丘陵頂部にあり、物部斯波連を給付された浮田物部の子孫とも考えられる。
 ところで、『延喜式神名帳』に近江高島郡鎮座として記された宇伎多神社がある。琵琶湖から鴨川を上った近江高島郡野田村(現高島町野田)にある。祭神は八重事代主神である。『先代旧事本紀』巻第三によると 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとあるが、天物部等二十五部人のひとつに浮田物部がある。宇伎多神社の地は浮田物部の定着地と考えられる。近江浅井氏に物部氏族を名乗る系譜伝承があるのは、浮田物部氏との関係によろう。淀姫大明神が浮田の森と呼ばれ、淀川の水源琵琶湖北岸の高島郡に宇伎多神社があり、浮田物部氏の伝播した様子が分かる。浮田は水運と関係が深い。大森本宇喜多系図で宇喜多氏が宇伎多神社によると分かる。また大和宇智郡荒木神社(浮田杜)は巨勢道で紀伊国とつながるが、やはり浮田物部が水運を利用して、水系に沿って伝播したと推測される。陸奥浮田国も浮田物部が伝播したものと考えられる。
 鎌倉期には、近江守護佐々木信綱の次男佐々木近江二郎左衛門尉高信(高島家祖)が鎌倉期の嘉禎三年(一二三七)社域周囲の水田七〇石を寄進した(高島郡志)。織豊期の慶長四年(一五九九)には高信の四代の孫泰監が神主となり以後代々続いたという(高島郡志)。年代が合わないが、佐々木高島氏が神職を継承したという系譜伝承と解釈できる。
 宇喜多氏の佐々木一族という系譜伝承は、佐々木加地氏の本拠備前児島の出身というだけではなく、名字の地が近江にあったからと考えられる。備前に名字の地がないのであれば、宇喜多氏が「浮田」ではなく「宇喜多」を名乗ることからも、近江高島郡宇伎多神社の社名によるからと考えられる。
 宇喜多氏を三条中将の子孫とする系譜伝承は、嘉吉の乱(一四四一)後に三条家領近江浅井郡丁野に蟄居した赤松時勝の時代に、宇喜多氏が赤松氏に仕えたことを隠喩していよう。三条家落胤説は近江浅井氏と同様であり、時勝の近江浅井郡蟄居時代に赤松氏に仕えた可能性は高い。それが宇喜多五郎右衛門入道宝昌であろう。
 時勝の子赤松政則は、長禄の変で赤松氏遺臣が後南朝を鎮圧した功績で、加賀半国守護として赤松氏を再興させ、さらに播磨・備前・美作三国守護に復帰したが、宇喜多氏が資料に登場するのは、それ以後の応仁・文明の乱の時期である。
 宇喜多氏初見の資料は、前述の文明元年五月十六日付宇喜多五郎右衛門入道宝昌寄進状であり、宝昌は金岡東庄成光寺来迎免名主職を西大寺に寄進した。また文明九年の宇喜多宝昌寄進状によれば、豊原荘邑久郷にも所領を有していたことが確認できる。前述の邑久弘法寺過去帳位牌によれば、小島方の在所が邑久郷であり、邑久郷は佐々木小島氏に由来する所領と考えられる。沙弥宝昌の子三郎右衛門宗家が備前小島氏の女婿になり、三宅姓宇喜多氏を称したと考えられる。
 宇喜多氏の出自については、近江説と備前児島説の両者を念頭に置きつつ、宇喜多入道宝昌以前の動向を探る必要がある。名字の地で判断するならば、宇喜多氏は近江出自である。また宇喜多氏が名乗る三宅氏も、近江三宅氏(藤原姓)か備前三宅氏か、あるいは備前に至り備前三宅氏を継承したのか、注意深く考察する必要がある。可能性が広がった分、調査対象も広がり、宝昌以前の宇喜多氏の動向が明らかになる可能性も高まったといえる。

【参考文献】
立石定夫『戦国宇喜多一族』新人物往来社、一九八八年。
渡辺大門『宇喜多直家・秀家』ミネルヴァ書房、二〇一一年。
『日本歴史地名体系』平凡社。

2011年東大前期国語第1問「河川の風景をつくる」

 河川は人間の経験を豊かにする空間である。人間は、本質的に身体的存在であることによって、空間的経験を積むことができる。このような経験を積む空間を「身体的空間」と呼ぼう。河川という空間は、「流れ」を経験できる身体的空間である。
 河川の体験は、流れる水と水のさまざまな様態の体験である。と同時に、ア身体的移動のなかでの風景体験である。河川の整備と河川を活かした都市の再構築ということであれば、流れる水の知覚とそこを移動する身体に出現する風景の多様な経験を可能にするような整備が必要だということである。
 河川整備の意味は、河川の整備が同時に、河川に沿う道の整備でもあるという点に関わっている。場合によって、道は、水面に近いことも、あるいは水面よりもずいぶんと高くなっていることもある。どちらにしても、ひとは歩道を歩きながら、川を体験し、また川の背景となっている都市の風景を体験し、そしてまた、そこを歩く自己の体験を意識する。
 河川の体験とは、河川空間での自己の身体意識である。風景とはじつはそれぞれの身体に出現する空間の表情にほかならないからである。風景の意味はひとそれぞれによって異なっている。河川の空間が豊かな空間であるということは、何かが豊かに造られているから豊かだ、ということではない。とりわけて何もつくられていなくても、たとえば、ただ川に沿って道があり、川辺には草が生えていて、水鳥が遊び、魚がaねる、ということであっても、そのような風景の知覚がひとそれぞれに多様な経験を与える。体験の多様性の可能性が空間の豊かさである。
 豊かさの内容が固定化された概念によって捉えられると、その概念によって空間の再編が行われる。たとえば「親水護岸」は水に親しむという行為を可能にするように再編された空間であるから、空間を豊かにすることであるように思われるが、その空間は「水辺に下りる」「水辺を歩く」というコンセプトを実現する空間にすぎない。そこでひとは、たしかに水辺に下りること、水辺を歩くことはできるが、それ以外のことをする可能性は排除されてしまう。この排除は川という本来自然のものが概念という人工のものによって置換されるということを意味している。それはイ本来身体空間であるべきものが概念空間によって置換されている事態と捉えることができる。
 たとえば、流れに沿って歩いていくと、河川整備の区間によってそれを整備した事業者の違いによって、景観がちぐはぐになっていることがある。もちろんこれは同じ風景が連続しいていることがよいということではない。問題なのは、土を中心につくられている上流の警官が下流にいくに従って、大きな石によって組み立てられているような場合である。これは、川の相を無視し、事業主体の概念が流れる川を区分けし、その区分けされた川のbダンペンを概念化した結果である。
 川は流れ来る未知なる過去と流れ去る未知なる未来とを結ぶ現在の風景である。この風景を完全に既知の概念によって管理すること、コントロールすることは、川の本質に逆らうことになる。「河川の空間デザイン」という言い方には、危ういところが感じられるが、それは川のもつ未知なるものを完全に人間の概念的思考によってコントロールしうるもの、すべきものという発想が隠れているからである。
 完全にコントロールされた概念空間に対して、河川の空間にもとめられているのは、新しい体験が生まれ、新しい発想が生まれ出るような創造的な空間である。川は見えない空間から流れてきて、再び見えない空間へと流れ去る。だから川は人生に喩えられる。人生は概念で完全にコントロールできるようなものではない。川が完全にコントロールされた存在であるならば、川の風景に出会うひとには、そのコントロールされた概念に出会うだけであろう。そうなると、川は、訪れた人びととそれぞれの創造性とは無縁のものとなってしまう。
 都市空間は、設計から施工、竣工のプロセスで完成する。建造物が空間をセッティングして、そこで人びとの生活と活動が行われる。空間の創造は、その生活と活動の空間の創造である。人びとの活動の起点は建造物の建築の終点であるが、都市計画そのものは竣工の時点が終点である。しかし、河川空間の事情は異なっている。竣工の時点が河川空間の完成時ではない。むしろ河川工事の竣工は、河川の空間が育つ起点となる。ウそれは庭園に類似している。樹木の植栽は、庭の完成ではなく、育成の起点だからである。
 だから、河川を活かした都市の再構築というとき、時間意識が必要である。川は長い時間をかけて育つもの、自然の力によって育つものであり、人間はその手助けをすべきものである。自然の力と人間の手助けによって川に個性が生まれる。時間をかけて育てた空間だけが、その川の川らしさ、つまり、個性をもつことができる。
 エ河川の空間は、時間の経過とともに履歴を積み上げていく。その履歴が空間に意味を与えるのである。では、この時間にもとづく意味付与は、概念的コントロールによる意味付与とどこがことなるのだろうか。概念的コントロールによる意味付与は、河川空間の設計者の頭のなかにある空間意味づけであり、河川とはこういうものであるべきだ、という強制力をもつ。そのような概念によってつくられた空間に接するとき、風景はcヨクアツ的なものになってしまう。風景に接したひとが自由な想像力のもとでそれぞれの個性的な経験を積み、固有の履歴を積み上げることをdソガイしてしまう。
 流れる水が過去から流れてきて、未来へと流れ去るように、河川の空間は、本来、時間を意識させる空間として存在する。つまり川の空間は、独特の空間の履歴をもつ。履歴は概念のコントロールとは違って、一握りの人間の頭脳のなかに存在するものではない。多くの人びとの経験の蓄積を含み、さらに自然の営みをも含む。こうして積み上げられた空間の履歴が、その空間に住み、またそこを訪れるそれぞれのひとが固有の履歴を構築する基盤となる。
 人間はいま眼の前に広がる風景だけを見ているのではない。たとえば、わたしは昔の清流を知っているので、いまの川の水の色をみれば、どれほど空間が貧しくなったかを想像することができる。その人の経験の積み重ね、つまり、そのひとの履歴と空間に蓄積された空間の履歴との交差こそが風景を構築するのである。一人ひとりが自分の履歴をベースに河川空間に赴き、風景を知覚する。だからその風景は人びとに共有される空間の風景であるとともに、そのひと固有の風景でもある。オ風景こそ自己と世界、自己と他者が出会う場である。空間再編の設計は、ひとにぎりの人びとの概念の押し付けであってはならない。
                (桑子敏雄『風景のなかの環境哲学』)

設問
(一)「身体的移動のなかでの風景体験」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】傍線部ア「身体的移動のなかでの風景体験」に続けて、河川の整備と河川を活かした都市の再構築は、流れる水の知覚とそこを移動する身体に出現する風景の多様な経験を可能にする整備が必要だと筆者は述べる。次の段落でも、河川の整備は同時に河川に沿う道の整備でもあり、ひとは歩道を歩きながら川を体験し、また川の背景となっている都市の風景を体験し、そこを歩く自己の体験を意識するという。ここが、分かりやすくまとめやすいだろう。
【解答例】ひとは河川に沿った歩道を歩きながら、川や背景の都市の風景を体験して、自己の体験にするということ。

(二)「本来身体空間であるべきものが概念空間によって置換されている事態」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】前の段落で、風景は人それぞれの身体に出現する空間の表情だと述べ、風景の意味は人それぞれによって異なり、それが空間の豊かさだという。そして傍線部イのある段落で、その豊かさの内容が、概念によって捉えられると、それ以外の可能性は排除されてしまうという。そして本来は自然のものが、概念という人工のものによって置換されると述べ、傍線部イと続く。これをまとめよう。
【解答例】風景の意味は人によって異なるので、ひとつの考えに基づく都市計画で風景の多様性が失われるということ。

(三)「それは庭園に類似している」(傍線部ウ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
【解説】「都市空間は」から、「育てる」が重要な語句になる。空間の創造は、その生活と活動の空間の創造である。都市計画は工事の始まりの時点が終点であり、工事は完成の時点が終点であり、人びとの生活は工事の完成の時点が起点になる。しかし河川空間は事情が異なり、工事の始まり(竣工)の時点が河川の育つ起点となる。そして傍線部ウがあり、その直後で樹木の植栽は庭の完成ではなく、育成の起点と述べている。このように「育成の起点」に重点がある。
【解答例】河川の風景は庭園と同じく、工事の始まりが起点として、自然の営みを人の手が支え育てていくから。

(四)河川の空間は、時間の経過とともに履歴を積み上げていく」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
【解説】傍線部エのあとで、時間による意味付与は概念的なものとどこが異なるのだろうか、と問題提起をしている。概念的コントロールは、河川とはこうあるべきだという設計者の考えを押し付けたものである。それでは、人びとの自由な想像力を邪魔する。その逆のものが時間による意味付与である。前の設問につづく設問であり、前の設問がヒントになっている。
【解答例】河川の風景は固定されるものではなく、自然の手と人びとの生活の中でつくり上げられていくということ。

(五)「風景こそ自己と世界、自己と他者が出会う場である」(傍線部オ)とはどういうことか、本文全体の論旨を踏まえた上で、一〇〇字以上、一二〇字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。)
【解説】全体の内容から自己と世界との出会いが何か、自己と他者の出会いが何かを考えよう。世界というと自分のまわりをめぐるものだろう。そうであれば自然であり社会である。また他者とは自分とは異なる事物である。文章に即せば、異なる経験・履歴を積み、同一の風景も異なって見ている他人のことである。
【解答例】河川の風景は自然の手によりつくられ、そこに住み・訪れる人びとの生活によってつくられているので自己と世界の出逢いといえる。また同じひとつの河川が人によって異なって見える風景の基盤になっており、異なる経験をもつ人びとの出会いの場でもあるということ。

(六)傍線部a、b、c、dのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
a ハ(ねる)  b ダンペンン  c ヨクアツ  d ソガイ
【解答例】
a 跳ねる    b 断片      c 抑圧    d 阻害

小論文入門講座

 1 小論文とは?
作文では、主観的に思ったこと・感じたことだけを述べることも可能だが、小論文はあるテーマに対して、論理的に考えれば誰でも共通認識にいたるであろう意見を、根拠にもとづいて述べるものである。そのため、求められるのは文学的表現ではなく論理性であり、自分の意見である。

(1)小論文の種類
①与えられたテーマについて論述する問題
②課題文を読んで論述する問題
③資料や図表(写真・絵・マンガを含む)を読んで論述する問題
④課題文と資料・図表を合わせ読んで論述する問題

【課題文型】このうち慶應小論文を含め、大学入試で多いのは②④である。これらでは課題文が与えられ、まずそれを読み解く必要がある。そのうえで筆者の意見に対して自分の意見を述べる。そのとき、
a 筆者の意見に賛成する。
b 筆者の意見を補う。
c 他の意見を述べる。
d 根本的に批判する。
いずれかの立場を表明して論述するが、課題文の多くは優れた意見を述べており、課題文に沿って小論文を仕上げるといい。課題文に刺激されて、うまく自分の常識を疑おう。そうすると自分の言いたいことが見つかる。

【図表型】表やグラフから問題点を読み取り、それについて論じる。図表の読みこみでは大きな数値と小さな数値に注目し、折れ線グラフでは傾向に注目して、その原因を論じるといい。図表を読むのは難しくない。


 2 文章展開について

(1)まず簡単な内容要約を書こう
採点者は課題文を読んでいないと仮定して、最初に課題文や資料の内容を要約しよう。これでレポートや論文で必要な、従来の議論のまとめや研究史を述べたことになる。それに続けて自分の意見を述べよう。

(2)第一段落で結論も書こう
結論は最後にもってくるのが正しいと考えている人が多い。しかし小論文入試は大学に入ってから書くレポートや論文を書く力があるかどうかを見るものである。それらでは最初にテーマや問題点を述べた後に、自分の意見を述べる。だから自分の意見を第一段落で述べる習慣を身につけよう。また最初に結論を述べずに書き始めると字数や時間が残り少なくなり、結論が書けないことがある。これでは評価できない。また逆に残り字数が余りすぎて、結論が間延びすることもある。先に結論を書けば、最後の結論がなくても文章は成り立っており、評価はつく。また残り字数が余りそうであれば、もういちど結論を繰り返すことで字数を稼げる。

(3)結論―本論―結論の三段落構成にしよう

【書き出し】
話題を提示しながら主張(結論)を述べる。実はここがもっとも重要な部分であり、採点者によっては書き出しと結論しか見ない。小論文の大きな主題は「常識を疑う」だから、課題に導かれながら上手に常識を疑おう。
  
【理由と具体例】
具体例を示しながら、なぜそう考えるのか根拠を述べる。体験したこと、聞いたこと、読んだことを活用して、自分の意見を根拠づける。
  
【まとめ】
もういちど自分の主張を述べる。決めの言葉は対立する言葉を「AとB」と組み合わせると面白い。例えば「障壁と進化」である。障壁があるからこそ進化があるというように、新しい発想を端的に示せる。

(4)まとめは明るく前向きにしよう
意見は否定的・悲観的な内容では終らせず、積極的・前向きに終らせよう。小論文はレポートや報告書なので、最善は新しい対策の提言である。もし具体的な対策が思い浮かばなくても、方向性を示そう。

(5)「~すべきだ」は使わないようにしよう
小論文では文学的表現は必要ない。また「~すべきだ」というような独善的な文章もやめよう。討論では他の意見を聞くことで議論がまとまり、事態が前進することが多い。よほど素晴らしい意見でない限り、読む者を白けさせるので注意しよう。説得するようにていねいに書くことだ。


 3 読みやすい文章を書く

(1)文は短めにしよう
最大二~三行(五〇字程度)にする。三行を超えるようなら、二文以上に分割しよう。なるべく短い文を積み上げて書く方が、歯切れもよく文章に誤解も生じない。小論文では英語翻訳ソフトできれいに翻訳できる短い文がいいとされているので、心配しないで短い文で書こう。

(2)主語・述語のねじれに気を付けよう
主語と述語のねじれ(主語と述語がまっすぐに結びつかない)や、修飾語の係り受けの不備(複数の語句にかかる、被修飾語の抜け落ちなど)にも気づきやすい。読み直したときに誤字・脱字などにも気づきやすい。

(3)だれでも分かる表現にしよう
文学的表現は必要ない。文学的才能があればいいが、受験生の多くはだれもが感動するような文学的表現を書けない。そうであれば、きれいな文を書こうとせず、短い文章をひとうひとつ論理的に積み上げよう。そのとき接続詞をうまく使うと読みやすい。「たしかに」と言って反対意見の長所を認めたうえで、「しかし」と言って自分の意見を述べるといいだろう。さらに「つまり」と言って、自分の意見を言い換えて説得力をもたせよう。


 4 慶應小論文

2014年慶應小論文
文学部 「異邦人」について
法学部 「ケアの倫理」と「正義の倫理」
総合政策学部 学説と教科書の関係―中国近代史の記述をめぐり
環境情報学部 シリーズ『地球と人間』の編集
経済学部 技術進歩について
商学部 贅沢について―浪費と消費のちがい
看護学部 『豊かさとは何か』

2013年慶應小論文
文学部 メディア(携帯電話)と人間関係(家族)
法学部 日本における内閣制度
総合政策学部 オープンリサーチフォーラム「日本の針路」討論原稿作成
環境情報学部 「暗黙知」について
経済学部 原子力発電所の再稼働について
商学部 インセンティブ理論について
看護学部 『星の王子さま』を読んで

2012年慶應小論文
文学部 電子書籍について
法学部 規範理論における主題としての家族
総合政策学部 グローバリゼーションの深化について
環境情報学部 生活用品のデザインについて
経済学部 霜柱に関する科学的研究について
商学部 企業の社会的責任について
看護学部 頼むこと頼まれることについて

2012年東大前期国語第4問「ひとり遊び」

 次の文章は歌人河野裕子の随筆「ひとり遊び」で、文中に挿入されている短歌もすべて筆者の自作である。これを読んで、後の設問に答えよ。

 熱中、熱中、脇目もふらない懸命さ、ということが好きである。
 下の子が三歳で、ハサミを使い始めたばかりの頃のことである。晩秋の夕ぐれのことで部屋はもううす暗かった。四畳半の部屋中に新聞紙の切りくずが散乱し、もう随分長いこと、シャキシャキというハサミを使う音ばかりがしていた。下の子は、切りくずの中に埋まって、指先だけでなく身体ごとハサミを使っていた。道具ではなくて、ハサミが身体の一部のようにも見えた。自分のたてるハサミの音のリズムといっしょに呼吸しながら、ただただ一心に紙を切っているのである。呼んでも振り向く様子ではなかった。熱中。胸を衝かれた。ア私は黙って障子を閉めることにした。夕飯は遅らせていい。
 このようなことは、日常の突出点などでは決してなく、むしろ子供にとってはあたりまえのことなのではないだろうか。大人の個が、それを見過ごしているのである。大人たちは、子供の熱中して遊ぶ姿にふと気づくことがある。そして胸を衝かれたりもするのである。
 しかし、と私は思う。大人の私が、子供たちが前後を忘れて夢中になって遊ぶ姿を、まま見落としているにしても、当節の、すこしも遊ばなくなった、といわれる子供たちに較べれば格段によく遊ぶうちの子供たちにしても、私自身の子供時代に較べれば、やはり今の子供たちは、遊びへの熱意が稀薄なように思われてならないのである。
 子供時代に遊んだ遊びを思い出す。罐蹴り、影ふみ、輪まわし、石蹴り、砂ぞり遊び、鬼ごっこ、花いちもんめ、下駄かくし、数えあげればきりもない。これらはいずれも多くの仲間たちと群れをなして遊んだ遊びである。集団の熱意に統べられて遊んだ快い興奮を忘れることができない。
 より多く思い出すのは、ひとり遊びのあれこれである。私が真に熱中して遊んだのは、ひとり遊びのときだったからである。集団遊びの場合は、何何遊びとか、何何ごっことか、れっきとした名前がついているのに、ひとり遊びはひとり遊びとしか言いようがない。よそ目には何をしているふうにも見えないが、その子供には結構楽しい遊びであることが多いからである。

 しらかみに大きな楕円を描きし子は楕円に入りてひとり遊びす
                                 (『桜森』)

 おそらく子供は、ひとり遊びを通じて、イそれまで自分の周囲のみが仄かに明るいとだけしか感じられなかった得体のしれない、暗い大きな世界との、初めての出逢いを果たすのであろう。世界といってしまっては、あまりに漠然と、大づかみに過ぎるというなら、人間と自然に関わる諸々の事物事象との、なまみの身体まるごとの感受の仕方ということである。その時の、鮮烈な傷のような痛みを伴った印象は、生涯を通じて消えることはない。生涯に何百度サルビアの緋を愛でようとも、幼い日に見た、あの鮮紅には到底及ぶものではないのと同じように。
 ひとり遊びとは、自分の内部に没頭するという以上に、対象への没頭なのであろうと思う。川底の小蟹を小半日見ていてなお飽きない、というようなことがよくあった。時間を忘れ、周囲を忘れ、一枚の柿の葉をいじったり、雨あがりのなまあったかい水たまりを裸足でかきまわしたり、際限もなく砂絵を描いたりするのが子供は好きなのである。なぜかわからない。けれどそれらは何と深い、他に較べようもないよろこびだったことだろう。

 菜の花かのいちめんの菜の花にひがな隠れて鬼を待ちゐき
鬼なることのひとり鬼待つことのひとりしんしんと菜の花畑なのはなのはな
                                (『ひるがほ』)
 菜の花畑でかくれんぼをしたことがあった。菜の花畑は、子供の鬼には余りに広すぎた。七歳の子供の探索能力を超えていたのである。私は鬼を待っていた。もう何十分も何時間も待っていたのだった。待つことにすら熱中できた子供時代。今始まったばかりの子供時代の、ゆっくりゆっくり動いてゆく時間に身を浸しているという、識閾にすらのぼらない充足感があったにちがいない。時代もまたそのように大どかに動く時間の中にたしかに呼吸していたのである。今日のように、自然性を分断された風景というものはなかった。大きな風景の中に、人間も生きていられたのである。菜の花畑の向こうにれんげ畑、れんげ畑のむこうに麦畑がああり、それらは遠く山すそまで広がっているはずだった。
 子ども時代が終わり、少女期が過ぎ、大人になってからも、エずっと私はひとり遊びの世界の住人であった。何かひとつのことに熱中し、心の力を傾けていないと、自分が不安で落着かなかった。こうした私の性癖は、生き方の基本姿勢をも次第に決定して行ったようである。考え、計算しているより先に、ひたぶるに、一心に、暴力的に対象にぶつかって行く。幸か不幸か、現在の私は、実人生でよりも、歌作りの上で、はるかに強く意識的に、このことを実践している。歌作りの現場は、意志と体力と集中力が勝負である。歌作りとは、力業である。しかし一首の歌のために幾晩徹夜して励んだとしても、よそ目には遊びとしか見えないだろう。然り、と私は答えよう。一見役に立たないもの、無駄なもの、何でもないものの中に価値を見つけ出しそれに熱中する。ひとり遊びの本領である。

設問
(一)「私は黙って障子を閉めることにした」(傍線部ア)のはなぜか、考えられる理由を述べよ。
【解説】三歳の子供が夢中になってハサミで新聞を切っている様子を描写したうえで、傍線部ア「私は黙って障子を閉めることにした」とある。その直前に「熱中」、その直後に「夕飯は遅らせていい」とあるから、熱中している子供の邪魔をしないためであるのは明らかだろう。
【解答例】ハサミを使い始めて夢中になっている子供のひとり遊びを邪魔しないように。

(二)「それまで自分の周囲のみが仄かに明るいとだけしか感じられなかった得体の知れない、暗い大きな世界との、初めての出逢いを果たす」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】筆者は、子供はひとり遊びを通じて、傍線部イ「それまで自分の周囲のみが仄かに明るいとだけしか感じられなかった得体のしれない、暗い大きな世界との、初めての出逢いを果たす」と述べており、その直後で「なまみの身体まるごとの感受の仕方」、そして「その時の、鮮烈な傷のような痛みを伴った印象は、生涯を通じて消えることはない」と述べる。では、実際に暗い体験かというと、そうではなく、暗い中で見えた一筋の光明、つまり啓蒙という意味であろう。自分の周囲のことしか知らなかったが、初めて知ったものに光を見出し夢中になると解釈できよう。また、「痛み」とあることから、大人への第一歩と解釈してもいい。
【解答】それまで知らなかったものを知ったことで、自分の世界が広がり夢中になるということ。

(三)文中の短歌「鬼なることのひとり鬼待つことのひとりしんしんと菜の花畑なのはなのはな」(傍線部ウ)に表現された情景を、簡潔に説明せよ。
【解説】短歌「菜の花かのいちめんの菜の花にひがな隠れて鬼を待ちゐき」が挿入され、傍線部ウ「鬼なることのひとり鬼待つことのひとりしんしんと菜の花畑なのはなのはな」と続く。この情景は、次の段落で分かる。
菜の花畑でかくれんぼをしたときのこと、菜の花畑は子供の鬼にはあまりに広いため、筆者は何十分も何時間も待たされた。しかし待つことにすら熱中できたのである。「なのはなのはな」と言葉遊びをしていたのだろう。「ひとり遊び」としてもいいし、「ひとり言葉遊び」としてもいい。
【解答例】菜の花畑での鬼ごっこでなかなか見つけられなかったが、待っている間もひとり遊びに熱中できたということ。

(四)「ずっと私はひとり遊びの世界の住人であった」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】筆者は子供から思春期、そして大人になってからも、「ずっと私はひとり遊びの世界の住人であった」という。このことを、筆者は歌作りでとくに強く意識しているという。この傍線部のある最後の段落で、筆者は一見役に立たないものや無駄なものの中に価値を見つけ出し、それに熱中するのは、まさに歌作りの本分と述べている。
【解答例】大人になっても一見役に立たないものに価値を見出して、そのことに夢中になれるということ。

2012年東大前期国語第1問「科学的自然観」

 環境問題は、汚染による生態系の劣悪化、生物種の減少、資源のaコカツ、廃棄物の累積などの形であらわれている。その原因は、自然の回復力と維持力を超えた人間による自然資源の搾取にある。環境問題の改善には、思想的・イデオロギー的な対立と国益の衝突を超えて、国際的な政治合意を形成して問題に対処していく必要がある。
 しかしながら、環境問題をより深いレベルで捉え、私たちの現在の自然観・世界観を見直す必要もある。というのも、自然の搾取を推進したその論理的・思想的背景は近代科学の自然観にあると考えられるからだ。もちろん、自然の搾取は人間社会のトータルな活動から生まれたものであり、環境問題の原因のすべてを近代科学に押し付けることはできない。
 しかしながら、近代科学が、自然を使用するに当たって強力な推進力を私たちに与えてきたことは間違いない。その推進力とはただ単に近代科学がテクノロジーを発展させ、人減の欲求を追求するためのbコウリツ的な手段と道具を与えたというだけではない(テクノロジーとは、科学的知識に支えられた技術のことを言う)。それだけではなく、近代科学の自然観そのものの中に、生態系の維持と保護に相反する思想が含まれていたと考えられるのである。
 近代科学とは、一七世紀にガリレオやデカルトたちによって開始され、次いでニュートンをもって確立された科学を指している。近代科学の基礎となっていたことは言うまでもない。近代科学の自然観には、中世までの自然観と比較して、いくつかの重要な特徴がある。
 第一の特徴は、機械論的自然観である。中世までは自然の中には、ある種の目的や意志が宿っていると考えられていたが、近代科学は、自然からそれらの精神性を剥奪し、定められた法則どおりに動くだけの死せる機械とみなすようになった。
 第二に、原子論的な還元主義である。自然はすべて微小な粒子とそれに外から課される自然法則からできており、それら原子と法則だけが自然の真の姿であると考えられるようになった。
 ここから第三の特徴として、ア物心二元論が生じてくる。二元論によれば、身体器官によって捉えられる知覚の世界は、主観の世界である。自然に本来、実在しているのは、色も味も臭いもない原子以下の微粒子だけである。知覚において光が瞬間的に到達するように見えたり、地球が不動に思えたりするのは、主観的に見られているからである。自然の感性的な性格は、自然本来の内在的な性質ではなく、自然をそのように感受し認識する主体の側にある。つまり、心あるいは脳が生み出した性質なのだ。
 真に実在するのは物理学が描き出す世界であり、そこからの物理的な刺激作用は、脳内の推論、記憶、連合、類推などの働きによって、cチツジョある経験(知覚世界)へと構成される。つまり、知覚世界は心ないし脳の中に生じた一種のイメージや表象にすぎない。物理的世界は、人間的な意味に欠けた無情の世界である。
 それに対して、知覚世界は、「使いやすい机」「嫌いな犬」「美しい樹木」「愛すべき人間」などの意味や価値のある日常物に満ちている。しかしこれは、主観が対象にそのように意味づけたからである。こうして、物理学が記述する自然の客観的な真の姿と、私たちの主観的表象とは、質的にも、存在の身分としても、まったく異質なものとみなされる。
 これが二元論的な認識論である。そこでは、感性によって捉えられる自然の意味や価値は主体によって与えられるとされる。いわば、イ自然賛美の抒情詩を作る詩人は、いまや人間の精神の素晴らしさを讃える自己賛美を口にしなければならなくなったのである。こうした物心二元論は、物理と心理、身体と心、客観と主観、自然と人間、野生と文化、事実と規範といった言葉の対によって表現されながら、私たちの生活に深く広くdシントウしている。日本における理系と文系といった学問の区別もそのひとつである。二元論は、没価値の存在と非存在の価値を作り出してしまう。
 二元論によれば、自然は、何の個性もない粒子が反復的に法則に従っているだけの存在となる。こうした宇宙に完全に欠落しているのは、ある特定の場所や物がもっているはずの個性である。時間的にも空間的にも極微にまで切り詰められた自然は、場所と歴史としての特殊性を奪われる。近代的自然科学に含まれる自然観は、自然を分解して利用する道をこれまでないほどに推進した。最終的に原子の構造を砕いて核分裂のエネルギーを取り出せるようになる。自然を分解して(知的に言えば、分析して)、材料として他の場所で利用する。近代科学の自然に対する知的・実践的態度は、ウ自然をかみ砕いて栄養として摂取することに比較できる
 近代科学が明らかにしていった自然法則は、自然を改変し操作する強力なテクノロジーとして応用されていった。しかも自然が機械にすぎず、その意味や価値はすべて人間が与えるものにすぎないのならば、自然を徹底的に利用することに躊躇を覚える必要はない。本当に大切なのは、ただ人間の主観、心だけだからだ。こうした態度の積み重ねが現在の環境問題を生んだ。
 だが実は、この自然に対するスタンスは、人間にもあてはめられてきた。むしろその逆に、歴史的に見れば、人間に対する態度が自然に対するスタンスに反映したのかもしれない。近代の人間観は原子論的であり、近代的な自然観と同型である。近代社会は、個人を伝統的共同体の桎梏から脱出させ、それまでの地域性や歴史性から自由な主体として約束した。つまり、人間個人から特殊な諸特徴を取り除き、原子のように単独の存在として遊離させ、規則や法に従ってはたらく存在として捉えるのだ。こうした個人概念は、たしかに近代的な個人の自由をもたらし、人権の概念を準備した。
 しかし、近代社会に出現した自由で解放された個人は、同時に、ある意味でアイデンティティを失った根無し草であり、誰とも区別のつかない個性を喪失しがちな存在である。そうした誰ともeコウカン可能な、個性のない個人(政治哲学の文脈では「負荷なき個人」と呼ばれる)を基礎として形成された政治理論についても、現在、さまざまな立場から批判が集まっている。物理学の微粒子のように相互に区別できない個人観は、その人のもつ具体的な特徴、歴史的背景、文化的・社会的なアイデンティティ、特殊な諸条件を排除することでなりたっている。
 だが、そのようなものとして人間を扱うことは、本当に公平で平等なことなのだろうか。いや、それ以前に、近代社会が想定する誰でもない個人は、本当は誰でもないのではなく、どこかで標準的な人間像を規定してはいないだろうか。そこでは、標準的でない人々のニーズは、社会の基本的制度から密かに排除され、不利な立場に追い込まれていないだろうか。実際、マイノリティに属する市民、例えば、女性、少数民族、同性愛者、障害者、少数派の宗教を信仰する人たちのアイデンティティやニーズは、周辺化されて、軽視されてきた。個々人の個性と歴史性を無視した考え方は、ある人が自分の潜在能力を十全に発揮して生きるために要する個別のニーズに応えられない。
 近代科学が自然環境にもたらす問題と、これらのエ従来の原子論的な個人概念から生じる政治的・社会的問題とは同型であり、並行していることを確認してほしい。
 自然の話に戻れば、分解して個性をなくして利用するという近代科学の方式によって破壊されるのは、生態系であることは見やすい話である。自然を分解不可能な粒子と自然法則の観点のみで捉えるならば、自然は利用可能なエネルギー以上のものではないことになる。そうであれば、自然を破壊することなど原理的にありえないことになってしまうはずだ。
 しかし、そのようにして分解的にとらえられた自然は、生物の住める自然ではない。自然を原子のような部分に還元しようとする思考法は、さまざまな生物が住んでおり、生物の存在が欠かせない自然の一部ともなっている生態系を無視してきた。
 生態系は、そうした自然観によっては捉えられない全体論的存在である。生態系の内部の無機・有機の構成体は、循環的に相互作用しながら、長い時間をかけて個性ある生態系を形成する。エコロジーは博物学を前身としているが、博物学とはまさしく「自然史(ナチュラル・ヒストリー)」である。ひとつの生態系は独特の時間性と個性を形成する。そして、そこに棲息する動植物はそれぞれの仕方で適応し、まわりの環境を改造しながら、個性的な生態系を営んでいる。自然に対してつねに分解的・分析的な態度をとれば、生態系の個性、歴史性、場所性は見逃されてしまうだろう。これが、環境問題の根底にある近代の二元論的自然観(かつ二元論的人間観・社会観)の弊害なのである。オ自然破壊によって人間も動物も住めなくなった場所は、そのような考え方がもたらした悲劇的帰結である
                     (河野哲也『意識は実在しない』)

設問

(一)「物心二元論」(傍線部ア)とあるのはどういうことか、本文の趣旨に従って説明せよ。
(二)「自然賛美の抒情詩を作る詩人は、いまや人間の精神の素晴らしさを讃える自己賛美を口にしなければならなくなった」(傍線部イ)とあるが、なぜそのような事態になるといえるのか、説明せよ。
(三)「自然をかみ砕いて栄養として摂取することに比較できる」(傍線部ウ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
(四)「従来の原子論的な個人概念から生じる政治的・社会的問題」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
(五)「自然破壊によって人間も動物も住めなくなった場所は、そのような考え方がもたらした悲劇的帰結である」(傍線部オ)とはどういうことか、本文全体の論旨を踏まえた上で、一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。)
(六)傍線部a、b、c、d、eのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
 A コカツ b コウリツ c チツジョ d シントウ e コウカン

解説と解答例

設問(一)
【解説】傍線部アの直後に「二元論によれば」とあるので、そこをまとめよう。感覚器官による知覚の世界は主観の世界であり、色も味も臭いも自然本来の「内在的な」性質ではなく、心あるいは脳が生み出した性質だという。「内在的」というのは「固有の」という意味だから、色も味も臭いも自然固有のものではなく主観が生み出したものというように、主観の世界と客観の世界をきびしく分けたうえで、感覚的なものは実在しないという「物心二元論」である。
【解答例】主観と客観を厳しく分けた上で、色や味など感覚的なものは主観的なもので実在しないということ。

設問(二)
【解説】傍線部イは前問のつづきである。前問で答えたように、ここでいう物心二元論によれば、色も味も臭いも感覚的なものはすべて主観の産物であり、自然界に実在しないということになる。そうであれば、人間が自然から感じとったものは、実はすべて主観の産物である。そのため、自然を賛美するということは、そのまま主観を賛美することになる。
【解答例】人間が自然から得た感覚はすべて主観の産物であり、自然の賛美は主観の賛美になるということ。

設問(三)
【解説】傍線部ウのある段落のキーワードは、「場所」である。「ある特定の場所や物がもっているはずの個性」「場所と歴史としての特殊性」「材料として他の場所で利用する」とあり、場所が固有性を示す概念として使用している。そのうえで、近代的自然科学の自然観は、自然を分解して利用し、最終的には原子をも分解して核エネルギーにしたと述べている。これを受けたのが、傍線部ウである。この段落の内容をまとめるといい。
【解答例】自然物の固有性を否定し、人間にとって必要なものを抽出して利用しているから。

設問(四)
【解説】傍線部エの三つ前の「だが実は、この自然に対するスタンスは、人間にもあてはめられてきた」から、原子論的な個人観の話題になる。これまでの原子論の流れから、物質の個別性や特殊性を否定したのと同様、人間の個別性を否定して、すべての人間を抽象的に平等・自由と見なすのが原子論的な個人概念である。そして、それによってもたらされる問題点については傍線部エの直前の「だが、そのようなものとして人間を扱うことは」で始まる段落を見るといい。個別性や特殊性を捨象した結果、人びとは個性を失ったが、それだけではなく、特定の階層の人びとを標準化して個人概念を作り上げたため、そこから漏れた女性、少数民族、同性愛者など少数派のニーズは無視された、とまとめるといい。
【解答例】個人概念は近代市民男性を標準化したものであり、女性や少数民族・同性愛者など少数派は排除された。

設問(五)
【解説】全体の内容を踏まえた上で、傍線部オのある最後の段落をまとめるといい。生態系は長い時間をかけて形成されたものであり、そこに棲息する動植物がそれぞれの仕方で適応し、まわりの環境を改造しながら、個性的な生態系を営んでいる。自然に対してつねに分解的・分析的な態度をとれば、生態系の個性は見逃される。これが二元論的自然観の弊害である。(オ)「自然破壊によって人間も動物も住めなくなった場所は、そのような考え方がもたらした悲劇的帰結である」。筆者は「場所」を自然物の固有性を表すのに使用しており、自然破壊の結果、歴史性や特殊性が失われてどこも同じに見える砂漠と化したともいえる。
【解答例】生態系は長い時間をかけて形成されたものであり、そこに棲息する動植物がそれぞれの仕方で適応し、まわりの環境を改造しながら、個性的な生態系を営んだが、自然破壊の結果、歴史性や特殊性が失われてどこも同じに見える砂漠と化したといえる。

2014年東大後期・総合科目Ⅲ【解答と解説】

第一問
【問一】
 健康という言葉は、明治時代の中頃に、明治政府が西洋医学の概念を持ち込んだことに始まる。明治政府は西洋医学の衛生や健康という概念を利用して、国民を管理しようと考えたのである。そのため西洋医学の医師を国家資格が必要な専門職にして、漢方医や鍼灸師・宗教家など民間医療従事者を排除した。このようにして西洋医学を通して、強い兵士や良質な労働力の生産を目指した。国民はお国のためにも健康でなければならないと考えられるようになると、当然のこと、優生学も国家による優生政策に資することになった。
 近代国家による国民管理では、法制度だけではなく、制度化された西洋医学もまた重要な役割を果たしたといえよう。
 しかし、戦後の健康政策もまた国民を管理するものであった。最初は結核など感染症の排除と予防という政策を進め、つぎに成人病を減らす政策を進めた。成人病は本来医学にない官制の概念であったが、医学は予算を獲得するため成人病研究を進めた。さらに生活習慣病という概念がつくられ、やはり予算がつけられた。国が予算によって医学を管理し、医学もそれに追従しており、現在でも国家は医学を通して国民生活を管理している。
 
【問二】
 現在の日本では、健康は自分で管理できるものと考えられている。とくに生活習慣病は自己管理の失敗と考えられて、保健所や医師に指導され、厳しく数値目標の達成を求められる。それだけではなく、社会からも自己管理に失敗した者というレッテルを貼られ、ときには社会的信用にもかかわってしまう。
 また、どう見ても痩せているようにしか見えない女性が、さらに痩せたがるのも、体型を自分で管理できると考えられているからである。かわいい服を着るために、無理なダイエットをする。美容整形も、自分の身体は自分で管理できるという発想にもとづく。
 しかし、私たちはそれを笑えない。健康の基準が数値化されれば、だれでも自分が理想とする数値を目指そうとするからである。数値の上下に一喜一憂する。テレビや雑誌からも情報が多く入る。もはや自己管理しているのではなく、強迫観念にとらわれている。さらに、健康にお金をかけられる者とかけられない者との間に新たな格差が生まれており、今後新たな問題となっていくことだろう。
 私たちは国家だけではなく、情報や資本主義にも翻弄されていよう。いちど健康ブームから離れ、心身を養生させた方がいい。


第二問
【問一】
 知識人がその時々の権威や多数派に対して勇気をもって発言したときに「知識人」という。そうであれば、日本では明治政府を批判した福沢諭吉ら明六社、日露戦争のときの非戦論者内村鑑三や与謝野晶子らは「知識人」であり、国連事務次長として国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案を提出した新渡戸稲造や、戦後サンフランシスコ平和条約締結で全面講和を説いた南原繁もそうだろう。とくに南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と呼ばれた。「知識野郎」である。まさに正義を実現するために抗議した人物たちである。
 ところで、正岡子規から夏目漱石が俳句を学び、漱石から寺田寅彦が俳句を学んだように、もともと日本の知識層は教養的素養を重視した。寺田の物理学に日常生活の視点を導入したが、これもまたひとつの勇気だろう。
 日本では教養を重視し、大学に教養学部があり、採用試験にも教養科目がある。しかし教養があっても、それだけでは「知識人」とはいえない。官僚制のもとでは個人の正義感よりも、組織の利害が優先される。もちろん官僚制の問題は日本ばかりではない。しかし日本では民間も含め慣習が重視される傾向にあり、非常事態に対応できないことが多い。

【問二】
「知識人」という言葉は、一八九四年フランスで起こったドレフェス事件のときに生まれた。もともと勇気をもって行動した知識層を揶揄するために生まれた言葉だという。そうであれば、「知識人」とは権威だけではなく、多数派があやまっているときには多数派に対して意見を言える者でなければならない。
 現在の民主主義国家では、多数決派の意見が通りやすい状況にあるといえる。もともと多数決が有効だったのは、市民革命以前に、一部の特権階級が国政の実権を握り、圧倒的多数であった国民の意見が国政に反映されていなかったからである。このときは多数派が弱者であった。しかし現代社会では、多数派が少数派を排除する傾向にある。まさに、かつての弱者が強者に転換してしまったのである。このように多数派の声が通る現代社会では、少数派の声を聴く耳が必要であろう。
 また専門分化が進んだ現代社会では、専門知識をもつ者が運動の中にいなければ、専門知識をもつ権力や権威に対抗できない。そのため現代社会では、アマチュアの視点も必要だが、専門知識をもった者が他者を理解する必要もある。そのためにも他者の視点を持つための教養教育が強く求められる。

《論評》

 今年度は、典型的な課題文型小論文になった。主題は設問一が国家権力による国民支配で、設問二は権威や多数派と闘う者である。このように通底していると分かれば、それだけでも何を中心に書いたらいいのか、判断できるだろう。
【設問一】
 問一はまとめなので、箇条書きにしてから、清書の段階で文章に直すと効率的だ。小論文のコツは、まず草稿で箇条書きにして、清書で文章にしながらつなげることだ。
 課題文の主題は国家による国民の健康管理である。前半が健康という言葉が日本に現れたのが明治中期以降であり、明治政府が西洋医学の健康という概念を輸入し、医師を国家資格にして、国民を管理したという内容である。必然的に優生学的傾向を有した。
 後半は、国が予算で医学を管理し、医学が国民を管理するシステムが維持されるという内容だ。まず結核やコレラなど感染症の排除と予防であり、つぎに成人病対策であり、さらに生活習慣病である。医学も予算をつけて医学を管理し、医学も追従した。
 戦前と戦後を対比しながらも、根底では国家が医学を通した国民管理が続いているとまとめるといい。
 問二は考察であり、自分の経験を踏まえればそのまま現代日本社会を問うことになり、経験という根拠もあるので説得力がある。
実は、私は健康管理で通院しているが、医師からは、テレビの情報番組は脅しすぎであり、健康診断の数値も画一的すぎるので、あまり気にやまないようにと忠告されている。
 私たちは健康や体型を自己管理できると考え、周囲には健康に関する情報や商品があふれている。国・医学・自己による管理である。そして強迫観念のように健康・体型という言葉が、私たちを神経質にしている。自分の身近なところからでも、このように現在の日本の状況をまとめられる。
【設問二】
 ドレフェス事件は世界史受験者にはお馴染みの事件である。普仏戦争敗戦後のフランス第三共和政の時代に、ユダヤ人将校ドレフェスがスパイ容疑をかけられた事件だ。ゾラらは「知識人」と揶揄されながらも闘った。「知識人」を語るときに必ず引用される事件だ。この事件で「知識人」は否定的な意味で使われたが、それは多数派に迎合しないからである。それは『寅さん』の例でも分かる。
 ひとを「知識人」にするのは特別な才能ではなく、非常事態と勇気である。
 また『裸の王様』に登場する子供のような素人の立場が求められるのは、専門知識が必要ないということではない。専門家だと、利害もからんで自由に発言・行動できないからである。利害を顧みない専門家は、十分に「知識人」である。むしろ専門分化の進んでいる現代社会では、専門家も必要である。
 このように「知識人」は非常時に自分の信じる正義のために行動できる者であり、自らが権威となってはもはや「知識人」とはいえない。むしろ抑圧者になる。
 ところで夏目漱石や寺田虎彦が俳句を嗜んだように近代日本の知識人に教養人は多い。彼らも啓蒙家であった。では、近代日本に課題文でいう「知識人」はいただろうか。近代日本史で、多数派と闘った人物を思い出すといいだろう。解答例では日本史のなかでも、多数派に対して声を上げた人物として、福沢諭吉ら明六社、日露戦争で非戦論を展開した内村鑑三や与謝野晶子、規約に人種的差別撤廃提案を提出した新渡戸稲造や、戦後サンフランシスコ平和条約締結で全面講和を説いた南原繁もそうだろう。とくに南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と呼ばれた。まさに罵倒する意味での「知識野郎」である。彼らは正義を実現するために抗議した人物といえる。
 この問題には、実は知識人のあり方を問うことで自分の生き方を見つめてほしいという思いと、東大に教養学部がある意義を知ってもらいたいという意図が込められていよう。読者には、ぜひサイード著『知識人とは何か』(大橋洋一訳、平凡社ライブラリー)を読んでもらいたい。

2014年東大前期・国語第4問【解答速報】

 仕事の打ち合わせでだれかとはじめて顔を合わせるとき、そんなときには、互いに見ない触角を伸ばして話題を探すことになる。もともとにがてだったそういう事柄が、いつからか嫌でなくなり、いまでは愉しいひとときにすらなってきた。どのみち避けられないから、嫌ではないはずと自己暗示を掛けているだけかもしれない。いずれにしても、初対面の人と向かい合う時間は、(ア)日常のなかに、ずぶりと差しこまれる
 先日は、理系の人だった。媒体が児童向けで、科学関係の内容を含むためだった。もちろん、それは対話を進めているうちにわかってくることだ。互いに、過不足のない自己紹介をしてから本題に入る、などということは起こらない。相手の話を聞いているうちに、ずいぶん動植物に詳しい人だなという印象が像を結びはじめる。もしかして、理系ですか、と訊いてみる。
 「ええ、そうです。いまの会社に来る前は、環境関係の仕事をしていました。それもあって、いまの仕事でも植物や動物を取材することが多いんです。この前は蓮田に行ってきました。蓮根を育てている蓮田です。蓮って、水の中の根がけっこう長いんですよ。思ったよりずっと長くて、びっくり。動物園に行くこともありますよ。撮影にゾウの糞が必要で、ゾウがするまで、じっと待っていたりして」。嬉々として説明してくれる。だれと会うときでも、相手がどんなことにどんなふうに関心をもっているのか、知ることは面白い。自分には思いもよらない事柄を、気に掛けて生きている人がいると知ることは、知らない本のページをめくる瞬間と似ている。
 私たちの前にはカフェ・ラテのカップがあった。その飲み物の表面には、模様が描かれていた。その人は、自分のカップの上へ、首を伸ばしたようにした。そして、のぞき見ると「あ、柄が崩れている」といった。「残念、崩れている」と繰り返す。私の方は崩れていない。崩れていても一向に構わないので、それならこちらのカップと交換しようと思った瞬間、その人は自分の文を持ち上げて、口をつけた。申し出るタイミングを失う。相手への親近感が湧いてくる。以前から知っている人のような気がしてくる。
 「台風の後は、植物園に直行するんです」。相手は、秘密を打ち明けるように声をひそめる。「その植物園には、いろんな種類の松が備わっていて、台風の後には、こんな大きな松ぼっくりが拾えるんです」。両手で大きさを示しながら説明してくれる。「それを、リュックに入れて、もらってくるんです」。いっしょに行ったわけではないのに、いつか、そんなことがあった気がする。いっしょに松ぼっくりを拾った気がする。植物園もまた本に似ている。(イ)風が荒々しい手つきでめくれば、新たなページが開かれて、見知らぬ言葉が落ちている。植物園への道を幾度も通うその人のなかにも、未知の本がある。耳を傾ける。生きている本は開かれない時もある。こちらの言葉が多くなれば、きっと開かれない。
 その人の話を、もっと聞いていたいと思った。どんぐりに卵を産みつける虫の名前を、いくつも挙げられるような人なのだ。打ち合わせだから当然、雑談とは別に本題がある。本題が済めば、店を出る。都心の駅。地下街に入ると、神奈川県の海岸の話になった。相手は、また特別な箱から秘密を取り出すように、声をひそめた。「あのあたりでは、馬の歯が拾えるんです。海岸に埋められた中世の人骨といっしょに、馬の骨も出てくるんです。中世に、馬をたくさん飼っていたでしょう。だからです。私、拾いましたよ。馬の歯」。
 「それ本当に馬の歯ですか」。思わず問い返す。瞬間、相手は、ううんと唸る。それから「あれは馬です、馬の歯ですよ。本当に出るんです」。きっぱり答えた。記憶と体験を一点に集める真剣さで、断言した。その口からこぼれる言葉が、一音、一音、遠い浜へ駆けていく。たてがみが流れる。大陸から輸送した陶器のかけらが出るという話題なら珍しくない。事実なのだ。けれど、馬の歯のことは、はじめて聞いた。それから、とくに拾いたいわけではないなと気づく。拾えなくてもいい。ただ、その内容そのものが、はじめて教えられたことだけが帯びるぼんやりとした明るさの中にあって、心ひかれた。
 拾えなくていいと思いながら、馬かどうか、時間が経っても気になる。その人とは、本題についてのやりとりで手いっぱいで、馬の歯のことを改めて訊く機会はない。脇へ置いたまま、いつまでも、幻の馬は脇に繋いだままで、別の対話が積み重なっていく。馬なのか、馬だったのか、確かめることはできない。
 ある日、吉原幸子の詩集『オンディーヌ』(思潮社、一九七二年)を読んでいた。これまで、吉原幸子のよい読者であったことはないけれど、必要があって手に取った。愛、罪、傷など、この詩人の作品について語られるときには必ず出てくる単語が、結局はすべてを表しているように思いながら読み進めるうち、あるページで手がとまった。「虹」という詩。その詩は、次のようにはじまる。

 どうしたことか、雨のあとの
 立てかけたやうな原っぱの斜面に
 ぶたが一匹 草をたべてゐる
 電車の速さですぐに遠ざかった
(うしでもやぎでもうさぎでもなく)
 あれは たしかにぶただったらうか

 なんとなく笑いを誘う。続きを読んでいくと「こころのない人間/抱擁のない愛――」という言葉が出てきて、作者らしさを感じさせる。周囲に配置された言葉も、その重さのなかでびっしりと凍るのだけれど、それでも、第一連には紛れもなく可笑しみがあって、この六行だけでも繰り返し読みたい気持ちになる。あれは、なんだったのだろう。そんなふうに首を傾げて脳裡の残像をなぞる瞬間は、日常のなかにいくつも生まれる。多くのことは曖昧なまま消えていく。足元を照らす明確さは、いつまでも仮のものなのだ。そして、だからこそ、輪郭の曖昧な物事に輪郭を与えようと一歩踏み出すことからは、光がこぼれる。(ウ)その一歩は消えていく光だ。「虹」という詩の終わりの部分を引用しよう。
 
 いま わたしの前に
一枚のまぶしい絵があって
どこかに 大きな間違ひがあることは
わかっているのに
それがどこなのか どうしてもわからない

 消えろ 虹
 
 言葉の上に、苛立ちが流れる。わかることとわからないことのあいだで、途方に暮れるすがたを刻む。鮮度の高い苛立ちがこの詩にはあり、それに触れれば、どきりとさせられる。わからないこと、確かめられないことで埋もれている日々に掛かる虹はどんなだろう。それさえも作者にとっては希望ではない。消えろ、と宣告するのだから。
 拾われる馬の歯。それが本当に馬の歯なら、いつ、だれに飼われていたものだろう。どんな毛の色だったか。人を乗せていただろうか。あるいは荷物を運んだのだろうか。わかることはなにもない。その暗がりのなかで、ただひとつ明らかなことは、これはなんだろうという疑問形がそこにはあるということだ。問いだけは確かにあるのだ。
 問いによって、あらゆるものに近づくことができる。だから、問いとは弱さかもしれないけれど、同時に、もっとも遠くへ届く光なのだろう。「馬の歯を拾えるんです」。この言葉を思い出すと、蹄の音の化石が軽快に宙を駆けまわる。遠くへ行かれそうな気がしてくる。松ぼっくり。馬の歯、(エ)掌にのせて、文字のないそんな詩を読む人もいる。見えない文字がゆっくりと流れていく。
                            (蜂飼耳「馬の歯」)

設問
(一)「日常のなかに、ずぶりと差しこまれる」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】傍線部アの直前に「初対面の人と向かい合う時間は」とあり、傍線部アは初対面という非日常が日常のなかに差しこまれると読める。あとは「ずぶりと差しこまれる」を言い換えよう。後に続く理系の人との対話は愉しいものなのだから、「ずぶりと差しこまれる」はいい意味である。
【解答例】退屈な日常生活の中で、他者の話を聞けることは印象深く楽しみであるということ。
(二)「風が荒々しい手つきでめくれば、新たなページが開かれて、見知らぬ言葉が落ちている」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】直前の「台風の後には、こんな大きな松ぼっくりが拾えるんです」の言い換えであり、「風が荒々しい手つきでめくれば」は台風のことであり、「見知らぬ言葉」は松ぼっくりのことです。初対面の人との対話と植物園が同じと述べているのだから、初対面の人との対話を、日常のなかの新発見へと一般化している文といえる。実際に前々段落の後半に「自分には思いもよらない事柄を、気に掛けて生きている人がいると知ることは、知らない本のページをめくる瞬間と似ている」と記されている。
【解答例】他者との対話と同様、日常生活の中での非日常的な出来事は、わたしたちに新たな発見をもたらす。
(三)「その一歩は消えていく光だ」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】傍線部の直前に「輪郭の曖昧な物事に輪郭を与えようと一歩踏み出すこと」とあり、さらに輪郭を与えるについては「あれは、なんだったのだろう。そんなふうに首を傾げて脳裡の残像をなぞる」とある。
【解答例】明らかだと思っていたものは実は明らかではないと知ることが、新しいことを知る一歩となるということ。
(四)「掌にのせて、文字のないそんな詩を読む人もいる」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】傍線部のある段落の最初に「問いによって、あらゆるものに近づくことができる」とある。世界に対して問いかけることを詩になぞらえているよう。そして問いかけることで真理に近づけると考えている。さらに前段落の最後に「問いだけは確かにある」とある。まるでデカルトの「我思うゆえに、我あり」である。問うことで、自分の生を確認できるという意味をもたせているだろう。
【解答例】わたしたちは問いかけることで世界の真理に近づくことができ、また自らの生を実感できる。

2014年東大前期・国語第1問【解答】

第一問
 次の文章は、ある精神分析家が自身の仕事と落語とを比較して述べたものである。

 いざ仕事をしているときの落語家と分析家の共通するものは、まず圧倒的な孤独である。落語家は金を払って「楽しませもらおう」とわざわざやってきた客に対して、たった一人で対峙する。多くの出演者の出る寄席の場合はまだいいが、独演会になるとそれはきわだつ。他のパフォーミングアート、たとえば演劇であれば、うまくいかなくても、共演者や演出家や劇作家や舞台監督や装置や音響のせいにできるかもしれない。落語家には共演者もいないし、みんな同じ古典の根多を話しているので作家のせいにもできず、演出家もいない。すべて自分で引き受けるしかない。しかも落語の場合、反応はほとんどその場の笑いでキャッチできる。残酷までに結果が演者自身にはねかえってくる。受ける落語家と受けない落語ははっきりしている。その結果に孤独に向かい続けて、ともかくも根多を話し切るしかない。
 分析家も毎日自分を訪れる患者の期待にひとりで対するしかない。そこには誰もおらず、患者と分析家だけである。私のオフィスもそうだが、たいてい受付も秘書もおらず、まったく二人きりである。そこで自分の人生の本質的な改善を目指して週何回も金を払って訪れる患者と向き合うのである。分析料金はあまり安くない。普通の医者が一日数十人相手にできるのに対して、七、八人しか会えないので、一人の患者からある程度いただかないわけにはいかないからだが、たいてい高いと思われる。真っ当な鮨屋が最初は高いと思えることと似ている。そういう料金を払っているわけであるから、患者たちは普通もしくは普通以上にaカセいでいる。社会では一人前かそれ以上に機能しているのだが、パーソナルな人生に深い苦悩や不毛や空虚を抱えている人たちである。こういう人たちに子どもだましは通用しない。単なるbナグサめや励ましはかえって事態をこじらす。そうしたなかで、分析家はひとりきりで患者と向き合うのである。何の成果ももたらさないセッションもすくなくない。それでもそこに五十分座り続けるしかない。
 多くの観衆の前でたくさんの期待の視線にさらされる落語家の孤独。たったひとりの患者の前でその人生を賭けた期待にさらされる。分析家の孤独。どちらがたいへんかはわからない。いずれにせよ、彼らは自分をゆさぶるほど大きなものの前でたったひとりで事態に向き合い、そこを生き残り、なお何らかの成果を生み出すことが要求されている。それに失敗することは、自分の人生が微妙に、しかし確実にcオビヤかされることを意味する。客が来なくなる。患者が来なくなる。
 おそらく(アこのこころを凍らせるような孤独のなかで満足な仕事ができるためには、ある文化を内在化して、それに内側からしっかりと抱えられる必要がある。濃密な長期間の修業、パーソナルでdジョウショ的なものを巻き込んでの修業の過程は、それに役立っているだろう。落語家の分析も文化と伝統に抱かれて仕事をする。しかし、そうした内側の文化がそのままで適用することは、落語でも精神分析でもありえない。ただ根多を覚えたとおりにやっても落語にはならないし、理論の教えるとおりに解釈をしても精神分析にはならない。観客と患者という他者を相手にしているからだ。
 演劇などのパフォーミングアートにはすべて、何かを演じようとする自分と見る観客を喜ばせようとする自分の分裂が存在する。それは「演じている自分」とそれを「見せる自分」の分裂であり、世阿弥が「離見の見」として概念化したものである。落語、特に古典落語においては、習い覚えた根多の様式を踏まえて演りながら、たとえばこれから自分が発するくすぐりをいま目の前にいる観客の視点からみる作業を不断に繰り返す必要がある。昨日大いに観客を笑わせたくすぐりが今日受けるとは限らない。彼はいったん今日の観客になって、演じる自分を見る必要がある。完全に異質な自分と自分との対話が必要なのである。
 しかも落語という話芸には、他のパフォーミングアートにはない、さらに異なった次元の分裂のeケイキがはらまれている。それは落語が直接話法の話芸であることによる。落語というものは講談のように話者の視点から語る語り物ではない。言ってみれば地の文がなく、基本的に会話だけで構成されている。端的に言って、落語はひとり芝居である。演者は根多のなかの人物に瞬間瞬間に同一化する。根多に登場する人物たちは、おたがいにぼけたり、つっこんだり、だましたり、ひっかけたりし合っている。そうしたことが成立するには、おたがいがおたがいの意図を知らない複数の他者としてその人物たちがそこに現れなければならない。落語が生き生きと観客に体験されるためには、この他者性を演者が徹底的に維持することが必要である。(イ)落語家の自己はたがいに他者性を帯びた何人もの他者たちによって占められ、分裂する。私の見るところ、優れた落語家のパフォーマンスには、この他者性の維持による生きた対話の運動の心地よさが不可欠である。それはある種のリアリティを私たちに供給し、そのリアリティの手ごたえの背景でくすぐりやギャグがきまるのである。
 おそらく落語という話芸のユニークさは、こうした分裂のあり方にある。もっと言えば、そうした分裂を楽しんで演じている落語家を見る楽しみが、落語というものを観る喜びの中核にあるのだと思う。そして、人間が本質的に分裂していることこそ、精神分析の基本的想定である。意識と無意識でもいい、自我と超自我とエスでもいい、精神病部分と非精神病部分でもいい、本当の自己と偽りの自己でもいい、自己のなかに自律的に作動する複数の自己があって、それらの対話と交流のなかに(ウ)ひとまとまりの「私」というある種の錯覚が生成される。それが精神分析の基本的な人間理解のひとつである。落語を観る観客はそうした自分自身の本来的な分裂を、生き生きとした形で外から眺めて楽しむことができるのである。分裂しながらも、ひとりの落語家として生きている自分を見ることに、何か希望のようなものを体験するのである。
 (エ)精神分析家の仕事も実は分裂に彩られている。分析家が患者の一部分になることを通じて患者を理解することを前に述べた。たとえば、こころのなかに激しく自分を迫害する誰かとそれにおびえてなすすべもない無力な自分という世界をもっている患者は、分析家に期待しながらも、迫害されることにおびえて、分析家を遠ざけ絶えず疑惑の目を向け拒絶的になる。分析家はやがてそのような患者を疎ましく感じ、苛立ち、ついに患者に微妙につらく当たるようになる。こうした過程を通して分析家はまさに患者のこころのなかの迫害者になってしまう。さらに別のことも起きる。分析家は何を言っても患者にはねかえされ、どうしようもないと感じ、なすすべもない無力感を味わう。それは患者のこころのなかの無力な自己になってしまったということである。こうして患者のこころの世界が精神分析状況のなかに具体的に姿を現し、分析家は患者の自己の複数の部分に同時になってしまい、その自己は分裂する。
 もちろん、そうして自分でないものになってしまうだけでは、精神分析の仕事はできない。分析家はいつかは、分析家自身の視点から事態を眺め、そうした患者の世界を理解することができなければならない。そうした理解の結果、分析家は何かを伝える。そうして伝えられる患者理解の言葉、物語、すなわち解釈というものに患者は癒される部分があるが、おそらくそれだけではない。分裂から一瞬立ち直って自分を別の視点からみることができる(オ)生きた人間としての分析家自身のあり方こそが、患者に希望を与えてもいるのだろう。自分はこころのなかの誰かにただ無自覚にふりまわされ、突き動かされていなくてもいいのかもしれない。ひとりのパーソナルな欲望と思考をもつひとりの人間、自律的な存在でありうるかもしれないのだ。
                  (藤山直樹『落語の国の精神分析』)
〔注〕
○根多――「種」を逆さ読みにした語。
○くすぐり――本筋と直接関係なく挿入される諧謔。
○自我と超自我とエス―――フロイト(Sigmund Freud 一八五六~一九三五)によって精神分析に導入された、自己に関する概念。

設問
(一)「このこころを凍らせるような孤独」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】「この…孤独」と前段落で述べられている孤独の内容を受けているのだから、その内容をまとめよう。キーワードは「期待の視線にさらされる」であり、「たったひとりで…向き合い」であり、「成果を生み出すことが要求されている」であり、「失敗」である。
【解答例】ひとり客と向き合い、その期待に応えるという責任をひとりで背負うということ。
(二)「落語家の自己はたがいに他者性を帯びた何人もの他者たちによって占められ、分裂する」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】傍線部ですでに「落語家の自己は…何人もの他者たちによって占められ」と述べられており、本文を読んでいないものにも通じるように、自分の言葉で説明するといい。なぜ多くの他者が落語家にあらわれるのか、その理由は段落の前半に「それは落語が直接話法の話芸であることによる」とある。その理由を含めてまとめるといい。
【解答例】落語は直接話法であり、落語家は登場人物になりきりながら何役もこなすということ。
(三)「ひとまとまりの「私」というある種の錯覚」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】この段落の前半にある「人間が本質的に分裂していることこそ、精神分析の基本的想定である」と段落最後の「分裂しながらも、ひとりの落語家として生きている自分」に注目しよう。「ひとまとまりの『私』」とは自己同一性のことであり、筆者はそれを「錯覚」と述べている。しかしこの段落を読めば、筆者が分裂を前向きにとらえていることが分かる。
【解答例】自己同一性とは、多くの側面を矛盾しながらも相補的に含んだ総合体として私であるということ。
(四)「精神分析家の仕事も実は分裂に彩られている」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】これは段落の最初の文であり、この段落で述べられている精神分析家の仕事の内容をまとめるといい。そのとき参考になるのが、前段落で述べられている落語家の仕事に関する記述である。ただ落語家との違いにも気づく必要がある。落語家は落語の中で複数の役割を演じているが、精神分析家は患者に応じて変わるということである。
【解答例】患者の表出する性格に応じて、精神分析家も幾通りもの役割を演じるということ。
(五)「生きた人間としての分析家自身のあり方こそが、患者に希望を与えてもいる」(傍線部オ)とあるが、なぜそういえるのか、落語家との共通性にふれながら一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ(句読点も一字と数える)。
【解説】この傍線部は、課題文全体の内容をまとめる段落の中心となる文であり、まず全体の内容をまとめる。そして、この段落ならではの内容にも注目しよう。それが傍線部直前にある「分裂から一瞬立ち直って自分を別の視点からみることができる」である。しかも傍線部に「希望」とあるのだから、分裂を前向きに捉えればいいとわかる。まさに分裂とは自分を別の視点から見るということである。さらに落語家との共通性に注目すれば、落語が分裂しながらも一つの物語としてまとまっているように、人間もひとりの個人としてまとまっていると考えられよう。
【解答例】患者が精神分析家との交流を通して、人間は誰でも多くの側面を有しているものだと認識できれば、落語が多くの登場人物が登場するにもかかわらず一つの物語にまとまっているように、人間も相互に矛盾する側を総合して個人として実存していると理解できるから。
(六)傍線部a、b、c、d、eのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
【解答例】
aカセ(いで)稼いで
bナグサ(め)慰め
cオビヤ(かされる)脅かされる
dジョウショ 情緒
eケイキ 契機

2013年東大前期・国語第4問「見ること」

 知覚は、知覚自身を超えて行こうとする一種の努力である。この努力は、まったく生活上のものとして為されている。実際、私は今自分が見ているこの壺が、ただ網膜に映っているだけのものだとは決して考えない。私からは見えない側にある、この壺の張りも丸みも色さえも、私は見ようとしているし、実際見ていると言ってよい。見えるものを見るとは、もともとそうした努力なのだ。なるほど(ア)その努力には、いろいろな記憶や一般観念がいつもしきりと援助を送ってくれるから、人は一体どこで見ることが終わり、どこから予測や思考が始まるのか、はっきりとは言うことができなくなっている。けれども、見ることが、純粋な網膜上の過程で終わり、後には純粋な知性の解釈が付け加わるだけだと思うのは、行き過ぎた主知主義である。
 主知主義の哲学者たちは、精神による知覚の解釈こそ重要なのだと主張した。知覚の誤謬を救うものは悟性しかないと。日本で一頃はやりの映画批評は、視えるものの表層に踏みとどまることこそが重要だ、映画を視る眼に必要な態度だと主張していた。これはある点までもっともな言い分だが、これも行き過ぎれば、主知主義のシニカルな裏返しでしかなくなるだろう。視えるとは何なのか。たとえば、モネのような画家はこの問題を突き詰めて、恐ろしく遠くにまで行った。光がなければ物が視えないと人は言うが、視えているものは物ではない、刻々に変化する光の分散そのものである。あとは頭脳の操作に過ぎないではないか。むろん、こういうモネの懐疑主義と、彼の手が描いた積み藁の美しさとはまた別ものだろう。彼は視ただけではない、視えていると信じたものを描いたのだ。当然ながら、描くことは視ることを大きく超えていく、あるいは超えていこうとする大きな努力となるほかない。
 メルロ=ポンティの知覚の現象学は、視えることが〈意味〉に向かい続ける身体の志向性と切り離しては決して成り立たないことを巧みに語っていた。W・ジェームズやJ・ギブソンの心理学にあるものも結局は同じ考え方だと言ってよい。私は自分が登っている丘の向こうに見える一軒家が、一枚の板のように立っているとは思いはしない。家の正面はわずかに見えてくる側面と見えないあちら側との連続的な係わりによってこそ正面でありうる。歩きながら、私はそういう全体を想像したり知的に構成したりするのではない、丘を見上げながら坂道を行く私の身体の上に、家はそうした全体として否応なくその奥行きを、〈意味〉を顕わしてくるのである。(イ)家を見上げることは、歩いている私の身体がこの坂道を延びていき、家の表面を包んでその内側を作り出す流体のようになることである。流体とは、私の身体がこの家に対して、持つ止めどない行動可能性にほかならない。
 十九世紀後半から人類史に登場してきた写真、そして映画は、見ることについての長い人類の経験に極めて深い動揺を与えた。むろん、この事実に敏感に応じた者も、そうではなかった者もいる。けれども、動揺は計り知れず深かったと言えるのだ。機械が物を見る、それは一体どういうことなのか。肉も神経系もなく、行動も努力もしない機械が物を見る時、何が起こってくるのか。これは単なるレトリックではない。実際、リュミエール兄弟たちが開発した感光版「エチケット・ブルー」によって驚くべきスナップ写真が生まれてきた時、人はそれまで決して見たことのなかった世界の切断面、たとえばバケツから飛び出して無数の形に光る水をみたのである。それは身体が近くするあの液体だとか固体だとかではない、何かもっと別なもの、しかもこの世界の内に確実に在るものだった。
 いや、スナップ写真でなくともよい。写真機が一秒の何千分の一というようなシャッタースピードを持つに至れば、肖像写真は静止した人の顔を決して私たちが見るようには顕わさない。写真機で撮ったあらゆる顔は、どこかしら妙なものである。職業的な写真家やモデルは、そこのところをよく心得ていて、その妙なところを消す技術を持っている。けれども、それはうわべのごまかしに過ぎない。顔は刻々に動き、変化している。変化は無数のニュアンスを持ち、ニュアンスのニュアンスを持ち、静止の瞬間など一切ない。私たちの日常の視覚は、相対的なさまざまの静止を持ち込む。それが、生活の要求だから。従って、私たちのしかじかの身体が、その顔に向かって働きかけるのに必要な分だけの静止がそこにはある。写真という知覚機械が示す切断はそんなものではない。この切断は何のためでもなく為され、しかもそれは(ウ)私たちの視覚が世界に挿し込む静止と較べれば桁外れの速さで為される。
 写真のこの非中枢的な切断は、私たちに何を見させるだろうか。持続し、限りなく変化しているこの世界の、言わば変化のニュアンスそれ自体を引きずり出し、一点に凝結させ、見させる。おそらく、そう言ってよい。私たちの肉眼は、こんな一点を見たことはない、しかし、持続におけるそのニュアンスは経験している。生活上の意識がそれを次々と闇に葬るだけだ。写真は無意識の闇にあったそのニュアンスを、ただ一点に凝結させ、実に単純な視覚の事実にしてしまう。(エ)これは、恐ろしい事実である
                    (前田英樹『深さ、記号』)

○モネ――Claude Monet(一八四〇~一九二六)フランスの画家。
○メルロ=ポンティ――Maurice Merleau-Ponty(一九〇八~一九六
 一)フランスの哲学者。
○W・ジェームズ――William James(一八四二~一九一〇)アメリカの
 哲学者・心理学者
○J・ギブソン――James Gibson(一九〇四~一九七九)アメリカの
 心理学者
○リュミエール兄弟――オーギュスト・リュミエールAuguste Lumiere
 (一八六二~一九五四)とルイ・リュミエール(一八六四~一九四
 八)の兄弟。フランスにおける映画の発明者。
○エチケット・ブルー――etiquegtte bleue(フランス語)「青色のラベ
 ル」意味。

設問
(一)「その努力には、いろいろな記憶や一般観念がいつもしきりと援
 助を送ってくれる」(傍線部ア)とは、どういうことか、説明せよ。
(二)「家を見上げることは、歩いている私の身体がこの坂道を延びて
 いき、家の表面を包んでその内側を作り出す流体のようになることで
 ある」(傍線部イ)とあるが、家を見上げるときに私の意識の中でどの
 ようなことが起きているというのか、説明せよ。
(三)「私たちの視覚が世界に挿し込む静止」(傍線部ウ)とはどういう
 ことか、説明せよ。
(四)「これは、恐ろしい事実である」(傍線部エ)とあるが、なぜこの前
 の文にいう「視覚の事実」が「恐ろしい事実」だと感じられるのか、説
 明せよ。

【解き方】
(一)傍線部アのある段落は「知覚は、知覚自身を超えて行こうとする一種の努力である」で始まる。そして傍線部アの直前にも「見えるものを見るとは、もともとそうした努力なのだ」とある。それに続けて「なるほど」傍線部ア、「けれども」筆者の主張となる。筆者の主張は「見ることが、純粋な網膜上の過程で終わり、後には純粋な知性の解釈が付け加わるだけだと思うのは、行き過ぎた主知主義である」である。

(二)傍線部イのある段落の最初の文は「メルロ=ポンティの知覚の現象学は、視えることが〈意味〉に向かい続ける身体の志向性と切り離しては決して成り立たないことを巧みに語っていた」である。知覚と行動の関係を述べている。そして傍線部イの直前で「歩きながら、私はそういう全体を想像したり知的に構成したりするのではない、丘を見上げながら坂道を行く私の身体の上に、家はそうした全体として否応なくその奥行きを、〈意味〉を顕わしてくるのである」と述べている。傍線部イは接続詞なしで続いているので、この文の言いかえといえる。

(三)筆者は傍線部のある段落で、写真が示す切断は、傍線部ウ「私たちの視覚が世界に挿し込む静止」と較べれば桁外れの速さと述べている。そのため傍線部ウは、私たちの日常の視覚である。そこで傍線部の少し前にある私たちの日常の視覚は、相対的なさまざまの静止を持ち込む。それが、生活の要求だから。従って、私たちのしかじかの身体が、その顔に向かって働きかけるのに必要な分だけの静止がそこにはある」を参考にしよう。

(四)傍線部エのある最終段落は、「写真のこの非中枢的な切断は、私たちに何を見させるだろうか」と問題提起したうえで、傍線部「これは、恐ろしい事実である」と結んでいる。そのため、この段落の内容をまとめればいい。写真は限りなく変化しているこの世界の変化のニュアンスを引きずり出して、一点に凝結する。私たちの肉眼は、それを見たことはないが、たしかにそのニュアンスを経験している。生活上の意識がそれを次々と闇に葬るだけだ。写真は無意識の闇にあったそのニュアンスを実に単純な視覚の事実にしてしまう。これをまとめよう。

【解答例】
(一)わたしたちが物事を認識するとき、目に映ったものだけではなく、経験で得た知識を導入しながら物事を見ている。

(二)わたしたちは行動のなかで物事を立体的に見て意味づけをし、行動の指針としている。

(三)私たちが日常生活の中で見ている中での一瞬は、わたしたちが必要とする大まかな印象である。

(四)写真は、私たちがたしかに経験しているが無意識のうちに捨てているものを、実に単純な仕方で提示するから。



『天文三年浅井備前守宿所饗応記』

『天文三年浅井備前守宿所饗応記』
浅井備前守(亮政)
御屋形様(京極高清)
御曹司様(高広)

「一族衆」
京極加賀守政数
加賀五郎(政数甥)
黒田四郎左衛門尉(宗清)
岩山民部少輔
高橋兵部少輔(清世)
碧憪斎

「奉行人」
大津若狭守(清忠)
山田越中守(清氏)

「国人衆」
熊谷下野守直房
多賀豊後守貞隆
河瀬九郎左衛門尉
河瀬新六
下河原宗兵衛尉

2013年東大前期・国語第1問「翻訳」

 詩人―作家が言おうとすること、いやむしろ正確に言えば、その書かれた文学作品が言おう、言い表そうと志向することは、それを告げる言い方、表し方、志向する仕方と切り離してはありえない。人々はよく、ある詩人―作家の作品は「しかじかの主張をしている」、「こういうメッセージを伝えている」、「彼の意見、考え、感情、思想はこうである」、と言うことがある。筆者も、ときに(長くならないよう、短縮し、簡潔に省略するためにせよ)それに近い言い方をしてしまう場合がある。しかし、実のところ、ある詩人―作家の書いた文学作品が告げようとしているなにか、とりあえず内容・概念的なものとみなされるなにか、言いかえると、その思想、考え、意見、感情などと思われているなにかは、それだけで切り離され、独立して自存していることはないのである。〈意味され、志向されている内容〉は、それを〈意味する仕方、志向する仕方〉の側面、表現形態の面、意味するかたちの側面と一体化して作用することによってしか存在しないし、コミュニケートされない。だから、〈意味されている内容・概念・イデー〉のみを抜き出して「これこそ詩人―作家の思想であり、告げられたメッセージである」ということはできないのだ。
 それゆえまた、詩人―作家のテクストを翻訳する者は、次のような姿勢を避けるべきだろう。つまり翻訳者が、むろん原文テクストの読解のために、いったんそのテクストの語り方の側面、意味するかたちの側面を経由して読み取れるのは当然なのであるが、しかしフォルム的側面はすぐに読み終えられ、通過されて、もうこの〈意味するかたちの側面〉を気づかうことをやめるという姿勢はとるべきではない。もっぱら自分が抜き出し、読み取ったと信じる意味内容・概念の側面に注意を集中してしまうという態度をとってはならない。そうやって自分が読み取った意味内容、つまり〈私〉へと伝達され、〈私〉によって了解された概念的中身・内容が、それだけで独立して、まさにこのテクストの〈言おう、語ろう〉としていることをなす(このテクストの志向であり、意味である)とみなしてはならないのである。
 翻訳者は、このようにして自分が読み取り、了解した概念的中身・内容が、それだけで独立して(もうそのフォルム的側面とは無関係に)、このテクストの告げる意味であり、志向であるとみなしてはならず、また、そういう意味や志向を自分の母語によって読みやすく言い換えればよいと考えてはならないだろう。
 自分が抜き出し、読み取った中身・内容を、自らの母語によって適切に言い換えればaシュビよく翻訳できると考え、そう実践することは、しばしば読みやすく、理解しやすい翻訳作品を生み出すかもしれない。ただし、そこには、大きな危うさも内包されているのだ。原文のテクストがその独特な語り口、言い方、表現の仕方によって、きわめて微妙なやり方で告げようとしているなにかを十分に気づかうことから眼をそらせてしまうおそれがあるだろう。
 少し極端に言えば、たとえばある翻訳者が「これがランボーの詩の日本語訳である」として読者に提示する詩が、ランボーのテクストの翻訳作品であるというよりも、はるかに翻訳者による日本語作品であるということもありえるのだ。
 それを避けるためには、やはり翻訳者はできる限り原文テクストを bチクゴ的にたどること、〈字句どおりに〉翻訳する可能性を追求するべきだろう。原文の〈意味する仕方・様式・かたち〉の側面、表現形態の面、つまり志向する仕方の面に注意を凝らし、それにあたうかぎり忠実であろうとするのである。
 その点を踏まえて、もう一度考えてみよう。ランボーが《Tu voles selon……》(……のままに飛んでいく)と書いたことのうちには、つまりこういう語順、構文、語法として〈意味する作用や働き〉を行なおうとし、なにかを言い表そうと志向したこと、それをコミュニケートしようとしたことのうちには、なにかしら特有な、独特のもの、密かなものが含まれている。翻訳者は、この特有な独特さ、なにか密かなものを絶えず気づかうべきであろう。なぜならそこにはランボーという書き手の(というよりも、そうやって書かれた、このテクストの)独特さ、特異な単独性が込められているからだ。すなわち、通常ひとが〈個性〉と呼ぶもの、芸術家や文学者の〈天分〉とみなすものが宿っているからである。
 こうして翻訳者は、相容れない、両立不可能な、とも思える、二つの要請に同時に応えなければならないだろう。その一つは、原文が意味しようとするもの、言おうとし、志向し、コミュニケートしようとするものをよく読み取り、それをできるだけこなれた、達意の日本語にするという課題・任務であり、もう一つは、そのためにも、原文の〈かたち〉の面、すなわち言葉づかい(その語法、シンタックス、用語法、比喩法など)をあたう限り尊重するという課題・任務である。そういう課題・任務に応えるために、翻訳者は、見たとおり、原文=原語と母語との関わり方を徹底的に考えていく。翻訳者は、原文の〈意味する仕方・様式・かたち〉の側面、表現形態の面、つまり志向する仕方の面を注意深く読み解き、それを自国語の分脈のなかに取り込もうとする。しかし、フランス語における志向する仕方は、日本語における志向する仕方と一致することはほとんどなく、むしろしばしば食い違い、齟齬をきたし、cマサツを起こす。それゆえ翻訳者は諸々の食い違う志向する仕方を必死になって和合させ、調和させようと努めるのだ。あるやり方で自国語(自らの母語)の枠組みや規範を破り、変えるところまで進みながら、ハーモニーを生み出そうとするのである。
 こうして翻訳者は、絶えず原語と母語とを対話させることになる。この対話は、おそらく無限に続く対話、終わりなき対話であろう。というのも諸々の食い違う志向の仕方が和合し、調和するということは、来るべきものとして約束されることはあっても、けっして到達されることや実現されることはないからだ。こうした無限の対話のうちに、まさしく翻訳の喜びと苦悩が表裏一体となって存しているだろう。
 もしかしたら、翻訳という対話は、ある新しい言葉づかい、新しい文体や書き方へと開かれているかもしれない。だからある意味で原文=原作に新たな生命を吹き込み、成長をdウナガし、生き延びさせるかもしれない。翻訳という試み、原文と(翻訳者の)母語との果てしのない対話は、ことによると新しい言葉の在りようへとつながっているかもしれない。そう約束されているかもしれない。こういう約束の地平こそ、ベンヤミンがeシサした翻訳者の使命を継承するものであろう。
 そしてこのことは、もっと大きなパースペクティブにおいて見ると、諸々の言葉の複合性を引き受けるということ、他者(他なる言語・文化、異なる宗教・社会・慣習・習俗など)を受け止め、よく理解し、相互に認め合っていかなければならないということ、そのためには必然的になんらかの「翻訳」の必然性を受け入れ、その可能性を探り、拡げ、掘り下げていくべきであるということに結ばれているだろう。翻訳は諸々の言語・文化・宗教・慣習の複数性、その違いや差異に細心の注意を払いながら、自らの母語(いわゆる自国の文化・慣習)と他なる言語(異邦の文化・慣習)とを関係させること、対話させ、競い合わせることである。そうだとすれば、翻訳という営為は、諸々の言語・文化の差異のあいだを媒介し、可能なかぎり横断していく営みであると言えるのではないだろうか。

           (湯浅博雄「ランボーの詩の翻訳について」)

〔注〕○フォルム――forme(フランス語)、form(英語)に同じ。
   ○ランボー――Arthur Rimbaud(1854~1891)フランスの詩人
   ○シンタックス――syntax 構文
   ○ベンヤミン――Walter Benjamin(1892~1940)ドイツの批評家


設問
(一)「もっぱら自分が抜き出し、読み取ったと信じる意味内容・概念の側面に注意を集中してしまうという態度を取ってはならない」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(二)「はるかに翻訳者による日本語作品である」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
(三)「原語と母語とを対話させる」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
(四)「翻訳という対話は、ある新しい言葉づかい、新しい文体や書き方へと開かれている」(傍線部エ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
(五)「翻訳という営為は、諸々の言語・文化の差異のあいだを媒介し、可能なかぎり横断していく営みである」(傍線部オ)とあるが、なぜそういえるのか、本文全体の趣旨を踏まえた上で、一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。
(六)傍線部a、b、c、d、eのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
aシュビ bチクゴ cマサツ dウナガ(し) eシサ

【解説】
(一)傍線部アでは、「意味内容・概念の側面」に注意を集中してはならないと述べているから、「内容」と反対の意味のものを探そう。傍線部の次の文は「…のである」で終っているように言い換えであり、そこでも自分が読み取った意味内容だけが独立して、作品の志向・意味とみなしてはならないと述べている。では反対の言葉は何であろう。傍線部の直前の文で、〈意味するかたちの側面〉を気づかうことをやめるという姿勢はとるべきではないと述べている。そう、「かたち」である。内容に対立する言葉は形式であり、筆者は表現形式に注目する必要があると述べている。そもそも文頭に「詩人―作家が言おうとすること、その書かれた文学作品が言おう、言い表そうと志向することは、それを告げる言い方、表し方、志向する仕方と切り離してはありえない」と述べている。傍線部のある段落の最初に「それゆえ」とあることに注目して、前段落を見ないといけない。そうすると前段落の最後の文は「だから」で始まる。文章全体の構成を見れば、簡単な表現が見つかる。
(二)これは前問を受けて、異なる言語に翻訳するときに、原作品の表現形式が一方的に壊されてしまうことを答える問題である。傍線部イでは、翻訳された文学作品は、翻訳作品であるというよりも、翻訳者による日本語作品ということもありえると述べている。この文は「少し極端に言えば」で始まるのだから、前の段落の最後の文の言い換えである。そこに注目すると、原文の独特な語り口、言い方、表現の仕方によって告げようとしているなにかから眼をそらせるとある。やはり原文の形式から眼をそらすことになると述べている。
(三)これは前問を受けて、表現形式を多言語で表現する難しさを答える問題である。傍線部ウ「絶えず原語と母語とを対話させる」は、「こうして」で始まる文の中にあるのだから、やはり前段落のその内容が説明されている。原文の言語を翻訳しようとすると、二つの言語の志向性の違いから翻訳がぴったりと合うことはほとんどなく、翻訳者は二つの言語を和合・調和させるのに努力するという内容だ。もちろん、この対話は、傍線部の後の文にも延べられているように、「無限の対話」になるが、そこに翻訳の苦労と喜びの両方がある。
(四)これは前問を受けて、文学作品の多言語での翻訳では、従来の表現方法ではうまく表現できず工夫が必要であることを答える問題である。傍線部エでは、翻訳により、新しい言葉づかいや新しい文体が生まれるかもしれないと述べている。勘のいい受験生なら、問題を読んですぐに答えられるだろう。前の段落で、言語と母語の無限の対話のうちに、まさしく翻訳の喜びと苦悩が表裏一体となって存在していると述べているが、これは両言語の文法の違いから、原語の表現をそのまま母語に移すことができないからである。しかしその苦しみは報われないものではなく、傍線部の後の文で述べられているように、翻訳という試みは、新しい言葉の有様へとつながることが約束されている。このことをまとめよう。
(五)これまでの問題を受けて、全文をまとめる問題である。傍線部のある段落では、翻訳は、単に言語を置き換えるというだけではなく、他文化を理解するということであると述べられている。翻訳は多くの言語・文化・宗教・慣習の多様性、差異に十分に注意を払いながら、自らの母語と原文の言語とを関係させることである。このことをまとめよう。そこに、新しい表現の開発は、新しい文化の創造と書き加えるといい。
(六)東大を含め大学入試では、難解な漢字は問われないので、文章を読みながら漢字を覚えればいい。対策が必要な場合は、漢字検定対策ではなく、大学入試対策のものを1冊仕上げよう。

【解答例】
(一)文学作品は内容と表現形式は一体であり、内容だけを取り出しては作品の一面を見ているにすぎないからである。
(二)翻訳作品では、翻訳者の表現形式で書かれているので、原文の独特の表現形式と一体となった内容が読者に伝わらない。
(三)翻訳は文学作品を通して二つの言語を比較し、両者の表現方法の違いを認めつつ、適切な翻訳を模索するということ。
(四)原語の表現をそのまま母語に移せないため、母語には従来なかった表現を開発する必要も出てくるということ。
(五)翻訳は、単に言語を置き換えることではなく、他文化を理解することでもある。それは、言語には基盤となる社会・文化があるからである。その差異に注意を払い翻訳することで、原書に新しい評価、そして母語には新しい表現を生みだすことになる。
(六)a 首尾  b 逐語  c 摩擦  d 促(し) e 示唆

細川幽斎の系譜-佐々木大原流細川氏

熊本藩主細川氏の藩祖細川藤孝(幽斎)の養父が、実は佐々木大原氏出身の細川政誠(伊豆守・治部少輔)の孫刑部少輔晴広(又次郎)との有力な学説がある。これは山田康弘「細川幽斎の養父について」(『日本歴史』2009年3月号、96-104頁)で発表したものである。

『寛永諸家系図伝』編集のとき子細川忠興の証言によれば、幽斎は三淵氏の出身で、細川伊豆か細川刑部少輔に養われて室町将軍御供衆になったという。また忠興の妹浄勝院(吉田兼治後室)が老女「しゆゑい」に尋ねた際の「しゆゑい」覚書によれば、細川伊豆は刑部少輔の父で、幽斎の祖父に当たるといいます。しかし寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜では、刑部少輔は和泉守護細川元常とされ、現在も通説になっている。

ところが竜安寺文書に十月四日付竜安寺宛藤孝書状と天文六年十二月十三日付龍安寺宛刑部少輔晴広書状がある。藤孝の花押は一般的に知られたものと異なるが、初期の花押と考えられる。この刑部少輔晴広が細川晴広であり、その父は室町幕府内談衆の細川伊豆守高久である。

『鹿苑日録』天文十年(1541)正月十二日条に「細川豆州□□千代殿来、挙盃、今日始公府江出仕云々」と細川伊豆守の孫熊千代が幕府に出仕した記事があり、幽斎の幼名が熊千代と分かるが、幽斎の子忠興・孫忠隆も幼名は熊千代であり、幽斎の細川氏はやはり佐々木大原流の細川氏であろう。

また、設楽薫「足利義晴期における内談衆の人的構成に関する考察」(『遥かなる中世』19号、9-12頁、2001年)によれば、政誠は足利義政の寵臣で、淡路守護細川氏の養子になり細川氏を名乗っているという。

細川政誠(伊豆守・治部少輔)は佐々木大原氏出身で、八代将軍足利義政の命で淡路守護細川氏の養子として細川氏を名乗り、子高久、孫晴広と続いた。この晴広が、細川藤孝(幽斎)の養父です。

天文年間(1532-55)に記された故実書「御対面次第」に、「御部屋衆之事、(中略)又佐々木大原息にて候つるを、細川淡路守名字をえて、喝食よりめしつかはる、後には淡路治部少輔と号候」と記されるように、もともと佐々木大原氏であり、武家故実雑書九「条々聞書」では、細川治部少輔に「寿文房と云御喝食」と注記されている。

政誠が加えられた御部屋衆とは、将軍が身近に置きたい人物を、家柄と関係なく引き上げて側近に任用したものであり、さらに「入名字」といって足利一門の名字を給付されると、殿中での席次や書札礼なども一門の扱いを受けた。

佐々木大原判官持綱が上様(日野富子)御供衆であったため、持綱の子も義政の目に留まったのだろう。

さらに政誠の子高久は、十二代将軍足利義晴が新設した内談衆に加えられた。内談衆は、天文五年(1536)に設置された幕府の中枢機関で、将軍の政務決裁を支えるもので、近衛尚通の日記「後法成寺尚通公記」天文五年十月十八日条によれば、大館常興・晴光父子、朽木稙綱、細川高久、摂津元造、荒川氏隆、海老名高助、本郷光泰の八名がいた。

この内談衆細川高久の子が刑部少輔晴広であり、細川幽斎(藤孝)はこの佐々木大原流細川氏の養子になることで、将軍足利義輝・義昭に近侍したと考えられる。これが熊本藩主細川氏の家系である。

長山遠江守と佐々木馬淵氏【改訂版】

 和歌山県有田郡広川町広八幡宮所蔵佐々木系図によれば、紀伊竹中氏は佐々木氏の出自で、美濃竹中氏の子孫と伝えられている。美濃竹中氏といえば、羽柴秀吉の軍師竹中半兵衛重治が有名であり、遠江守重元―半兵衛重治―丹後守重門と続く。竹中遠江守が六角義治から援軍要請を受けて近江坂田郡に出兵するなど、近江・美濃国境を支配していた竹中氏は六角氏との関係が強い。
 東大史料編纂所所蔵『美濃国諸家系譜』第六巻所収の竹中系譜によれば、江戸期でも竹中氏の系譜は不明になっており、いくつかの説をとりあげている。①清和源氏源為義流で美濃恒富氏の子孫と伝えるが、途中が分からないという。②公家の子孫と伝え、清和源氏竹内家あるいは村上源氏梅谷家の出身とも伝えるが、系譜がないという。③長山遠江守頼基の子孫長江氏とも伝え、これには系譜がある。そこで『美濃国諸家系譜』では長江氏説を採る。
 ①源氏の子孫ということから、為義の女婿美濃恒富氏を連想したものだろう。②a竹内家説は竹中から竹内を連想したものであり、②b梅谷家説は半兵衛重治の祖父の源助重道が始め不破郡梅谷に住み、後に池田郡藤代に住んで竹中を名乗ったことから、不破郡梅谷出身を、村上源氏梅谷家出身と誤り伝えたものだろう。いずれも仮冒といえる。
 ③『美濃国諸家系譜』は、加賀江沼郡出身の山岸新左衛門(斎藤氏族)と頼基を混同して頼基を加賀出身としている。しかし『太平記』巻十九では山岸新左衛門と記され、また『太平記』巻三十二では頼基を長山遠江守としており、明らかに別人である。また長山遠江守頼基は、明智氏の祖とされる土岐伯耆九郎頼基(伯耆守頼貞子)とも混同される。しかし、明智十郎頼基は建武新政のもと讃岐守護となった子頼重(高松三郎頼重)とともに讃岐にあり、足利尊氏の挙兵のとき細川定禅に讃岐高松城を攻められて討死しており、別人である。しかも、長江遠江守の実名は、文和三年(1354)七月二十八日付足利尊氏寄進状(妙興寺文書『愛知県史資料編1』一四二二号)は妙興寺に尾張国中島・丹羽・葉栗等郡内散在田畠百十八町七段余を寄附するとの寄進状に「守護人土岐大膳大夫頼康・同代官頼煕執達」とあり、守護代長山遠江守の実名が「頼煕」と分かる。やはり明智頼基とは別人である。
 『美濃国諸家系譜』によれば、長江遠江守の満頼の長子頼慶が長江氏、次子源助頼重が岩手・竹中氏の祖だという。長江氏からは美濃守護代富島備中守高景が出ている。
 長江氏は美濃垂井宿の妙応寺所蔵長江系図によれば桓武平氏鎌倉流で、長江八郎師景の子秀景が美濃に移住し、その孫重景のとき妙応寺を建立したという。しかし同系図以外に長江氏の美濃移住を示す資料はない。『吾妻鏡』では八郎師景・八郎四郎景秀父子の鎌倉での活躍を確認できる。
 ところで沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、平安末期の「源行真申詞記」に登場する愛智家次の弟に長江権守家景がある。長江太郎義景により鎌倉平氏長江氏が成立したのとほぼ同時期であり、〈景〉の字を通字とする。平治の乱後の佐々木氏の東下と関係があるかもしれない。佐々木氏は鎌倉平氏の旧領のひとつ相模鎌倉郡長尾郷を領しており、鎌倉平氏を継承していた可能性はある。
 また続群書類従所収中原系図によれば、愛智郡に勢力をもった江州中原氏(中原真人)にも長江氏があり、江州中原氏薩摩太夫仲平が愛智郡甲良に入婿し、その子八郎成家が長江氏を称したのに始まる。長江八郎成家―家定―盛定と続き、盛定の長男に「某(孫太郎)」、次男に「明智」と記されている。愛智流長江権守家景とは養子関係にあったと考えられ、続群書類従本佐々木系図(巻百三十三)では、長江権守家景の猶子長江三郎家経の系譜は家経―秀家―忠家―家成―家定とあり、中原系図と成家(家成)―家定の個所が重なる。江州中原氏は「近江国御家人井口中原系図」(東大史料編纂所『諸氏家牒』皇孫上)によれば、天武天皇―舎人親王―船王―栄井王―豊前王―弘宗王―中原真人長谷と続く。ただし、『日本三代実録』貞観七年二月二日条では栄井王を舎人親王四世とする。そうであれば、船王と栄井王の間の一代が脱落していると考えられる。仁寿元年(851)九月紀に「従五位下弘宗王奏して、子男八人に其の王号を改め、姓を中原真人と賜らんと請ふ、之を許す」とある。皇孫中原真人長谷の名から、「長谷部」を諱にする崇峻天皇に系譜を仮託したと考えられる。豊前王・弘宗王らが国司のときに農民に訴えられたことを嫌ったのかもしれない。子孫は近江愛智・犬上両郡に勢力を張り、多賀社神職も勤めた。
 さらに続群書類従所収佐々木系図によれば、近江守護佐々木定綱の子五郎左衛門尉広定の子孫馬淵氏から長江氏が出ている。馬淵氏は佐々木惣領家六角氏の近江守護代を勤めたが、『尊卑分脈』によれば馬淵広定の次男定成(左衛門尉)は長江八郎入道の養子になり、その子に長江左衛門尉重定がいる。この長江八郎入道が鎌倉平氏か江州中原氏か特定は難しく、年代と『尊卑分脈』の記事では鎌倉平氏師景であり、また定成の実名から判断すれば中原流長江八郎成家である。盛の字は成の字の下に点「ゝ」を打つだけであり、混同されやすく、定成が中原氏系図に見える「盛定」である可能性はある。
 沙沙貴神社所蔵佐々木系図は、長江定成の末弟馬淵公綱(従五位下左衛門尉、近江守護代)の子三郎頼基に「西池田」「美濃守」と注記する。美濃国池田郡池田荘(西池田)を領したことを意味しよう。『尊卑分脈』紀氏系図によれば、紀維実から奉光まで七代が美濃池田郡郡司であり、奉光の子奉永が後鳥羽院武者所を勤めて池田武者所と称され、また鎌倉御家人にも列した。しかし鎌倉中期の奉忠以降、本貫地池田庄を離れて鷲田郷に移住した。馬淵氏が池田荘下司職あるいは地頭職を得たのだろう。中原系図に見える長江盛定の次子「明智」は、土岐明智頼兼の舅長山遠江守頼基(実名頼煕)と推測できる。こうして長山・明智・長江がつながる。
 馬淵頼基(頼煕)は沙沙貴神社本で西池田と注記されるが、これは揖斐川流域の西美濃池田郡であり、これに対して可児郡池田御厨(池田郷)を東池田という。頼基は揖斐川沿いに尾張に進出したと考えられる。岐阜県揖斐郡池田町本郷(池田荘本郷)の龍徳寺塔頭養徳院跡には池田恒利の戒名「養徳院心光宗伝禅定門」の五輪塔があるが、恒利は池田政秀の女婿であり、実は滝川貞勝の子で甲賀武士との関係が強い。甲賀武士の尾張進出と尾張守護代長山遠江守(頼煕)は関係があろう。さらに『尊卑分脈』では、佐々木導誉の庶兄太郎左衛門尉定信から始まる甲賀池田氏で、定信の子三郎左衛門尉貞高に「号宇津宮」と記している。これは美濃一宮南宮社家兼地頭宇都宮氏である可能性がある。佐々木氏は着々と西美濃に布石を打っている。また土岐持益の孫亀寿(持兼の遺児)に始まる甲賀池田氏もある。これらについて慎重に考察する必要があろう。
 頼基(頼煕)は近隣の揖斐土岐頼雄・西池田土岐頼忠と結んだことで、長山(長江)氏は飛躍した。頼基はそののち揖斐川の上流本巣郡に移り根尾長山を本拠として長山を称した。鈴木真年編新田族譜で堀口貞満女子に「長山遠江守頼基妻、遠山式部少輔光景母」と記されており、頼基は当初新田方であったことが分かる、これが池田荘を離れた理由だろう。根尾城は脇屋義助も立て籠もったことのある美濃南朝の拠点である。
 南北朝期には土岐頼忠(美濃守)が池田荘地頭となり、文和三年(1354)九月には新熊野社長床雑掌禅憲によって、頼忠が即位料足を譴責したので荘民が逃散したと訴えられている(新熊野神社文書)。
 土岐康行の乱後に西池田頼忠・頼益・持益三代が美濃守護になると、長江氏一族の備中守高景が美濃守護代となり富島を領した。しかし文安元年(1444)閏六月十九日守護土岐持益の館で守護代富島高景が斎藤宗円によって討たれて美濃大乱となり、同年七月十日には富島氏が近江勢の援助で美濃に侵入し、美濃不破郡垂井を焼き払った(康富記同日条)。  文安三年(1446)七月にも美濃で合戦があり、数百人が討死している(東寺過去帳)。同時期に六角氏でも文安の乱が起こり、六角満綱・持綱父子が被官人によって自殺に追い込まれ、被官人に奉じられた六角時綱が、幕府が定めた六角久頼に討たれて混乱を極めた。このように同時期に美濃・近江で混乱があり、しかもどちらにも京極持清が介入している。応仁文明の乱で富島氏は京極氏と結んで東軍につき、守護土岐成頼と守護代斎藤氏は対抗して西軍についたが、富島氏は斎藤氏に敗れて没落した。

美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂)

 鎌倉期の土岐氏は美濃の有力御家人で、北条氏と姻戚関係を結び、土岐隠岐守光定は北条氏を妻としていた。光定の庶子は隠岐太郎・三郎と称し、嫡子は隠岐孫太郎・孫二郎と称した。系図では頼貞母を北条貞時女とし、頼貞妻を北条宗頼女とする。しかし頼貞母(光定妻)は北条時定女の誤りだろう。時定は得宗北条経時・時頼兄弟の同母弟で、肥後国i阿蘇社領を管理して阿蘇氏を名乗り、元寇では肥前守護・鎮西探題に補任されている。孫太郎定親の名乗りは外祖父北条時定に由来すると考えられる。また頼貞妻の父北条宗頼(相模修理亮)は、得宗北条時宗の異母弟であり、豊後守護大友頼泰女を妻とし、元寇に際して周防・長門守護を兼帯して長門探題に補任されている。頼貞の名乗りは摂津源氏の通字「頼」ではなく、北条氏に由来すると考えられる。このように土岐氏の外戚北条氏がいずれも元寇で西国に赴任しており、これが鎌倉末期に土岐氏の活動拠点のひとつが伊予にあった理由と考えられる。
 また頼貞妻の兄弟北条宗方は、北条時宗の養子になり、平頼綱の乱後に得宗北条氏の執事(内管領)を勤めていた。嘉元三年(1305)宗方が連署北条時村を襲撃した嘉元の乱では、光定の子定親(隠岐孫太郎)は北条宗方に与して処刑されている。土岐氏が北条氏被官(御内人)のように行動していたことが分かる。これで弟頼貞(孫二郎・伯耆守)の系統が土岐氏嫡流となった。
 元亨四年(1324)九月後醍醐天皇による討幕計画が土岐左近蔵人頼員(六波羅評定衆奉行斎藤氏女婿)の密告で発覚し、十九日密かに上洛していた土岐十郎五郎頼有と多治見国長は六波羅探題の討手との戦闘の末に自害した(『花園院宸記』九月十九日条)。『太平記』の記述は混乱しているが、『花園院宸記』によれば、登場人物は土岐左近蔵人頼員、土岐十郎五郎頼有、多治見国長である。元亨四年十月三日和田助家着到状(『岐阜県史』史料編古代・中世4、大阪府3和田文書1)では、土岐十郎五郎頼有を伯耆十郎、多治見国長を多治見四郎二郎とする。伯耆十郎であれば、伯耆入道頼貞の子伯耆十郎頼兼である。また『花園院宸記』の記事で頼員に「兼歟」との傍注がある。しかも「頼兼」とする傍注は宸筆による。伝聞を花園院自ら訂正したのである。蔵人は天皇の身の回りの世話をするため、土岐左近蔵人と聞いて、はじめは伝聞のまま記した花園院も、記憶をたどり頼兼と思ったのだろう。ただし花園院のときと蔵人も替わるため自信がもてず、「兼歟」としたものと考えられる。少なくとも花園院のときの土岐左近蔵人は土岐頼兼だったのだろう。事件当時の左近蔵人が誰かが問題になる。また頼兼がすでに任官していたのであれば、仮名「土岐伯耆十郎」で呼ばれることはない。『武家年代記裏書』正中元年条では「土岐小□郎・田志美二郎依有隠謀聞、於京都被誅了」とある(増補続史料大成)。小十郎であれば、伯耆十郎頼兼の子という意味になる。尊卑分脈に照らせば、頼員はその官職左近蔵人から船木頼春、また討たれた人物は伯耆十郎ならば頼兼、土岐十郎五郎・土岐小十郎なら頼兼の子に相当する。その実名は、『花園院宸記』にあるように頼有であろう。
 『太平記』諸本で、頼員・頼有の名に混乱があり、左近蔵人頼員を頼員・頼貞・頼直・頼真・頼玄ともし、また頼有を頼時・頼貞・頼員・頼有・頼明ともする(平田俊春1984、佐々木紀一2012)。これは員・貞・有などの字が草書体では区別しにくいために、筆写されるたびに誤写されたと考えられる。そうであれば、このような人名の誤りが諸本の系統を復元するのに資することもできよう。

土岐頼貞┬頼清───┬頼康───康行(実は頼雄子)
      ├頼遠    ├ 明智頼兼
      ├明智頼基 ├揖斐頼雄
      ├頼兼    └池田頼忠─頼益―持益(美濃守護)
      └頼明

 元弘元年(1331)に始まる元弘の変で鎌倉幕府が滅亡すると、頼兼の兄伯耆九郎頼基の子頼重(高松三郎頼重)が建武新政のもと讃岐守護になった。隠岐守光定は尊卑分脈によれば、悪党讃岐十郎を討った功績で隠岐守を受領したと伝えるので、讃岐に権益を有していた可能性がある。ここに登場する伯耆九郎頼基・十郎頼兼・弥十郎頼明らは頼貞の正妻北条氏の子であり、東美濃の明智長山城の明智を名乗った。それに対して頼貞の庶子頼清・頼遠たちは西美濃に本拠を移動する。
 建武元年(1334)中先代の乱に続く足利尊氏の挙兵では、頼貞の庶子弾正少弼頼遠・弟道謙が箱根竹下合戦で活躍した(太平記)。これを契機に諸国で足利方の挙兵が相次ぎ、讃岐では細川定禅が挙兵して高松頼重(明智三郎)の高松城が落城し、その老父(伯耆九郎頼基)は討死している(太平記)。庶子と嫡子で明暗を分けた。その後も頼清・頼遠は活躍し父頼貞は美濃守護に補任された。
 建武二年(1335)六月の京都攻防戦では、頼貞の子土岐悪源太(頼清)が活躍し(太平記)、翌三年(1336)北畠顕家の奥州勢との青野原軍ではやはり頼貞の子頼遠が奮戦し(太平記)、頼遠は敗れたものの顕家が新田義貞の北陸軍とは合流できずに伊勢に転じたことで、こののちの情勢を決定づけた。バサラ大名頼遠の面目躍如である。
 暦応二年(1339)二月頼貞が没すると、頼遠(弾正少弼)が土岐惣領を継いだ。これは兄頼清(悪源太)が父に先立ち没していたためで、頼遠は土岐氏を美濃・尾張・伊勢三カ国の守護に押し上げた。ところが康永元年(1342)十二月光厳院に牛車に射かけた罪で刑死すると、伯耆弥十郎頼明が惣領を継承する。鎌倉幕府滅亡に活躍した伯耆九郎頼基・十郎頼有兄弟の末弟である。『太平記』巻第二十五「住吉合戦事」は貞和三年(1347)の楠正行との合戦で、土岐周済(頼貞子)・明智兵庫助・佐々木四郎左衛門(京極秀宗)が安倍野に陣を張り、兵庫助は戦傷を負った。この明智兵庫助が、尊卑分脈に伯耆弥十郎とも兵庫頭とも記される頼明である。頼明が兵庫頭であったことは、年月未詳二十五日付土岐頼明書状(『岐阜県史』史料編古代・中世一、美濃市1阿部敏雄氏所蔵文書1)に、「兵庫頭頼□」とあることで確認できる。貞和四年(1348)正月土岐周済と明智三郎(高松頼重)が出陣した四条畷の戦いで周済らは戦死した(太平記巻第二十六)。これで土岐惣領は頼清の子頼康に移った。
 観応の擾乱が始まると、土岐氏の分裂は決定的になった。『太平記』巻二十七「御所囲事」では貞和五年(1349)高師直邸に集まった武士の中に土岐刑部大輔頼康、同明智次郎頼兼、同新蔵人頼雄とある。頼康・頼雄は土岐頼貞の庶子頼清の子で、叔父頼遠に従い活躍していた。ここで注目できるのが土岐頼康・頼雄兄弟の間に記された明智次郎頼兼である。続群書類従本土岐系図一本では頼清の子に頼康・頼兼・頼雄の順で記されている。またもう一本の土岐系図の十郎頼兼(実は頼有)の項で記すように、正中の変の土岐十郎頼兼(実は十郎頼有)と明智次郎頼兼は別人である。やはり明智次郎頼兼は頼康の次弟である。
 観応元年(1350)七月美濃で土岐周清(兵庫入道)の乱があり、同月二十七日に土岐勢が近江に侵入した(園太暦)。二十八日に足利義詮・高師直が美濃に進発している(園太暦)。『祇園執行日記』観応元年八月二十日条で足利義詮・高師直が美濃から帰洛した記事に、「生捕大将土岐周勢殿(兵庫入道、道存子)乗輿、佐々木六角判官(江州守護)預召具上洛、頭殿直御参将軍、」とあり、土岐周済が兵庫入道と注記されていることで、明智兵庫頭入道頼明と分かる。頼明は近江守護六角氏頼に預けられた。さらに『園太暦』同月二十七日条「濃州生捕周清法師并舎弟一人、去夜被斬首了」とあり、『祇園執行日記』二十七日条には「土岐周清、同舎弟左衛門大夫入道於樋口河原六波羅地蔵堂焼野、今夜戌刻被討了、奉行雑賀民部大夫也、左衛門大夫入道乍著裳無衣、切頸之条、無故実之由有沙汰、預人佐々木大夫判官切之」とあり、二十八日条に「周清并舎弟左衛門大夫入道頸、六波羅焼野被懸之(地蔵堂後)」、二十九日条に「周清兄弟頸、又今日懸之云々、」とある。頼康の土岐惣領継承に、明智頼明(兵庫入道周清)・土岐頼直(左衛門大夫)が反発したことが分かる。
 『園太暦』文和二年(1353)三月二十六日条に「武家検断土岐頼泰舎弟長山某」とあるのが明智頼兼のことだろう。長山頼基と明智頼兼がともに「長山」と呼ばれたことで後世の系譜伝承に混乱が生じたと考えられる。長山遠江守の長山は本巣郡根尾長山砦であり、南朝方の脇屋義助が籠もったこともある。明智頼兼の長山は可児郡長山城とも考えられるが、頼兼は長山頼基の女婿として長山と称したとも考えられる。
 長山遠江守は頼康のもとで尾張守護代となり、文和二年二月十三日には守護土岐頼康が守護代長山遠江守に対して地頭御家人や守護被官らの押領を止めるように指示している(醍醐寺文書十三函尾張守護土岐頼康書下『愛知県史資料編中世1』一三六二号)。遠江守は同年四月に南朝方の原・蜂屋らと戦っており、『園太暦』同年四月十日条に「十日、今日、於尾州有合戦、賊首廿許持上、守護代土岐家人等合戦、件党類原・蜂屋等云々」と見える。
 同年七月二十二日付で尾張国衙良海東郡保分例名正税等について地頭土岐明智伯耆守が押領したとの報告があった(醍醐寺文書二十三函僧良禅等連署注進状『愛知県史資料編中世1』一三八一号)。この土岐明智伯耆守が長山頼基の女婿土岐明智次郎頼兼だろう。また同三年(1354)四月二十三日付熱田社領目録案(熱田神宮文書『愛知県史資料編中世1』一四一六号)では、中島郡玉江庄(田畠十四町四段三十歩)に「長山押領云々」と注記され、長山遠江守が中島郡に勢力を張っていたことが分かる。さらに同年七月二十八日付足利尊氏寄進状(妙興寺文書『愛知県史資料編1』一四二二号)は妙興寺に尾張国中島・丹羽・葉栗等郡内散在田畠百十八町七段余を寄附するとの寄進状に「守護人土岐大膳大夫頼康・同代官頼煕執達」とあり、守護代長山遠江守の当時の実名が頼基ではなく「頼煕」と分かる。頼基から頼煕に改名したのだろうか。また尾張中島郡が長山氏の勢力下と確認できる。
 『美濃国諸家系譜』によれば、長山遠江守は土岐頼遠の女婿であり、子息満頼は揖斐土岐頼雄の女婿だが、見性寺文書(『愛知県史資料編2』四八四号)の至徳三年(1386)三月二十一日付大般若波羅蜜多経奥書にある「大檀那源朝臣岐陽満頼」は尾張中島郡浅井郷地頭であり、「岐陽」と名乗る美濃土岐氏の関係者である。尾張守護代長山遠江守の子息満頼と推測できる。また満頼が氏姓は源朝臣と確認できる。その後、長山氏では永享以来御番帳で五番に長山左馬助入道、文安年中御番帳で五番に長山右馬助入道が見える。

【参考文献】
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 年。
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 編『前田本「玉燭宝典」紙背文書とその研究』続群書類従完成会、
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 館、1987年。
佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証(上)」山形
 県立米沢女子短期大学附属生研究所39号、2012年、27-43頁。
佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証(下)」山形
 県立米沢女子短期大学附属生研究所40号、2013年、37-50頁。
谷口研語『美濃・土岐一族』新人物往来社、1997年。
平田俊春「土岐頼兼と正中の変」日本歴史432号、1-16頁、1984年。
『角川日本地名大辞典』21岐阜県、竹内理三等編、角川書店、1980
 年。
『愛知県史』資料編中世1、2001年。
『岐阜県史』史料編古代・中世1~4、1969-73年。
『不破郡史』
『瑞浪市史』歴史編、1974年。

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【もくじ】
1.2007年東大入試前期・第4問:清岡卓行「手の変幻」の
 概略~結婚という形
2.設問
3.解説と解答例

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1.概略~結婚という形

詩におけるさりげないひとつの言葉、絵画におけるさりげない
一つのタッチ、そこに作者の思いが密かにこめられたとしても、
その重みは容易には鑑賞者の心に伝わらない。作品と鑑賞者が
なんらかの偶然でよほどうまく邂逅しないかぎり、ア〈その秘密
の直観的な理解はふつうは望めない〉。
 しかし例外もあり、そこでは時代と個人的な作風との微妙な
緊張関係がうまく永遠化されている。たとえばレンブラントの
晩年のいくつかの作品に眺められる重厚な筆触の一つ一つは、
そこにこめられている経験の痛みをひしひしと感じさせる。
 レンブラントのそうした作品の中から、『ユダヤの花嫁』を
選んでみよう。茶色がかった暗く寂しい公園のようなところを
背景に、新郎はくすんだ金色の、新婦は少しさめた緋色の、
それぞれいくらか東方的で古めかしい衣装をまとっている。
いかにもレンブラント風なこの色調の雰囲気の中で、筆触の一つ
一つの裏がわに潜んでいる特殊で個人的な感慨が、おおらかな
全体的調和をかもしだし、普遍性にまで高まる。この絵画に
おける永遠の現在の感慨の中には、見知らぬ古代におけるそう
した場合の古い情緒も、同じく見知らぬ未来におけるそうした
場合の新しい情緒も、イ〈ひとしく奥深いところで溶けあって
いるような感じがする〉。こうした作品を前にするときは、人間
の歩みというものについて、ふと、巨視的にならざるをえない
一瞬の眩暈を覚える。
 ところで、ここで新郎と新婦の手の位置と形、そしてそれを
彩る筆触に最も心を惹かれるのは、きわめて自然なことだろう。
夫婦愛における男と女の立場の違い、そして性質のちがいを、
まことに端的に示しているようからだ。男の手は、女を外側から
包むようにして、所有、保護、優しさ、誠実さなどの渾然とした
静けさを現わし、女の手は、男のそうした積極性を今や無心に
受け容れることで、いわば逆の形の所有、信頼、優しさ、献身
などの溶け合った充実を示している。
 賞嘆してやまないのは、この瞬間を選びとった、あるいは
そこに夥しいものを凝縮したレンブラントの透徹し、しかも
慈しみに溢れた眼光である。暗くさびしい現実を背景に、新しい
夫婦愛の高潮し均衡する、こよなく危うい姿がそこに描きだされ
ている。
 それは過酷な現実によって悲惨なものにまで転落する危険性が
充分にあるというほどの意味である。その悲惨は、人間が大昔
から何回となく繰返してきた不幸である。しかし、この絵画に
かたどられている理想的な美しさは、ウ〈人間が未来にわたって
さらに執拗に何回となく繰返す希望といったものだろう〉。
 レンブラントの『ユダヤの花嫁』のように時代を超えて人間の
永遠的なものを啓示している絵画を前にするとき、そこで成就
されている所有の高次な肯定――エ〈純粋な相互所有による腐敗
の消去法とでもいった深沈とした美しさの定着〉に、より強く
魅惑される。その美しさは危うく脆いかもしれない。しかし幸福
と呼ばれる瞬間の継起のために、可能なかぎり誠実であろうと
する愛の内容が、結婚という形式そのものであるような、まさに
内実と外形の区別ができない生の謳歌の眩さにある。

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2.設問

(一)「その秘密の直観的な理解」(傍線部ア)とあるが、
どういうことか、説明せよ。
(二)「ひとしく奥深いところで溶けあっているような感じが
する」(傍線部イ)とあるが、「ひとしく奥深いところで溶け
あっている」とは、どういうことか、説明せよ。
(三)「人間が未来にわたってさらに執拗に何回となく繰返す
希望といったものだろう」(傍線部ウ)とあるが、「執拗に何回
となく繰返す希望」とはどういうことか、説明せよ。
(四)「純粋な相互所有による腐敗の消去法」(傍線部エ)と
あるが、どういうことか、説明せよ。

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3解説と解答例

(一)傍線部アのある段落は二文しかない。傍線部のある文で、
よほどうまく出会わない限り望めないとものは、前文で容易には
鑑賞者の心に伝わらないものである。それは、詩における一つの
言葉や絵画における一つのタッチに込められている作者の思い
である。そして直観とは「何にも媒介されずに直接見る」ことで
ある。「作者が作品にこめた深い意味を、何にも媒介されること
なくそのまま理解すること。」とまとめるといい。
(二)接続詞もなく続く文章は言換えであり、ここでも傍線部イ
を含む文の前後を見るといい。まず前文である。いかにもレンブ
ラント的な色調の中で、筆触の一つ一つの裏に潜む特殊で個人的
な感慨が、おおらかな全体的調和をかもし出して普遍性にまで高
まる、という内容だ。ここで注目するのは、特殊性や個別性が
普遍性まで高まることである。さらに傍線部のある文だ。古代の
情緒と未来の情緒が、絵画という永遠の現在の中で溶け合うと
いう。このように過去においても未来においても共感され続ける
絵画が、普遍的な価値をもつ古典的名画といえる。さらに後の文
で、「こうした作品」を前にするとき、人間の歩みについて巨視
的にならざるをえない一瞬の眩暈を覚えると述べている。ここで
いう巨視的がやはり普遍的に対応する。「レンブラントの作品
では、過去の人物の思いと未来の人物の思いが時代を超えて一体
になる」とまとめるといい。
(三)傍線部ウで述べられている「希望」は、「ところで」で
始まる段落から続く、レンブラントの作品の内容を作者が解説
した段落群にある。その内容が、人びとが結婚に託す「希望」で
ある。ここで筆者が賞嘆するレンブラントの眼差しが切り取った
ものが、暗くさびしい現実を背景に、新しい夫婦愛が高潮し均衡
する姿である。そして「さびしい現実」とは、次の段落にある
「人間が大昔から何回となく繰返してきた不幸」である。「結婚
は不幸の始まりかもしれないが、これまでもこれからも繰り返し
結婚という形にこめられる男女の愛の高まり」とまとめよう。
(続きは第1号で)

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■ 発行元:佐々木哲学校:http://blog.sasakitoru.com/
著作権は、佐々木哲にあります。

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2013年東大後期・総合科目Ⅲ・講評

【総評】
今年の問題は、2つの大問にそれぞれ500字の設問が二つ、合計2,000字と分量が多く、受験生には負担の大きいものだった。十分に考える時間がなかったのではないだろうか。ただし内容は難解ではなかった。

【第1問】
世界地図が大航海時代を画期に大きく変化することを論じた文章である。世界地図が変化したことは地理で学習するため、受験生はすでに知っている内容である。
▼問一は、空間概念の変遷を課題文に即して論述するように求めている。大航海時代を画期に転換するので、その前後の空間概念を比較しながらまとめるよう。ポイントは、生活空間との関係だ。
古代・中世では、生活空間を中心に、異質な空間が隣り合い、空間ごとに人々の行動を規定する規範があった。近代では、空間は絶対空間で、目盛をもった容器であった。科学における理想状態と同じで抽象的なものだ。しかし、これで世界地図は誰もが使える普遍的な道具になった。
▼問二は、筆者が本文に続く現代物理学における空間概念の変遷を述べた箇所を引用して、今日までにどのように空間概念が変わったかを論じた上で、自分の意見を述べるように求めている。
現代物理学に関しては、筆者の時代が科学万能主義から相対主義へと思想が大きく転換する時代であったと理解できればいい。解答例では均質性と不均質性という空間概念を使用したが、現代物理学について論じる必要はない。
 社会状況や技術の発達を踏まえて、たとえば交通の高速化やインターネットの普及で世界の縮小・均質化が進む一方、世界と自分の住む生活空間の間には国だけではなく、EUのような地域連合も生まれ、空間が多層化していると論じればいい。

【第2問】
課題文は、明治維新を世界史の中でも稀に見る急激な革命と論じ、誰も結末を予想できなかったと論じている。これは幕末の志士を英雄視する司馬遼太郎史観を批判するものでもある。通説とは異なる角度で見るのが、東大日本史の特色である。
▼問一は、幕末の動乱から明治維新にいたる歴史をまとめる問題である。試験時間が少ないときは、キーワードを書き出して時代順に並べ、それを順接・逆接の接続詞でまとめるといい。幕末をまとめるポイントは派閥の離合集散である。開国派と尊王攘夷派、公武合体論で尊王攘夷派の一部が開国派と合流、さらに討幕で公武合体派の薩摩と尊王攘夷派の長州が薩長同盟をつくるとまとめよう。
▼問二は、明治維新が攘夷をめざす志士が裏切る革命だったことを論述する問題だが、不平士族の反乱が西日本で起きた理由を考えると解答しやすいだろう。尊王攘夷を唱えて走り続けた名も無き志士たちは、明治維新で何も得る物は無く、むしろ特権を奪われて排除されたのである。

2013年東大後期・総合科目Ⅲ・第2問【解答速報】

【問1】
 アヘン戦争で清が敗北したことを知っていた幕府は、ペリーが来航すると翌年には日米和親条約を結んだ。しかし国威の低下と考える人々は攘夷を唱え、将軍継嗣問題ともからみ開国派と攘夷派が激しく対立した。大老井伊直弼はアロー戦争中に日米修好通商条約を結び、安政の大獄で反対派を処断した。
 しかし横浜開港で輸出超過となり、江戸では物品不足となり、また欧米と日本の金銀交換比率のちがいにより金が大量に流出するなど、日本経済は混乱した。
 桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、幕府では公武合体が主張され、将軍継嗣・条約勅許をめぐる幕府内部の対立は解消され、文久の改革で親藩・外様が幕政に参加した。それに対して、あくまで攘夷を唱えた長州は禁門の変で京都から追放された。
 幕府は長州征伐をおこなったが、下関事件で攘夷の無謀に気づいた長州は薩長同盟を結び、討幕へと進んだ。討幕の密勅に対して徳川慶喜は大政奉還をしたが、王政復古の大号令と、小御所会議での官位と領地の没収で挑発に乗り、戊辰戦争で敗北した。幕府を倒した明治政府は、五箇条の御誓文で開国政策を継続を誓い、攘夷に戻すことはなかった。

【問2】
 大政奉還とそれに続く王政復古の大号令で国の中心に立った天皇は、大日本帝国憲法で主権者となる。
 大名は版籍奉還・廃藩置県で大名・知藩事としての地位を失うが、天皇の藩塀として華族となり、大日本帝国憲法のもと貴族院を構成して、公武の対立は解消した。
 しかし攘夷派の志士として活動し、戊辰戦争でも官軍として活躍した西日本の武士たちは、勝利したにもかかわらず特権を失う。まず廃藩置県で精神と生活の基盤であった藩が解体し、徴兵制度で武士の存在意義がなくなる。散切り頭で身分を表現できなくなり、廃刀令・秩禄処分で武士の特権は完全になくなる。しかも高級官僚こそ薩長に占められていたが、旧幕府の官僚がそのまま新政府の中堅官僚となり、さらに帝国大学が官僚を育成したことで、官僚への道も閉ざされた。
 佐賀・長州・薩摩など明治維新で活躍した西日本の武士たちによる不平士族の反乱は失敗に終った。土佐は自由民権運動を展開して国会開設を勝ち取るが、やがて自由民権運動の中心は地主層に移る。攘夷を思想として守り通した人々は報われることはなく、排除されていったのである。

2013年東大後期・総合科目Ⅲ・第1問【解答速報】

【問1】
 世界地図はルネサンス・大航海時代を画期として、世界の意味を記述した古代・中世的なものと、世界を対象化して測定可能とした近代的なものに分かれる。
 古代・中世的な世界地図は、生活や社会・文化を支える世界観を表現したものであり、世界観を絵画化した概念図であった。空間は一様ではなく場所ごとに異なる意味をもち、空間と空間の間には厳然と境界があった。境界は結界とも呼ばれ、簡単に乗り越えられるものではなかった。その好例が聖域である。人は場所ごとに意味に即して行動した。
 しかし大航海時代以降の近代の世界地図では、空間は絶対空間として事象から切り離されて、座標をもつ容器になった。座標軸の目盛は等間隔で、連続的で無限であり、そこには価値による方向性も軽重もない。このようにすべての意味や関係を排除して抽象化する試みは、科学が理想状態を設定して法則性を導くのと同じ手法であり、世界地図は価値観から解放されて普遍性をもち、誰が見ても役立つ方法・手段となったといえる。
もはや世界は人間の行動を規定するものではなく、観測者によって対象化され測定されるものになったといえよう。

【問2】
一九七〇年代に先進国の高度経済成長は終るが、新興国の経済発展で南北格差が縮小している。さらに交通の高速化やインターネットの普及で、世界は縮小し均質化が進んだ。アフリカでも太陽光発電があれば、携帯電話が使える。こうして世界の均質化が進んだ。
ところが高速化による移動費用は高く、世界の均質が進むほど、空間の非均質化も同時に進んでいる。たしかに都市は世界中どこも似ており、生活水準もほとんど変らない。しかし地方は取り残されており、開発によって方言(あるいは少数民族の言語)とその世界観が失われつつあるものの、まだまだ生活に密着した固有の文化を残している。
インターネットで瞬時につながる相手も、実は同じ関心を持つ者であり、都市において価値観の多層化が進んでいる。やはり均質な空間に不均質性が生まれている。
また経済でも国際化が進む一方で、フードマイレージや地消地産に見られるように、生活に密着した規模の経済が見直されている。
このように、均質性と不均質性、あるいは普遍性と特殊性は、概念としては対立しているものの、実際には対立しながらも相互に補い合う関係にあるといえよう。

twitter始めました!

1週間前に、つぶやきだけのつぶやきを始めました!!
佐々木哲@sasakitoruです。
ブログを更新するほどではないけど、メモしておきたい、そんな日々のちょっとした発見や発想を、つぶやきます。また、ブログで新しい記事を掲載したときには、投稿時にツイッターにタイトルとアドレスが表示されます。ツイッターをフォローしていただければ、新記事の投稿がすぐに分かります。ただし基本的には、回答したり、フォロー返しをしたり、などなど、つぶやき以外のことはしませんので、フォローされる方にはご理解ねがいます。

〈系図学校〉立ち上げ

今年4月、主にインターネットで活動していた佐々木哲学校(佐々木哲.jp)のなかに系図学校を立ち上げ、会報の発行を中心に活動し、会員数が増えましたら法人とし、全国的に講演活動を展開していきます。この系図学校は、山嵜正美氏が事務局をされていた「近江佐々木氏の会」を発展的に継承するものですが、佐々木氏以外の系譜伝承も対象とします。

趣旨
▼系譜伝承には多くの錯誤が含まれていますが、それらの錯誤を捨て去れば、その源流である歴史的事実をも失います。そこで、系譜伝承を読み解く系図学の確立を目指します。
▼系譜伝承は家の伝承であるとともに、地域の歴史の伝承でもあり、文化遺産のひとつといえます。そのため、その収集と保存は地域振興にも資するでしょう。

活動内容
▼系図学校立ち上げ当初は、メールマガジンの発行を中心に活動します。インターネットのメール形式で送付する会報メールマガジンは、毎月1日・15日の2回発行します。また郵送希望の場合は、メールマガジン2回分をまとめた月報を発行します。
▼会員から寄せられた情報は、メールマガジン・月報に掲載して共有化を進めます。また中世・近世初頭の調査依頼については、研究助成費及び実費にて承ります。
▼家系調査・系図作成については、近現代の調査に専門家を必要とするため、調査体制が整いましたら始めます。
▼会の運営については、ご意見をいただければ幸いです。

入会方法
▼ご希望の方は、別紙の要領で申し込み願います。
▼メールアドレスがある方はお知らせください。

                            佐々木哲学校主宰
                                  佐々木哲

                 記

会費は1口5,000円で、1年間1口以上で、2口以上の場合は研究支援の賛助会員として登録いたします。また、振込先はゆうちょ銀行のほか、みずほ・東京三菱・三井住友銀行にも口座がございますので、問い合わせていただければお知らせいたします。

     ゆうちょ振替口座 00150-1-761188
     口座名義 佐々木哲(ササキ トオル)

   (他金融機関から)
     ゆうちょ銀行(0099) 預金種目 当座  店番号019
     店名 〇一九(ゼロイチキユウ)店  口座番号 0761188

                                     以上

永原氏の系譜(2訂)

 永原氏は『源行真申詞記』に登場する愛智家次の一族という系譜伝承をもつ。愛智家次は近江愛智郡大領愛智秦公の子孫と考えられるが、佐々木荘下司源行真の女婿となることで佐々木一族化した。家次の弟田中入道憲家は、その名乗りから水上交通の要所高島郡田中荘の下司と考えられ、その子孫から守護代楢崎氏と高島七頭のひとつ山崎氏が出ている。沙沙貴神社所蔵佐々木系図や野洲郡志所収三宅四五六郎氏所蔵系図(以下、三宅系図)では、守護代楢崎氏の分流に永原氏が見える。
 しかし『永原氏由緒』では藤原氏の子孫という系譜伝承を伝え、藤原秀郷十二代の孫で源頼朝に敵対した滝口俊秀の三男瀬川俊行が近江国栗太郡に住み、その七代の孫に永原大炊助宗行が出たという。そのとおりであれば蒲生氏と同祖であり、右馬允藤原季俊の長子俊秀(従五位下)の子孫が永原氏であり、次子惟俊の子孫が蒲生氏となる。市三宅城主永原(三宅)氏が馬允を名乗るのは、この右馬允季俊に由来しよう。
 また良堂正久の頌によれば、正久の祖父のときに関東から近江に来たともいう。関東から来た有力者には三雲氏(上杉氏あるいは武蔵七党児玉氏)があり、六角氏に鎌倉足利氏女が嫁いできたときに、女佐の臣として近江に来た者の子孫とも考えられる。

「賜藤氏」永原氏
 永原氏が歴史に初めて登場するのは応永十六年(1409)の尊経閣文庫所蔵文書(前田家文書)であり、野洲郡一帯の名田畠を領有していた永原孫太郎入道・彦太郎が罪を犯し、その所領を三宅五郎左衛門尉家村と永原新左衛門入道正光が争い、正光が獲得したことを伝えている。正光は孫太郎入道・彦太郎の近親者であろう。応永二十六年(1419)十一月の菅原神社本殿造替のときの棟札に、領家藤原雅行・地頭源信清・神主藤原清重・願人沙弥正光のほか、江辺荘内の大工二名の名が記されている。沙弥正光は前述の永原新左衛門入道正光であり、神主藤原清重も永原一族で、「清」の字は地頭信清に由来しよう。また『蔭凉軒日録』長禄三年十二月八日条に「馬淵被官」、同月二十日条にも「馬淵被官之永原」とあり、長禄三年(1459)当時は郡守護代馬淵氏の支配下にあった。
まず八日条に「常徳院末寺正法寺檀那馬淵被管永原被為闕所、雖然中島依申掠而如此重依申披之、永原御免許之事伺之、御免之由被仰出也」とあり、二十日条には「依馬淵被管之永原公事、可有御糾明之相奉行之事、飯尾加賀守伺之、以飯尾左衛門大夫被相添之由被仰出也」とある。幕府において、永原氏の公事について糾明を必要とする事件があったと分かる。
 文明十六年(1484)新左衛門入道正光子息と思われる良堂正久の二十五周年忌を永原吉重が営んでいるが、相国寺の横川景三が良堂正久を「賜藤氏」と記し、吉重も「承大織冠直下孫」と自署している。「賜藤氏」の文言は、良堂正久のとき藤原氏を賜ったことを意味していよう。
 では、だれから藤原氏を賜ったのであろうか。それは江辺(江部)庄領家藤原雅行と考えられる。雅行は藤原師通流室町家の出身だが官歴は不明であり、子息雅国が従三位非参議に補任されたときに江辺を称している(公卿補任)。雅行本人は江部庄に下回向して荘園経営に専念していたのだろう。永原氏は雅行・雅国父子によって藤原氏を与えられたと考えられる。そのことは、『永原氏由緒』で藤原雅行の名が永原氏先祖の一人として記されていることで分かる。
 野洲郡で勢力を得た永原氏が秀郷流藤原氏を名乗ったのは、三上山のムカデ退治伝承の藤原秀郷(俵藤太)を始祖と仰いだことによろう。先祖は関東にあったと伝えられるが、右馬允藤原季俊の子孫であれば蒲生氏と同祖であり、関東出身ではない。永原氏由緒など永原氏の系譜伝承によれば、藤原秀郷流足利忠綱(あるいは弟康綱)の子孫である伊勢赤堀氏との関係が記されており、赤堀氏が応永年間(1394~1428)に上野から伊勢に移り住んでいる。
 まず上野住人赤堀三郎左衛門入道が、文和二年(1353)七月十三日付で上野国赤堀郷・貢馬村と伊勢国野辺御厨地頭職を安堵されているが(早稲田大学赤堀文書)、応永三年(1396)十一月には赤堀民部少輔直綱が、久我家領伊勢石榑の代官職を請け負っており (久我家文書)、この間に伊勢に移住している。さらに応永十八年(1411)九月十日付文書に伊勢守護土岐康政の被官として赤堀三郎左衛門尉が見え(醍醐寺文書)、応永二十年(1413)四月十三日付で、幕府は赤堀孫次郎に前年十一月二十七日に引き続き伊勢国玉垣・野辺代官職・守忠名・栗原・小山新厨・宇賀他を安堵している(国会図書館足利時代文書)。そして、応永二十五年(1418)十二月二十五日付の文書に、赤堀兵庫入道が伊勢守護土岐持頼の被官として見える(口宣綸旨院宣御教書案)。赤堀氏の祖足利忠綱は治承・寿永の内乱で平氏方であったため、『永原氏由緒』のとおり、源頼朝に対峙したことになる。やはり、永原氏の系譜には藤原秀郷流足利氏の系譜伝承が混入していよう。
 この赤堀氏との姻戚関係が、良堂正久の伝承「祖父昔在関東起家」「子孫今於江辺食菜」(補庵京華別集所収良堂正久拈香仏事)、あるいは吉重の伝承「高曽出自関東」「子孫起於江東」(補庵京華別集所収預修心月居士闍維諸仏事)を生んだと考えられる。
 しかし天満宮并別当記録によれば、永和五年(1376)二月二十五日に江辺荘正公文源正満丸によって葺替がおこなわれている。同荘下司としては義清流富田秀貞と京極導誉を確認できるが(佐々木文書)、正公文は源正満丸であった。しかも正満丸の名から永原新左衛門入道正光本人か近親者と推測できる。永原氏の本姓は源氏であった。やはり沙沙貴神社所蔵佐々木系図や市三宅城主永原氏系図(以下、三宅系図)のとおり、本佐々木流楢崎氏の分流の可能性が出てくる。しかし楢崎氏は愛智家次の弟田中入道憲家の子孫であり、厳密には愛智秦氏の子孫である。
 正光(源正満丸)の子息良堂正久のとき藤原氏を称し、藤原氏とする系譜伝承は吉重に受け継がれ、吉重は「承大織冠直下孫」と自署した。先祖が関東にあったと述べられていることから、このときすでに秀郷流藤原氏の系譜伝承を有していたのだろう。
 吉重の子息には、明応二年(1493)の吉重(心月清公禅定門)三回忌を主催した「藤原重泰」(『翰林葫蘆集』所収「心月清公禅定門大祥忌拈香」)があり、同五年(1496)と推定される「永原千句」にも「重泰」の名が見える。また同七年(1498)六月には吉重五回忌を主催した「永原越州太守藤原重秀」がいる(『翰林葫蘆集』所収「心月清公禅定門七周忌拈香」)。同年四月十四日付「菅原神社本殿棟札」では、やはり越前守重秀が神主藤原重宗とともに署名している。どちらも吉重の子息として法事を行なっており、重泰と重秀は兄弟あるいは同一人物と考えられる。神主も藤原氏で「重」の字を使用しており、一族であろう。
 また吉重の弟式部丞氏重(吏部頼信善叟公)は筑前守重頼を養子にしている(前筑州重頼画賛)。氏重(京華集拾遺十二所収「慶堂号」)は、文亀二年御上神社文書で「永原式部殿」)とされている。御上社は楼門の屋根葺替え資金のため、社領である三上山の山林を売り渡しているが、その中で永原氏では「永原大方殿」「永原式部殿」「永原殿北殿」らが山林八十三筆を買得しており、他の買得者を大きく上回っている。それぞれ氏重母・式部丞氏重本人・氏重妻と考えられる。氏重は六角氏綱の一字書出を給付された六角氏近臣と考えられる。画賛では筑前守重頼を「故吏部頼信善叟公令子、而心月翁家姪也、実一門栄耀可観矣」と記している。重頼が氏重の養子になり、心月翁(吉重)の家姪になったことは、実に一門の栄耀であると述べている。これで重頼が六角氏の出身と分かる。六角氏から養子を迎えることで、富裕者であった永原氏は家格を上昇させた。

鳥羽氏と永原氏
 市三宅城主永原氏系図では、六角高頼の兄弟永原高賢(信賢)の養子が氏高(「始者信頼」)だという。伊勢赤堀氏出身というのは藤原姓永原氏出身ということであろう。また永原伊豆家の系譜伝承である『永原氏由緒』では高賢を「重賢」とし、越前守重秀はこの重賢の養子になり家格を上昇させたという。では、この高賢・重賢は誰であろうか。実は、六角氏の一族鳥羽氏が鳥羽・江部両庄の地頭であった。
 観応の擾乱の最中である観応二年(1351)八月四日付文書で、六角氏頼の三弟山内定詮(近江守護代)が石山寺領富波(鳥羽)庄を軍勢の宿所として兵糧米を課したため、尊氏から押妨の停止を命じられている(前田家文書)。文和三年(1354)四月八日付文書では、京極導誉が佐々木美作前司(富田秀貞)の跡地として江辺・富波の下司職を足利義詮から与えられた(佐々木文書)。しかし同三年閏十月山内定詮は再び半済をかけた(前田家文書)。六角氏は地頭として、京極氏は下司として、両者ともに権益を有することになった。定詮の没後、富波荘では孫高信が軍事行動のたびに半済をかけたため、康暦二年(1380)六月十二日、領家石山寺はその停止を幕府にもとめ、管領斯波義将は近江守護六角満高に停止を命じている(前田家文書)。これは六角氏が近江守護だったからである。しかし、それでも高信の押妨は止まらず、同年十一月十二日石山寺は再び押領を訴えている。六角氏は守護として荘園年部の半分を兵糧米として徴収できる半済の権益を有しており、高信の押領を認めていたのだろう。
 高信の近親者であろう信清はいちど富波を離れたが、翌年の永徳元年(1381)七月五日付文書によれば、信清が復帰して再び領家職半分を押領したため、管領斯波義将は守護六角満高に返還を命じた(前田家文書)。しかし押領が止まらず、十月十二日幕府は小串下総守・市太郎右衛門を検使として派遣している(前田家文書)。
 ところで、この信清のとき江辺庄内菅原神社神主は藤原清重であった。「重」の字から永原氏の一族と考えられ、また「清」の字は地頭鳥羽信清の一字書き出しであろう。鳥羽氏が江辺庄に進出していたことが分かる。
 幕府による停止命令にもかかわらず高信の押領は止まず、刃傷など狼藉に及んだ。そのため、十二月十二日管領斯波義将は京極高詮(もと六角高経)に返還を命じた(前田家文書)。これは京極氏が同庄下司だったからである。しかし六角氏一門衆である高信が、六角氏を除籍されて帰家していた京極高詮の命令に従うはずもない。
至徳四年(1387)六月十三日・明徳四年(1393)八月四日・応永二年(1395)三月十二日付文書によっても、鳥羽高信の遺族による押領は止まず、管領斯波義将は守護六角満高に石山寺への返還を命じている(前田家文書)。満高が近江守護であり、惣領だったからである。
 また『碧山日録』によると、寛正元年(1460)京極氏被官隠岐守某(守護代隠岐氏)が江辺荘を食邑にしていたという。もともと権益を有していることを考えれば、京極氏以前に江辺庄下司であった富田秀貞の子孫であろう。京極氏の代官として江辺庄にあったと考えられる。しかし文明八年(1476)七月六日慶寿院等順は、富波荘が「敵国」であることから、室町幕府に替地を要求して、若狭国藍田荘を得ている(政所賦銘引付)。このことで、六角方の押領が続いていたことが分かる。
 鳥羽氏は山内定詮の子息五郎左衛門尉詮直に始まり、五郎左衛門尉高信(詮直子)・五郎左衛門尉高頼(山内定詮孫、次郎左衛門尉義重子)と続いた(『続群書類従』巻百三十二および百三十三佐々木系図)。続群書類従巻百三十二では鳥羽高信を、氏頼の次弟愛智河直綱の子にも記しており、観応の擾乱で尊氏派の近江守護であった愛智河直綱の跡を継承していたと分かる。観応の擾乱で氏頼は出家し、次弟愛智河直綱(四郎左衛門尉)が尊氏派に、三弟山内定詮(五郎左衛門尉)が直義派になって、それぞれ近江守護に補任された。高信が祖父定詮と同じ通称五郎左衛門尉を名乗りながら、山内氏を継承しなかったのは、大伯父愛智河直綱の跡を継承したからだと分かる。
 さらに永原安芸家を六角高頼の兄高賢の子孫とする系譜伝承は、鳥羽五郎左衛門尉高頼を六角高頼と混同したとも考えられる。三宅城主永原氏系図に見られるように、系譜伝承で安芸家の通字を「高」とし、また「信」「頼」の字が系譜伝承で見られることは、鳥羽氏の高信・信清・高頼の名を連想させる。
 ところで六角氏奉行人重信は、文明七年(1475)十一月六日(野洲郡兵主神社文書)から明応七年(1498)十一月二十一日(永源寺文書)まで奉行人として活躍し、署名した奉行人奉書六通を確認できる。連署人は後藤三郎左衛門高種(兵主神社文書)や(姓欠)久継(芦浦観音寺)・久健(醍醐寺文書)・久澄(永源寺文書)、および三上越後守頼安(芦浦観音寺・永源寺文書)である。
 さらに、重信の子と推定できる重隆も、延徳元年(1489)十一月十日から明応八年(1499)九月七日まで六角氏奉行人であったことが確認でき、三通の六角氏奉行人奉書に署名している。連署人は(姓欠)久継(小佐治・長命寺文書)、久澄(永源寺文書)である。この奉行人重隆を天文期の越前守重隆と同一人物とすると年代が合わない。また花押も異なり、奉行人重隆の花押はやはり奉行人重信の花押に似ており近親者と分かる。明応七年(1498)の菅原神社本殿棟札見える越前守重秀は、その翌年まで文書を確認できる奉行人重隆は同時代人であり、すでに六角氏奉行人として活躍していた重隆が一世代上と考えられる。『永原氏由緒』で重秀の養父とされる「安芸守重賢」は重隆であろう。
 永原氏の系譜伝承では、三宅系図では安芸守実高とする人物を、永原氏由緒では安芸守実賢とするように、「高」と「賢」が混同される。重賢も重隆の可能性が高い。

永原氏系図の復元
 永原氏の系譜伝承では、永原氏を安芸家と越前家に分け、六角氏出身の安芸家を嫡流とする。永原伊豆家に伝わる『永原氏由緒』と、市三宅城主永原馬允家に伝わる三宅系図があり、『永原氏由緒』では伊豆家の飛騨介実治を安芸守実賢の養子とし、三宅系図では永原馬允家を安芸家につなげている。そこで両系図から永原氏系譜を再現してみよう。
 『永原氏由緒』で安芸(大炊)家に相当する人物は、まず安芸守重賢である。六角氏の庶子重賢は、永原越前守重行(資料上の吉重)の娘を娶り、さらに越前守重行の子重秀を養子にしたという。この安芸守重賢には山城守重時と左馬允重春らの子があった。さらに越前守重秀の嫡子筑後守重頼で、ほかに七男の安芸守頼信がある。さらに筑後守重頼の五男に大炊助重冬がある。ここから越前家の重秀を除き、年代順に人物をつなげると、安芸守重賢―山城守重時―筑後守重頼―安芸守頼信―大炊助重冬となる。
 『江源武鑑』では安芸守信頼と記していることから、単に氏重の法名頼信に由来するというだけではなく、相当する安芸守某がいたと分かる。資料の安芸守重澄であろう。
 また飛騨介実治の養父とされる安芸守実賢(三宅系図では「実高」)も官途名から安芸家の人物と考えられるが、同書では飛騨介実治の父として見えるだけである。しかし『永原軍談』は対三好入洛戦を永禄八年のこととした上で、戦死した人物を安芸守実賢と記すため、実賢は資料上の安芸守重澄と分かる。
 ところで安芸家の永原重澄の系譜上の名は頼信・信頼・実賢・実高とさまざまに伝わるが、系譜で実名が正しく伝承されないことはよくある。同じく六角氏重臣である永田刑部少輔景弘は、『寛政重修諸家譜』では「正貞」と記されている。この場合、永田刑部少輔景弘は鎌倉期の永田四郎左衛門尉貞綱の子孫であることを示しているように、系譜上の名には何かしらの意味がこめられている。安芸家の系譜上の実名も同様であり、その諱字から永原安芸家が鳥羽高信・信清・高頼の子孫と分かる。

永原氏歴代
 野洲郡における馬淵氏から永原氏への支配権力の交替は、大笹原神社の棟札で知られる。まず正和五年(1316)に屋根の上葺きをしたときの棟札が残されているほか、十一枚の棟札が残されている。現在の本殿は応永二十一年(1414)に再建されたが、そのときの棟札には「上神主馬渕殿」「神主代山川藤九郎幸久」の名を確認できる。しかし文亀元年(1501)におこなわれた本殿葺替えの願主は永原重秀であり、永正十五年(1518)には越前守重秀が幕府から所領・所職の安堵状を受けている。
 また「永原式部殿」氏重(吏部頼信善叟公)は筑前守重頼を養子に迎え、永原氏は家格を上昇させた(前筑州重頼画賛)。その子孫が永原筑前・安芸家である。
 
永原越前家の系譜
 越前家を継承した越前守重秀は、野洲郡と甲賀郡の境に小堤城を築いて居住した。小堤城は野洲・栗太両郡の中で最大の山城で、郭の配置は東山道を意識しており、六角氏の指示で築城されたものと考えられる。
重秀の子息重隆は、(大永五年)正月二十九日付永原太郎左衛門尉宛伊勢貞忠書状案(書札之御案文)から資料で確認できる。前世代の永原安芸家の人物である六角氏奉行人重隆とは別人である。このように安芸家と越前家に同名の人物がいることが、系譜の混乱につながっていると考えられる。また『永原氏由緒』に重隆が記されていないことも、安芸家と越前家の重隆が混同されていたことを示している。
 大永七年(1527)六角定頼が足利義晴の入洛に供奉したとき永原重隆(太郎左衛門)も従軍していることが、十月九日付山崎惣庄中宛永原重隆書状(離宮八幡宮文書)で分かる。また、このころ重秀から重隆に世代交代があったことは、細川高国派であった讃岐守護代香川元景(中務丞)からの(年未詳)十一月十二日付永原太郎左衛門尉宛書状写(阿波国徴古雑抄所収飯尾彦六左衛門文書)に「仍越州之御時」とあることで確認できる。
 天文九年(1540)に伊勢神宮内宮の造り替えが行われ、同十一年(1542)十二月に完成した仮殿に遷宮されたが、この造営費用七百貫文は、永原氏が支出した。永原氏が富裕であったことが確認できる。
 軍事面でも、天文八年(1539)永原越前守重隆が六角軍を率いて摂津国に出陣し、また(天文十六年)十月十一日付永原太郎左衛門尉宛細川晴元書状写(諸家文書纂)で、永原太郎左衛門尉(重興)が西京大将軍口合戦で比留田弥六の首級を挙げたことを感謝されている。弘治元年(1555)には永原越前守(重興)宛に七月三十日付松永久秀書状写(阿波国徴古雑抄所収三好松長文書)と八月二十日付安見宗房書状があり、また永原越前守入道宛に十一月七日付浅井三好長慶書状写(阿波国徴古雑抄所収三好松長文書)がある。弘治二年(1556)三月二十四日於江州永原越前守新宅張行と称して宗養紹巴永原韻があった。
 しかし永禄三年浅井長政が自立を目指した野良田の戦いでは、永原太郎左衛門が従軍しており(江濃記)、越前守重興から太郎左衛御門に家督が交代している。その翌四年(1561)三月越前守重興が没した。
 ところが同年七月に六角氏の総大将として永原安芸守重澄が軍勢一万余騎を率いて京都に出陣したが、七月十五日付永原重虎書下写(久我家文書)、七月二十七日付安芸守重澄・永原重虎連署状(禅林寺文書)、八月九日付孫次郎重虎・安芸守重澄連署状(金蓮寺文書)とあるように、太郎左衛門ではなく孫次郎重虎が従軍している。永原越前家の家督が太郎左衛門尉から孫次郎重虎に交代していた。あるいは『江濃記』でいう「永原太郎左衛門」は安芸守重澄のことかもしれない。
 同七年(1564)浅井長政が美濃斎藤竜興を攻めたときには、斎藤氏と結んで挟み撃ちすることを永原新左衛門が進言している(江濃記)。この新左衛門が孫次郎重虎と考えられ、永禄八年十二月二十八日付南千熊宛永原重虎書状もある(安土城考古博物館所蔵文書)。そのため織田信長が近江に侵攻したときの永原越前守は重虎と考えられる。
 越前守重虎および一族と思われる飛騨守・伊豆守重綱ら永原五人衆は、信長と早くから連絡を取り、越前守重虎は永禄十一年(1568)四月二十七日付永原越前守宛信長条書(護国寺文書)で、「深重に入魂の上は、向後表裏・抜公事のないこと、知行は去年与えた書付のとおり相違ないこと、進退は今後見放さないこと」が約束されている。去年の書付というのは、永禄十年(1567)稲葉山城攻略と関係があろう。『永原氏由緒』によれば永原大炊助の妻は美濃斎藤氏であり、永原氏は美濃には明るかったと考えられる。そのため信長による稲葉山城攻略に関与したのだろう。それ以来、永原氏は信長に誼を通じていたことが、信長条書で分かる。しかし『信長公記』に大炊助も越前守も登場しない。
 大炊助は、三上若宮相撲頭人記録天正六年条に「去年永原大炊介被召失付而、地下人大略牢人之条、御神事下かた諸事半分に相究候也」とあるように、天正五年(1577)に没落して、神事も縮小された。大炊助が最後の永原氏嫡流と分かる。
 実は『信長公記』には越前守に替わって「永原筑前守」が登場する。越前家と筑前家は混同され、『信長公記』に見える「永原筑前守」は「越前守」の誤記とも見られるが、一箇所の誤りではなく「筑前守」で通されており、越前守重虎ではなく、永原筑前守重康であろう。筑前守は、式部丞氏重の養子筑前守重頼(前筑州重頼画賛)に由来すると考えられる。

市三宅城主永原氏
 この市三宅城主永原氏は、永原孫太郎入道・彦太郎の跡を新左衛門入道正光と争った三宅氏の子孫であろう。『永原氏由緒』によれば、永原重賢の子左馬允重春がその三宅氏を継承して子の備後守と続き、さらに筑前守重頼の子弥左衛門久重が養子に入った(永原氏由緒)。久重の名乗りは、六角義久(江州宰相)の一字書出を給付されたものだろう。明智光秀の家老明智左馬助秀満(三宅弥平次)は、仮名に「弥」の字を使い、左馬助を名乗っており、永原庶流三宅左馬家の出身と考えられ、三宅永原氏の三宅藤右衛門が明智光秀の家臣に見える。安芸家惣領の大炊助重冬も、天正十年(1582)明智光秀の乱で観音寺・安土落城後に明智氏に属し、山崎の戦いで戦死した。
 市三宅城主永原氏系図で左馬允郷高・源八高盛らは左馬允を通称としており、この市三宅城主三宅氏の子孫と考えられる。このうち源八高盛の子右馬允郷孝は、天草島原一揆で幕府軍大将の板倉重昌を見舞い戦死したという。これは、寺沢家重臣三宅藤兵衛が討死にしたことを伝えているのかもしれない。そうであれば三宅藤兵衛は明智秀満の直系の子孫ではなく、同じく三宅永原氏の子孫であろう。
 また実名に「高」の字を使用する永原刑部大輔高照(一照)も安芸家出身と考えられるが、山内一豊が長浜城主だったときに仕えて山内家家老になり、一豊から山内姓と諱字を給わった。また一族の乾正信も山内家の重臣となり、一照の次男正行(平九郎)がその跡を継承している。通字の「正」は永原新左衛門入道正光を連想させ、また通称の「平九郎」は三宅弥平次を連想させる。三宅永原氏の一族であろう。

永原伊豆家の系譜
 越前家の庶流永原伊豆守重綱の長男実治(飛騨介)は安芸守重澄(実賢)の養子になったが(永原氏由緒)、飛騨介を名乗っていることから越前家庶流の飛騨家の世嗣であり、安芸家の猶子と考えられる。伊豆守の次男伊豆守重治(辰千代)は伊豆家を継いだが(「永原豊次家文書」所収天正十年六月二十五日付永原辰千代宛織田信孝知行宛行状)、兄実治後に安芸家を継承したと伝えられているように、越前家の人びとは安芸家の猶子になることが慣例であった。しかし実際には安芸家を継承したのではなく、伊豆守を名乗っているように、安芸家の猶子であろう。
 伊豆守重治は織田信孝・豊臣秀次と仕えて秀次事件で蟄居したが、豊臣秀頼に再仕官して大坂落城後には行方不明になっている。その嫡子小三郎重光は大坂落城後に中北村に蟄居し、子孫は世を憚り福谷氏を名乗った。実は伊豆守重治は織田信孝与力の時代に、朝倉氏旧臣赤座直保の子右京孝治を養子としていたことから、赤座直保が関が原の戦いで改易されると、孝治は永原伊豆家を再興する形で加賀藩主前田家に仕え、松任城代になっている。孝治の「孝」の字は織田信孝の一字書出だろう。

長岡藩主牧野忠成の正室永原氏
 実は長岡藩主牧野忠成の舅が永原道真の娘である。そして永田氏など六角氏旧臣が牧野家に仕えている。永原道真の特定はできないが、法名の可能性も考えて調査する必要があろう。永原越前守重興の法名が「前越州太守雲仲道芥大禅定門」(常念寺)であるように、「道」の字を法名に使用した者がいるからである。
 永原には、江戸時代前期に将軍が上洛する際のお茶屋御殿(専用宿泊所)である永原御殿があり、近江には四か所のお茶屋御殿があった。京都から東海道を経て、朝鮮人街道を北上し、彦根から中山道に入る道筋に永原御殿、伊庭御殿、柏原御殿があり、東海道には水口御殿が設けられていた。永原御殿の成り立ちは明確ではないが、慶長六年(1601)に徳川家康が江戸へ向かう途中に宿泊しているのが最初である。以降、慶長十九年(1614)までの間に家康・秀忠が七回宿泊し、元和元年(1615)と元和九年(1623)に秀忠が宿泊している。寛永十一年(1634年)の三代将軍家光の宿泊が最後となり、貞享二年(1685)に廃止された(滋賀県野洲市永原御殿跡現地説明会資料)。
 そのため徳川家と永原には交流があり、慶長八年(1603)に徳川家康より菅原神社に社領として五石寄進され、同十二年正月に三石四升三合が加増された。これは祈祷千句料として寄進されたものである。この千句料について、菅原神社では「其前永禄元年戊午正月義元公願主ニ而相勤申候、尤千句料置付田地も有之、其后芦浦観音寺殿御支配之節、格別ニ御取立、則正月十日より十三日迄御出仕被成候、其后角倉与市殿、古部文右衛門殿、石原清左衛門殿、牧野備后守殿より、巻頭の御発句斗冬之内ニ被下候、只今御支配多羅尾四郎左衛門殿え不相替御祈祷之御礼並御千句三つ物相添満座後差出申候、右御初穂金百疋ヅゝ毎年来り申候、先年角倉与市殿より者白銀三枚、其后鈴木小右衛門殿、牧野備后守殿より者銀壱枚被下候、」と伝えている。牧野忠成の一族牧野備後守の名も見える。

おわりに
 『野洲町史』は良堂正久二十五周年忌で相国寺横川景三が良堂正久を「賜藤氏」と記していること、正公文源正満丸が正久の父正光本人か近親者であることに気づかなかった自らの探究不足で、永原氏を佐々木庶流という系譜伝承を否定した上で、「沢田源内」による偽系図と断罪している。しかし安易に「沢田源内」批判することは、それ以上の探究を止めてしまう。そろそろ系図研究は、「沢田源内」から解放される必要があるだろう。

【参考文献】
橋川正編『野洲郡史』上巻、滋賀県野洲郡教育会、1927年〔復刻版、臨川書店、1998年〕。
『野洲町史』一巻通史編1、野洲町、1987年。

メールマガジン「皇帝の新しい服」見本

メルマガ「皇帝の新しい服」
~日々の生活を知的におしゃれにする教養哲学

毎月1日・15日発行
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【もくじ】
1.皇帝の新しい服
2.恋愛哲学「好き避け」予告編

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1.皇帝の新しい服

■むかしむかし、とてもオシャレな皇帝がいました。色々な
オシャレをしてきた皇帝は、もう豪華な服には飽きました。
そんな皇帝のまえに、愚か者には見えない服を仕立てるという
仕立屋が来ました。皇帝は、家臣や国民の能力を判断できるから
便利だと考えました。しかし作っているところを見ても、出来
上がりを見ても、皇帝には新しい服が見えません。このことが
明らかになったら、皇帝にはふさわしくないと思われます。

正直者の大臣にも見えませんでした。もちろん大臣も愚か者と
思われたくないので、見えないとは言いません。根がまっすぐな
役人にも見えません。見えないのに、「すばらしい服ですね」と
みんなが言いました。自分には見えないので、他人が言っている
ことにつじつまを合わせます。

だれもが最初の人に話を合わせたので、みんなの言っていること
が同じなのは当然でしたが、だれもが同じことを言っているの
だから本当に違いないと、みんな信じ込みました。こうして、
だれにも見ない服があることになりました。そして皇帝は、
新しい服のお披露目のために行列を組んでパレードをしました。
観衆は口々に「素晴らしい」「美しい」と歓声を揚げました。

■みんなが言っているから正しいわけではありません。また、
つじつまが合っているから正しいということもありません。
合理性はあくまで 後から付けた口実です。

民衆のなかの子供が「皇帝陛下が裸だ!」と叫びました。
こうして、自分以外にも新しい服が見えないことを知った観衆は
ざわめきました。自分にも見えない。そんな言葉があちらこちら
から聞こえてきました。そして、今度は皇帝が裸だということで
みんなの意見が一致したのです。自分にも服が見えない皇帝は、
とても恥じましたが、パレードを中止にはできませんでした。

■でも、皇帝はとてもおしゃれな下着を身につけていました。
皇帝が愚か者には見えない服を着ていることなど知らない子ども
たちは、皇帝の下着が新しい服だと思いました。そして、早速
皇帝の下着をまねて新しい服をつくりました。裸の皇帝が新しい
服をつくったのです。わたしは、こんな結末が好きです。

これが発想の転換です。この世にひとつの見方しかなかったら、
とてもつまらないと思いませんか。

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2.恋愛哲学予告

■好き避けからの逆転の発想
「好き避け」という言葉があります。好きだけど恥ずかしくて
避けてしまうことです。本当は好きなのに、相手の異性に冷たく
してしまうのです。

ひとの心は実は単純ではないので、好きだから近づきたいという
気持ちと、好きすぎて近づけないという二つの感情が同居しても
不自然ではありません。(続きは次回で)

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■ 発行元:佐々木哲学校 http://blog.sasakitoru.com/
佐々木哲学校は、佐々木哲(ささき・とおる)が運営する歴史や哲学
を主な内容とするブログです。著作権は佐々木哲にあります。
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メルマガ「系図学校」
~歴史学者による本格的な系図講座

毎月1日・15日発行
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【掲載予定】
1.系図の見方
2.歴史研究実況中継
3.質問箱

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1.系図の見方

先祖の名で家系を知る
~通称が資料になる

各家にはそれぞれの通称がありました。そのため通称で家が区別
されました。普段は名字を名乗らなかった農民や町民も、通称で
家を区別しました。そのため通称で家系をたどれます。

たとえば源右衛門尉であれば、源氏で右衛門尉という意味です。
新任であれば新右衛門尉であり、平氏であれば平右衛門、藤原氏
であれば藤右衛門です。また右衛門も右衛門尉を指します。明治
維新まで続いた律令の官位制度では、ひとつの官職を長官・次官
・判官・主典の四等官に分け、右衛門・兵衛・式部と官名のみで
呼ぶのは実務担当の判官です。紫式部の父親は、式部省の判官で
ある式部丞でした。そこで紫式部は、源氏物語の主人公紫の上の
〈紫〉と父の官職〈式部〉を合わせて、紫式部と呼ばれました。
(続きは1号で)

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2.歴史研究実況中継

佐々木宇津木氏
~源氏なのに平氏

室町時代の佐々木氏の動向を当時の資料で調べる中で気づいたの
が、佐々木氏が源氏であるに、通称で平氏を名乗る者がいること
です。江戸時代に塙保己一が小さな資料を収集して『群書類従』
を編集しましたが、そのなかに「永享以来御番帳」があります。

「永享以来御番帳」は室町将軍家奉公衆(直臣)の五番編成を記
述したもので、そのなかに宇多源氏の佐々木一族も見られます。
一番に佐々木大原(大原庶流白井)、佐々木宇津木、佐々木浅堀、
吉田、二番に佐々木延福寺、高島(高島庶流)、佐々木井尻、三
番に塩冶、五番に大原、三上、鏡、岩山です。

このうち佐々木宇津木氏は佐々木宇津木平次郎と名乗り、二番の
佐々木延福寺は佐々木延福寺対馬守・平四郎と名乗ります。これ
は、宇津木氏も延福寺氏ももともと平姓だったからです。また、
文永八年十一月出雲国杵築大社御三月絵相撲舞頭役結番事(千家
文書)によれば出雲井尻保地頭に宇津木十郎と記されており、
承久の乱(一二二一年)の宇治川渡河戦で活躍した宇津幾十郎が
新補地頭として出雲入りしたことが分かります。

東国御家人宇津木氏は、実は武蔵七党横山党(小野姓)の一族で
あり、宇津木三郎が源頼朝の上洛に随いました。横山党は縁戚関
係にあった和田義盛の乱で滅び、武蔵国横山庄地頭には大江広元
が補任されましたが、宇津幾十郎が承久の乱で戦功を上げます。
文永八年の記録に井尻保地頭として見える宇津木十郎は、その
直系でしょう。『吾妻鏡』によれば、承久の乱の宇治川渡河戦で
負傷した者に宇津幾平太が記されているので、和田義盛の乱後に
平姓の人物が宇津木氏を継承していたと分かります。太平記でも
正平七年閏二月十六日条に宇津木平三が見えます。さらに佐々木
氏が継承した後も、通称の「平」を使用し続けました。
(続きは1号で)

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著作権は佐々木哲にあります。
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メールマガジンの発行を予定しています。「系図学校」と「皇帝の新しい服」と「東大入試で教養」です。
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メルマガ系図学校はすでに1号を発行しましたが、皇帝の新しい服と東大入試で教養は、4月刊行予定です。

凍頂烏龍茶がいつもとちがう!日常が非日常になる瞬間

昨日は凍頂烏龍茶を自分で淹れて飲んだ。中国茶の香を楽しむ聞香杯には、しっかりと甘い香が移り、大満足だった。さらに一煎目を口に含んだところ、口いっぱいに甘い香りが広がった。味もしっかりと甘かった。いつもの凍頂烏龍茶のはずが、いつもとは異なっていた。

つい先日も、いつもの鉄観音茶がいつもとちがい、甘い花の香とすっきりした味わいだった。そして今日は凍頂烏龍茶がいつもと異なり、ことのほか花の香りと甘さが強かった。やはり、このあいだ鉄観音茶で感じた味の良さは勘違いではなさそうだ。いつもと異なることが繰り返し現れたのは、この異なりが勘違いではなく、何かに裏打ちされたものだからである。なにか真実があるはずだ。

緑茶であれば、新茶がやはり美味しいだろう。またプーアール茶のような黒茶であれば、熟成させるほど美味しいだろう。しかし半熟ほどの発酵のお茶であれば、季節によって大きく味が変わることはないと思う。実際に中国では、そのままでは飲みにくい硬水のため、水代わりにお茶を水筒に入れて持ち歩く。それほど身近なものであり、とくに旬は意識しないようだ。

だけど、ついこの間の鉄観音といい、昨日の凍頂烏龍茶といい、あきらかに香りも味もいつもとは異なっていた。もしかしたら、中国茶には旬はないというのは勝手な思い込みで、自分にとっては今が旬だと感じられる時期があるのかもしれない。いつもと異なることを敏感に感じられる自分の感覚に感謝したい。やはり理屈よりも直観が大切だと思える一日だった。

理屈は後からの理由付けであり、発見には何の役にも立たない。それに対して、直観はこれまでの経験によって裏打ちされたものであり、自分の頭の中で論理展開がなされていると思えないほど瞬間的な計算である。そのため単なる直感とも異なり、決して当てずっぽうではなく、実に緻密に計算されたもので正確だ。試験で最初に書いた解答が正解で、あとから考え直した回答が間違っているという経験は誰でもあるだろう。最初の解答は直観によるもので、跡から考え直した解答は引っ掛けに見事に引っ掛かって、迷った挙句に誤答を選んでしまうというものだ。

つぎに、なぜいつもと異なるのか、その答えを自分で見つけ出さなければならない。いつものお茶なのにいつもとちがうということを、もう少し楽しんでみよう。日常が非日常になりつつある。

近江城郭研究者からのメール

城郭研究者長谷川博美氏から興味深いメールを頂いた。長谷川氏からの謹賀新年のメールへに対する御礼のメールに、再び長谷川氏からメールを頂いた。近江(現滋賀県)の戦国大名六角氏とその筆頭家老後藤氏との関係を、城郭の石垣の配置から考察したもので、歴史学と中世考古学の共同作業への期待を高める内容になっている。近江の城郭には全国に先駆けて早い時期から石垣があり、とくに穴太積みが有名である。その石垣の積み方で城の性格や役割が分かるが、長谷川氏の報告によると、後藤氏の本城佐生城は六角氏の本城観音寺城と敵対する作りになっているという。そのことは歴史からも分かる。
 永禄十一年(1568)七月織田信長は美濃立政寺に義昭を迎え、さらに同年九月には六角承禎・義治父子を近江国から追い、足利義昭を奉じて上洛を果たした。しかしこのときの承禎・義治父子の抵抗は激しく、一般に言われるような信長の圧勝ではなかった。『言継卿記』の記述をもとに追っていくと、まず九月十日信長(織田上総介)が近江中郡(近江国の中心である東近江)に出張した。それに対して三好三人衆のひとり石成友通(主税助)も、承禎・義治父子に助勢するため近江坂本まで出張した。十一日近江で合戦があったが双方ともに被害が多く、信長は美濃に帰国し、石成友通も帰京した。それを見計らって信長は翌十二日に再び近江に出張し、こんどは六角軍の前線との正面衝突を避けて迂回し、後方の承禎・義治父子の籠る箕作城を直接攻めた。
 実は六角氏内部では、後見職六角承禎の息子義弼(義治)が筆頭家老後藤但馬守父子を謀殺したため、承禎・義弼父子と重臣たちが対立するという観音寺騒動(後藤騒動)あり、後藤・永田・進藤・永原・池田・平井・九里などは反承禎・義治父子派として行動した。このうち九里氏は、義昭の朝倉邸御成にも同行していた九里十郎左衛門尉と関係があろう。
 彼らは、湖東第一の河川である愛智川をはさんで織田軍と対峙する前線和田山城の守備から外され、後方の本城観音寺城に籠城していた。ところが観音寺城と箕作城は峰続きであるため、彼らが動かなければ箕作城は孤立する。しかも石成友通は帰京してしまった。信長は前線和田山城を避けて迂回し、味方であることが明白な本城観音寺城を見過ごして、孤立した箕作城を集中的に攻めた。箕作城の承禎・義治父子は激しく抵抗したが、敗れて甲賀に逃走した。裏をかかれた承禎・義治派の諸城も、十四日までにはすべて降伏した。信長は圧倒的な軍事力で勝利したのではなく、情報と奇策で勝利したといえる。
 これを踏まえて、以下の手紙からの引用文を読んでほしい。

【以下、引用】
…御縁があり近江源氏所縁の地で佐々木先生が講演される際にでも、例えば後藤氏の佐生城などは、本城である観音寺城に楯突く様に、石垣が普請されています。当時の軍事面において先ず、後藤氏は主に対して申し開きの出来ない城郭普請をした事になり、成敗されても仕方がない城郭工事を読み取る事ができます、永禄11年の信長上洛戦においても、石垣堅固な佐生城は何の役にもたたず、土塁作りの和田山城に六角が精兵を配置すると言うような奇妙な現象が発生しております。今後何かの機会がありましたら、コメンテイターの様な立場で参加させて頂ければ幸いであります。…

いつもの鉄観音茶がいつもとはちがう―哲学の始まり方

昨日(1月16日)、マーラーカオという中国の蒸しケーキを食べ、鉄観音茶を飲んだ。茶葉を選ばずに温茶を注文すると、いつも鉄観音が出てくるから、鉄観音の香と味は分かっている。ところが、いつもの鉄観音とちがう。凍頂烏龍茶を出しがらぎりぎりまで飲んだときに鼻と口で感じる爽やかな香りと味を感じた。しかも、花の甘い香りも感じた。だから凍頂の爽やかさだけではない。

凍頂烏龍茶は台湾の凍頂山の山腹でつくられた茶葉で、味は緑茶に近いが、加熱処理の方法が日本茶とは異なるから独特の爽やかな香りがする。そんな凍頂のような爽やかさがした。でも花の甘い香りもする。緑茶に花で甘い香りをつけたような甘い香りだ。だから一瞬ジャスミンかなとも思ったぐらいだ。でもそれほど強い香りではない。ほのかな甘さだ。少しアクセントをつけるために香りづけをしたのかなとも思えた。

店のスタッフに本当に鉄観音なのか確認した。スタッフは他の客の茶を間違って出してしまったのかと思い慌てていたが、茶葉は鉄観音らしい。これでお店は安心したのだろうが、あまり鉄観音であると強調されると、私の味覚が否定されたようで面白くはない。私はいつもと違うことを喜んで報告のつもりで言ったのだが、言わなければよかったようだ。感動が半減したが、気を取り戻そう。

それにしてもいつもの鉄観音とはちがう。私の勘違いなのだろうか。それとも、私の感覚が敏感なのだろうか。どちらにしても楽しめたのだから幸運だ。

そういえば、以前にも鉄観音茶を飲んだとき、南国の果実が熟したような鳳凰単欉(鳳凰単叢)の香りを感じたことがある。中国広東省の鳳凰山で栽培されている茶葉で、独立した1本の木から採取した葉だけで製茶することから鳳凰単欉という。しかも木が異なれば、製法も異なるため、それぞれ異なる味わいで楽しい。鉄観音で、そんな奥深い鳳凰単欉のような香りを感じ、得したと喜んだことがある。このときには店のスタッフには言っていなかった。

ときによって鳳凰単欉(鳳凰単叢)、ときによって東頂のような香りと味を楽しめるなら、鉄観音茶もばかにできない。そして、今日も鉄観音茶を飲んでみた。そしたら、いつもの鉄観音茶の味だった。なんか損した気分だ。

でも、これがいつもの鉄観音なのであって、昨日がたまたま幸運だったのだろう。私の感覚が、きっと何かを拾い上げてしまったのだと思う。いつもと違うものだから、余計に強く感じてしまったのかもしれない。

いつもと同じ事の繰り返しの中で、ときどき異なることを感じると、新鮮な驚きがある。少し得した気分にもなれ、日常の生活がちょっとした非日常空間になる。いつもとちがうと感じたら、それを理屈で封じてしまうのではなく、いつもと違うと感じた感覚を大切にした方が、生活は楽しくなる。生活が楽しくなるだけではなく、何か新発見があるかもしれない。勘違いかなとは思わずに、まずは間隔を大切にしよう。


講演会準備のお知らせ

歴史を学ぶことで、わたしたちは自らを知り、現在直面する問題の解決の糸口を発見できます。昨今の問題もその起源は歴史にあります。そこで、歴史認識の深化を身近な系譜伝承の研究から始めるため、系譜学を立ち上げます。自らの系譜伝承で新たな歴史的事実が掘り起こされれば、最新の歴史研究の成果を自分に身近なものと感じられるでしょう。そこで、講演会再開の準備を進めます。

わたしは現在、室町期の資料から佐々木一族を掘り起こす作業を進めています。佐々木大原氏に関する論考はそこから生まれたものです。さらに京都や関東を中心とした研究調査だけではなく、都道府県史や市町村史など地方史から佐々木一族を掘り起こす作業に進みます。さらに系譜学の講演会を通して系図や系譜伝承を収集できれば、地方史以上の地方史を掘り起こせるでしょう。

しかし佐々木六角氏系図や永原氏系図の論考でも明らかなように、地方史にも誤りがあります。さらに高島七頭研究でも分かるように実証歴史学にも誤りはあります。それは系譜学が学問として確立していないために、系譜伝承の分析方法が確立していないためです。

だからといって、ただちに実証歴史学を否定することはできません。一般的には新しい発想は専門家よりも素人の方あると思われがちですが、実は素人のアイデアは最先端を知らないために、古いものであることが多いのです。新しい発想は素人や専門外の見方を専門家が形にしたときに初めて可能です。

系譜伝承を歴史資料にしようという動きは、実は専門外の見方を導入するということでもあるのです。そのためにも系譜学にはそれを評価する専門家を必要とするのです。これが系譜学を立ち上げる理由です。もちろん系図伝承はそのままでは歴史資料にはなりませんが、それを解釈学的・考古学的に分析することで、そこから歴史を発掘することができます。地方史の発掘から地域振興につながることもあるでしょう。そこで、みなさんから多くの系譜伝承を教えていただきたいと思います。これが系譜学を立ち上げ、皆さんの参加を呼びかける理由です。

このような趣旨に御賛同いただける方は、メールで御連絡願います。すでに研究助成を頂いている方には、わたしからメールで御案内させていただきます。

日本未来の党分党についての哲学的メモ(改訂版)

 マスコミが、日本未来の党分党を、小澤一郎衆議院議員の処遇をめぐる嘉田由紀子元代表と国民の生活第一出身者による対立によると伝え、また嘉田元代表が未来の党を脱け、国民の生活第一出身者が未来の党を生活の党と改名して、政党助成金を受け取ることのみを伝える報道は、事実を正しく報道ではないため、公平とはいえない。
 まず、嘉田元代表は離党することで、滋賀県議会との対立を緩和できるだろう。県知事と党代表の兼務はかつての飛鳥田横浜市長が市長のまま社会党代表になったという前例がある。滋賀県知事でありながら日本未来の党代表であることを非難する滋賀県県議会では自民党が多数派のために、小澤議員がいる党の代表であることを嫌ったのだろう。よほど小沢一郎衆議院議員が恐いのだろうか。そのため嘉田滋賀県知事が未来の党を分党して、小澤議員と分かれれば、知事に対する批判はやわらぐと考えられる。また嘉田知事が脱党することで政党助成金は受け取れないが、総選挙の大敗北で生じた多額の借金からも解放されることになる。明治維新で廃藩置県が成功したのは、実は各藩が借金から解放されることを望んだからである。
 もちろん嘉田元代表と生活の党との人事をめぐる対立はあった。しかし、それは嘉田元代表が民主的な手続きもないままに、トップダウンで阿部知子衆議院議員を共同代表と決めたからである。生活出身者は旧社会党出身者でないため、社会党を離党して合流した阿部議員のトップダウンによる共同代表就任を快く思わなかったのも確かであろう。国民の生活第一出身者は、民主党のトップが民主主義的手続きをとらないままトップダウンで物事を決めて党議拘束を行なうという独裁政治的な手法に反発して民主党を離党したのだから、今回の嘉田元代表のトップダウンで決めた人事に反発したのも当然であろう。
 そのような対立にもかかわらず、年内に平和的に分党が成立したのは、滋賀県知事としての苦境と選挙大敗北による借金から嘉田元代表を解放したからである。選挙敗北の責任をとった形にもなっている。
 さらに未来の党を離党した亀井静香衆議院議員と、新党大地を離党した平山誠参議院議員がみどりの風に入党したことで、谷岡郁子参議院議員らのみどりの風が政党要件(所属議員5人以上)を満たし、政党助成金の交付を受け取れるようになった。これで、二人の前衆議院議員が離党して政党要件を満たしていなかったみどりの風は政党要件を満たせることになった。
 このように対立を解消するには、両者ともに得する方法を模索しなければならない。誰かに不満が残れば対立は底辺を流れ続け、解消したことにはならない。そして両者が得する方法とは、また両者の長所を活かすことで、多様化を守りながらも共存することである。そのことで、二つが合わさる以上の効果を産むことになる。
 もちろん多党化は脱原発の道を遠のかせることにつながるかもしれない。しかし多党化によって、それぞれの政党が個性を強く打ち出せば意見の多様化につながり、その中からすばらしい意見が生まれてくる可能性がある。少数のグループであれば意見がまとまり安いため、それぞれの政党が個性的な政策を打ち出せる可能性がある。たとえば、新党大地であれば、鈴木宗男氏がロシアに強く、ロシアの天然ガスの輸入による火力発電の強化を考えている。天然ガスによる火力発電であれば、温室効果ガスの排出は少なくなる。さらにロシアと日本がパイプラインでつながれば、ロシアの天然ガスを安く安定的に輸入することができるだろう。ロシアのプーチン大統領が北方領土について柔軟な姿勢を見せるのは日本を共同開発者・貿易相手国としてみているからである。多党化によって多様な政策が生まれることは、むしろ先例が通じない危機の時期には必要なものである。 
 無難な選択は実は無難な政策ではない。無難な選択は過去の成功例を前提にした判断であり、けっして現在の状況に即した判断ではない。むしろ何か問題が起きたならば、そこで発想の転換をする必要がある。問題が発生したということは、これまでの成功例が通じない危機的状況に陥っているということである。そして、今回の福島第一原発事故である。
 脱原発運動をもういちど大きく盛り上げるためには、脱原発による産業構造の転換で経済成長を訴える政党が必要であろう。それができるかどうかが、今後の脱原発を訴える政党には求められる。そのため、今回の日本未来の党の分党は前向きな分党と考えられる。

2012年総選挙に関する哲学的メモ(2訂)

 自民の圧勝に終わった。小選挙区制であれば、比例区27%程度の得票率でも圧勝できることを示した選挙であったが、自民党が勝利した理由はそれだけではない。
 自民党が勝利したのは、その内部が多様だったからである。自民党の候補者が、福島では脱原発を訴え、沖縄では米軍基地の県外移設を訴え、また農村部では反TPPを訴えたが、これを二枚舌と批判することは必ずしもできない。なぜなら自民党はそのような多様性を許す文化を持っているからである。小泉純一郎内閣の郵政選挙では、郵政民営化に反対する議員を追い出したが、次の安倍晋三内閣では復党を許した。自民党は本来多くの支持団体を有しており、それぞれの団体の利害は必ずしも一致しない。経団連はTPP賛成だが、JAはTPPに反対である。それにもかかわらず、両者ともに自民党を支持した。そのため、自民党政権はそれら団体の利害を調整しなければならないため、極端な政策は打ち出さないという安心感が自民党にはある。それが、今回の総選挙でも自民党を有利にした。しかし規模が大きく内部に多様な小集団がある場合、意思の統一は難しく、大きな変化は難しい。自民党が改憲論や国防軍案など右傾化したのは、野党に下って一時的に小集団になったからである。そのため再び大集団と成った今の自民党では、極端な政策は取れないだろう。すくなくとも改憲論議や対外的強攻策は、しばらく封印するだろう。それらに期待していた有権者は失望するかもしれないが、安定を求める有権者は安心するだろう。
 それに対して民主党はどうであったろう。陸山会事件で小澤一郎に嫌疑がかけられると、小澤一郎を座敷牢に押し込めた。消費税増税法案では、増税に反対した議員を処罰して、結果として党を割った。自民党でも消費税増税に反対する議員がいたが軽い処分であり、党を割るほどのものではなかった。反対した議員を追放することは、彼らを支持する有権者を追放するということでもある。しかも小澤一郎の無罪は確定した。民主党は、社会主義者の内ゲバをひろく国民に見せつけるに終わった。郵政民営化に反対した者を復党させた自民党の度量が、今の民主党にあるだろうか。多くの民主党議員が反対していたにもかかわらず解散を決めた執行部が、落選議員に対して「自己責任」と言い放ったのを見ると、度量はなさそうである。二大政党制を目指すならば、むしろ党内は多様でなければならない。アメリカの二大政党制では、議員個人が是々非々で法案に賛成か反対かを決めており、実は党議拘束がない。与党は野党の議員を説得するのは当然のことなのである。しかも賛成にまわった野党議員は処罰されない。十分な党内議論もないままに党議拘束を各議員に押し付けることは、独裁政治以外の何者でもない。党議拘束をかけるのであれば、党内での十分な議論を経なければならない。民主党は内部の多様化を目指す必要があろう。その民主党の試金石として、首相指名で海江田民主党新党首に投票した未来の党を受け容れられるだろうか。その覚悟があれば再び二大政党の一翼となれるだろうが、皮肉にも国民を裏切った旧執行部が当選して残っている現状では難しいだろう。
 また維新の会が民主党に迫る議席を獲得した。テレビの露出の多さと、何か面白いことをしてくれるのではないかという期待感からであろう。前回の選挙で民主党を支持した浮動票のうち新しさを求める有権者が、維新の会を支持したといえる。しかし当初目指していた議席数から見ると、けっして躍進とはいえず、むしろ敗退といえる。それは、政策が大きく左右に揺れたことで、政策重視の有権者から不信感を買ったためだろう。維新の会はなにか新しいことしてくれるだろうという期待感を維持する維持する必要があるが、そのためには意思の統一と行動力が容易な小集団がいいだろう。今のままであれば、大集団にはなれない。とくに旧太陽の党に要職の多くを明け渡し乗っ取られている状態であり、「地域主権」から「極右」というレッテルが貼られてしまった。橋下徹大阪市長の支持者や、「極右」を好まない人びとは離れるだろう。
 みんなの党が議席数を倍増させたのは、景気対策に期待した有権者がいたからである。みんなの党は、単なる消費税増税反対ではなく、デフレ下での消費税増税に反対したことも好印象を与えただろう。今回の選挙で国民が求めたものは、そのデフレからの脱却であった。実は福島の原発事故があったにもかかわらず、原発再稼動を認める人びとがいるのは、原発停止が経済に足かせになると不安視するからである。そのような有権者によって、みんなの党は一定の評価を得たといえる。では、みんなの党が大きくなるかというと、「小さな政府」を目指す市場主義が好きな人びと受けはするが、専門的な小集団というのが適正な規模だろう。
 このように見てくると、未来の党が議席を大きく減らした理由が見えてくる。未来の党は、国民の生活が第一、減税日本、反TPPなど国民生活を守るための経済政策を打ち出してきた党が合流したにもかかわらず、卒原発のみを主張する政党と見られてしまった。国民の生活を守るための経済政策を有していたにもかかわらず、消費税増税反対票も反TPP票も取り込めなかった。
 もちろん卒原発も有効な経済政策である。経済成長を維持するには、必ず産業構造の展開が必要であり、その可能性が卒原発によって産業構造の変化を促すことがでるからである。今の日本が経済成長できない理由は、変化を恐れて無難な判断をするからである。しかし刻々と状況が変化する中では、無難がもっとも危険な選択である。成功例はあくまで過去には適していたものであって、現在には適していない。日本企業が大きく成長できないのは、過去の成功例に縛られているからである。無難な選択しかできない企業は価格競争するほかにはないが、価格競争では韓国・中国の企業に敗北するのは当然である。卒原発は産業構造を大きく変え、日本経済を成長させる大きな景気になるだろう。それが主張できなければ、卒原発は景気対策と対立する政策と見なされてしまう。
 また未来の党が子供手当てを政策に加えたことも、票を伸ばせない理由であった。日本の所得再分配が高齢者に偏り、子育てには分配されていないのは確かである。ヨーロッパでの子供手当ての成功や、子供手当てで経済成長したブラジルを見れば、子供手当てが有効な経済政策であることは理解できる。ましてや、すでに超高齢社会になっている日本では、子育て世代を支援して少子化を食い止める必要がある。しかし低所得の若者たちは、結婚できるかどうかも分からないまま、自分たちが支払う税金から子供手当てが支給されることに不満を持っている。将来ではなく、現前の生活がまず重要なのである。やはり、子供手当てが経済政策であることを十分に主張できなかったために、財源が問題視されてしまったのである。
 社民党と共産党は、すでに社会主義や共産主義の時代が終わっていることを自覚して、プライドは捨てるべきだろう。いくら歴史の古さを主張しても過去の遺物と見られるだけである。社会主義は、すでに第一次世界大戦直後のワイマール憲法に社会権として取り入れられ、アメリカのニューディール政策以後の大きな政府にも取り入れられ、日本国憲法にも第25条生存権(日本の衆議院で追加)にも取り入れられている。さら農地改革はまさに社会主義革命であり、それによって皮肉にも農村部は保守基盤になった。その後も、日本では保守である自民によって社会主義的な政策は次つぎと打ち出されていた。むしろ現在の若い世代が、社会主義や共産主義から連想するのは中国や北朝鮮であり、しかも彼らは嫌中・嫌朝・嫌韓である。けっしてネット右翼だけではない。普通の若い世代が嫌中・嫌朝・嫌韓である。これでは社民党も共産党も票を伸ばせない。これまで共産党は全選挙区に候補者を出すことで非自民票を割り、結果として自民の長期政権を許していた。さらに共産党は権力から弾圧されてきた歴史を持ちながら、小澤一郎の陸山会事件では検察の主張を鵜呑みにした。その二重基準(ダブルスタンダード)に疑問を持つ有権者もいた。しかし今回の総選挙で自公民維を避けるために小選挙区では共産党に投票した有権者がいたことでも分かるように、今後は小異を捨てて大義で二大政党制を目指すべきだろう。
 実際、今回の選挙で脱原発を明確に打ち出した政党が議席を伸ばせなかったのは、脱原発派どうしで批判しあったからである。最初から完璧な政策を打ち出すことは不可能である。まず政策を打ち出し、それを実行するなかで修正していけばいい。このとき脱原発派のなかで意見を出し合い議論するのである。現実世界と認識世界では、私たちが認識している世界の方が小さい。現実世界はわれわれの想像を超えており、最初から完璧なものを頭の中でつくろうとしても、必ず漏れている現実がある。それを行動する中で修正していくのである。これはヘーゲル弁証法を実践的にしたアメリカ式の行動主義(プラグマティズム)である。まずは脱原発派の議員を国会に送らなければ、何も実現できない。偽善者を偽善者と批判するのは容易だ。しかし議論だけして何もしない者は、偽善者よりもさらに質(たち)が悪い。しかも、偽善者と思っている者は、実は偽善者ではないかもしれない。批判するだけで行動しない者は愚か者でしかない。
 もし三党合意による消費税増税法案可決当初のように、消費税増税法案反対で非自公民勢力が組み続けていれば、今回の選挙結果も大きく異なっていただろう。その点で今回の解散の時機は、非自民を分裂させるのに絶妙な時機あった。もし夏に解散していれば、反消費税増税を訴える非自公民が勝利した可能性がある。またもっと遅ければ、非自公民がまとまっていた可能性がある。

佐々木大原氏系譜(2訂)

佐々木大原氏の歴史は、近江守護佐々木信綱(近江守)の庶長子重綱に始まる。重綱は承久の乱では父信綱に従い、宇治川の先陣を徒歩で駆けて戦功を上げた。そののち左衛門尉に補任されて将軍藤原頼経の近臣となり、有力御家人として幕府の諸行事にも参列した。近江守信綱の長男である左衛門尉という意味で、近江太郎左衛門尉と名乗っている。ところが遺産相続では、太郎重綱(大原氏祖)・次郎高信(高島氏祖)の外祖父川崎為重(中山五郎)が比企能員の乱で滅亡していたため、北条義時を外祖父とする三郎泰綱(六角氏祖)・四郎氏信(京極氏祖)が遺領のほとんどを継ぎ、重綱は所領を与えられずに出家した。しかし寛元元年(一二四三)重綱は幕府に弟泰綱を訴え、泰綱から坂田郡大原荘を獲得し、ここに佐々木大原氏が始まる。
 重綱の長男長綱も幕府に出仕し、『吾妻鏡』では近江左衛門太郎と呼ばれている。近江左衛門太郎は、近江守の子である左衛門尉を近江左衛門尉と呼び、さらにその長男は太郎をつけて「近江左衛門太郎」と呼ばれた。しかし沙沙貴神社所蔵佐々木系図では、長綱が不孝であったため家督を継承できなかったと伝えている。
 大原氏の家督を継承したのは三男頼重(三郎左衛門尉)である。しかし頼重には男子が無く、五男時綱(佐々木又源太)を女婿に迎えた。又源太という時綱の仮名は、源太(源氏の長男)の源太(長男)という意味であり、五男でありながら兄の養子になって家督となったことを意味している。時綱は、六角宗信が供奉した弘安九年(1286)の春日行幸で、右衛門尉として供奉している。こののち時綱は左衛門尉・検非違使を経て対馬守に補任されて受領となっており、検非違使判官・受領となった時綱によって大原氏は有力御家人の仲間入りを果たした。官職は幕府評定衆を勤めた京極氏信と並んでいる。
 重綱の女子は二人で、一人はいとこの京極範綱(右衛門尉)に嫁いだ。範綱は評定衆京極氏信の次男だが早世している。そのためか京極氏家督は四郎宗綱が継いだ。もう一人は隠岐流佐々木義泰(富田左衛門尉・肥後守)に嫁いでいる。義泰は六波羅評定衆佐々木泰清の四男である。義泰の子息佐渡守師泰(佐々木佐渡入道如覚)は建武新政権で雑訴決断所三番(東山道)寄人に列している(『雑訴決断所結番交名建武元年八月』続群書類従三十一輯下)。このように佐々木氏では庶子家も有力御家人となっており、しかも有力庶子家どうしで閨閥を築いていた。
 対馬守時綱の子息時重は、左衛門尉・検非違使を経て備中守に補任されて受領になった。これ以後、大原氏は大夫判官と備中守を世襲官途として、官職は惣領六角氏と並んだ。時重は得宗北条貞時の十三回忌に、佐々木氏の有力庶子家京極氏や隠岐氏とともに有力御家人として列している。さらに元弘の変で、時重(佐々木備中前司)は幕府軍の主力の一人として京都に上っている(『光明寺残篇』十月十五日条)。一宮を預かった六角時信は「佐々木大夫判官」と記されており(同八月二十七日・二十八日・十月九日条)、佐々木備中前司は備中守時重と分かる。しかし時重はのち官軍に転じたのだろう。建武新政権では武者所の一員に選ばれている。やはり有力な武士であった。また高師直の窪所ではなく、新田義貞の武者所に配属されており、当初は新田氏に近かったことが分かる。
 時綱の女子は二人あって、一人は盛綱流佐々木氏の加地筑前五郎左衛門尉に嫁いでいる。加地筑前守の五男で左衛門尉の者という意味であり、加地筑前守長綱の五男宗長と考えられる。『尊卑分脈』では「加地筑後五郎左衛門尉」としているが、佐々木加地氏で筑後守を受領した者は確認できず、沙沙貴神社本にもあるように、筑後は筑前の誤りと考えられる。時綱のもう一人の娘は、六波羅評定衆長井茂重(丹後守)の子孫長井丹後左衛門大夫に嫁いでいる。建武の新政のとき六角時信とともに元弘三年・建武元年雑訴決断所に列した六波羅評定衆長井宗衡(丹後前司)であろう。丹後守の子息で五位(大夫)の左衛門尉の者を意味する長井丹後左衛門大夫は、まさに長井宗衡に相当する。大原氏が六波羅評定衆と婚姻関係を結んでいたことが確認できる。
 このように鎌倉期の大原氏は、京極氏や隠岐氏、加地氏など有力な佐々木一族と重縁関係を結んで一族の結束を固めるとともに、六波羅評定衆であった有力在京人長井氏と閨閥を形成していた。姻戚関係から大原氏の地位が理解できる。
 建武三年(1336)正月二十八日付朽木義氏軍忠状(朽木428)により、佐々木出羽四郎義氏が京都法勝寺・三条河原両度の戦いに参陣し、さらに摂津兵庫島まで赴いていることが知られるが、京都攻防戦では両侍所佐々木備中守仲親・三浦因幡守貞連が首実検をおこなっている(『梅松論』)。この京都攻防戦は激戦で、三浦貞連は同月二十七日に上杉憲房らとともに戦死した。仲親は備中守受領と諱字「親」から、佐々木大原時親の兄弟と推定できるが、『尊卑分脈』など系図類では確認できない。時親の十数年前に備中守を受領していることから、時親以前の大原氏家督と考えられる。諱字の「仲」は、六波羅探題北方北条仲時の一字書出であろう。
 ところで寛政重修諸家譜の朽木系図では義信の本名を「時綱」とするが、建武元年(1334)賀茂社行幸供奉足利尊氏隋兵交名(朽木641)の「佐々木備中前司時綱」は、元弘の変で鎌倉幕府軍に見える佐々木備中前司のことだろう。当時佐々木備中守と呼ばれるのは、佐々木氏惣領六角氏と佐々木大原氏だが、六角時信は佐々木判官と名乗るため、佐々木備中前司は大原氏である。国立国会図書館所蔵文書所収「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」(『神奈川県史』資料編3古代・中世3231号)によれば、建武二年八月十八日相模川合戦で佐々木壱岐五郎左衛門尉が討死し、さらに佐々木備中前司父子が十九日辻堂・片瀬原合戦で戦傷を負っている。この備中守前司父子は時重・仲親父子であり、この戦傷がもとで大原氏家督が仲親から時親に移ったと考えられる。
 時親は、『園太暦』貞和五年(1349)三月二十五日条「除目」に「備中守源時親」と見え、大原時親が仲親の後に大原氏家督になり、備中守を受領したことが確認できる。
 この時親の次世代には義信と親胤がある。大原氏の惣領は義信で、次男親胤が白井氏の祖となる。義信の事跡を資料で追うのは難しいが、義信の子に当たる高信の名乗りが「佐々木備中六郎」である。備中守の子息の六郎という意味なので、高信の父が備中守と推測できる。時親と高信の間には一世代あると考えられるので、系図の通り義信は備中守を受領していたのだろう。
 高信は『花営三代記』康暦二年(1380)八月二十五日条「右大将家拝賀散状并路次儀(康暦元七廿五)」の記事の中で、帯刀の一番左右を京極佐々木佐渡五郎左衛門尉(満秀)とともに勤めている。このとき満秀の兄高経(のち高詮)は六角氏猶子であり、満秀が京極氏家督の地位にある。大原高信はそれと並んで帯刀一番を勤めており、大原氏は国持ではないが本来は外様の格式であったと考えられる。
 高信(佐々木大原六郎左衛門尉)は、やはり「さかゆく花」(『後鑑』所収)の永徳元年(1381)三月の後円融院花御所行幸の記事でも、佐々木五郎左衛門尉(満秀)とともに帯刀十番を勤めている。
 しかし家督を継承したのは満信である。満信は相国寺供養記で帯刀に「佐々木大原五郎左衛門尉満信、佐々木大原六郎右衛門尉源高信」とあり、高信がともに列している。大原観音寺文書には、大原満信の文書として、明徳五年(1394)六月十七日付大原満信為貞名領家米寄進状、応永二年(1395)七月二十五日付大原満信段銭免除下知状、応永三年五月十三日付大原満信観音寺法輪院村居田野畠寄進状、そして応永七年八月二十二日付大原満信置文がある。『良賢真人記』に応永十九年(1412)八月十五日条の「石清水八幡宮放生会」の記事に、足利義持参向に供奉した帯刀として、「佐々木黒田備前守高宗、佐々木黒田九郎左衛門尉高清、佐々木鞍智四郎左衛門尉高信、佐々木岩山美濃守秀定、佐々木近江守満信、佐々木越中四郎左衛門尉高泰、佐々木治部少輔満秀、佐々木加賀守高数」と佐々木一族があり、このときまでに満信が近江守を受領していたことが確認できる。
 近江守満信の後に資料に見える大原氏家督は、系図で満信の孫とされる五郎左衛門尉持綱である。持綱(法名源秀)は、永享元年(1429)の足利義教の元服を記した普広院殿御元服記(群書類従)に、「次御後官人 佐々木大原五郎左衛門尉持綱(今度下検非違使口宣歟)」とあり、翌二年七月二十五日足利義教の右近衛大将御拝賀式でも「御後官人、佐々木大原五郎右衛門尉持綱と見える(『後鏡』記載「大将御拝賀記」)。大将拝賀記の「右衛門尉」は左衛門尉の誤りと考えられる。また御元服記に「今度検非違使の口宣下るか」と注記されているが、大将拝賀式のときまだ検非違使に補任されていない。
 永享四年(1432)十一月に持時と満幸の連署による大原観音寺山林竹木伐採禁制の状があり、大原氏家督のものと推定される花押が袖判として添えてある。『大原観音寺文書』の翻刻に付された注釈では持綱の父持信の花押とされるが、一般的に知られる持綱の花押と異なることからの推定であり、慎重に判断する必要があろう。
 永享五年(1433)三月二十九日大夫判官持□が同寺領法輪田にかかる段銭二十貫文を寄進している。一字欠けているが、これは持綱であろう。また大夫判官とあるので、このときまでに判官に補任され、五位にも叙爵されていることが分かる。六位相当の官職から叙爵された場合は、五位相当の官にうつるため、六位相当の検非違使判官のまま五位に叙爵されることは叙留と称され名誉であり、とくに大夫判官と呼ばれた。
 永享八年十一月二十五日の若公御着袴にも持綱は列しており、「慈照院殿御袴着記」(後鏡所収)で「御供人数、佐々木、小原」と記されている。このように見てくると、永享以来御番帳に「一番 大原備中入道」「五番 佐々木備中判官、佐々木越前守」とある五番衆の備中判官が持綱と分かる。備中守の子息で検非違使判官という意味である。これで父持信を備中守であったと確認できる。佐々木越前守は大原観音寺文書に見える越前守信業だろう。
 『東寺執行日記』永享六年(1434)十月十三日条に「東坂本陣開引、御勢は山名、六角、京極、スギ、甲斐、西坂本ハ畠山、細川讃岐、赤松、小原、重中、山法師引之」とあり、大原氏(「小原」)が六角・京極両氏とともに出陣していた。相当の軍事力を有していたことが分かる。
 永享十年(1438)足利義教の中原康富『石清水放生会記』に帯刀として「佐々木大原備中守持綱、佐々木大原近江守信成」が見える。持綱が備中守を受領しており、大原氏の世襲官途は系譜にあるように左衛門尉、検非違使判官、大夫判官、備中守と確認できる。また、こんどは越前守信業にかわって近江守信成が、持綱とともに番衆に列している。信成については、大原観音寺文書で永享十一年(1439)六月二十五日付大原信成千部経田注文を確認でき、持綱の祖父満信と同じく近江守を受領していることから、信成が家督の近親者と分かる。持綱と兄弟であろう。
 さらに『経覚私要抄』宝徳元年(1449)八月二十八日条の足利義成初参内記事の帯刀交名に「…佐々木黒田兵庫助清高、同黒田掃部助信秀、佐々木大原越前守信業、同大原新次郎持頼、佐々木加賀守教久、同治部少輔秀直、」とあり、持綱の名はなく、佐々木大原氏では越前守信業と新次郎持頼が記されている。同じ宝徳年間の大原観音寺文書所収の宝徳四年(1452)三月二日付対馬守信長・越前守信業連署観音寺一山会合定書でも「越前守信業」と署名する。また越前守信業と列する佐々木大原新次郎持頼は、このときまだ任官していない。備中守持綱の弟あるいは子息の世代であろう。越前守信業が持頼の後見人であったと考えられる。
 文安年中御番記に「一番 佐々木大原備中守、在国衆 佐々木大原民部少輔」「五番 大原備中守」とある。この五番衆大原備中守も持綱であり、一番衆の佐々木大原備中守は大原氏の有力庶子白井氏と考えられる。白井氏も備中守を受領して「佐々木大原備中守」と称されるので大原氏惣領と混同されやすいが、白井氏は左馬助・民部丞(六位相当)の功績で備中守を受領するので、かろうじて区別できる。同じ佐々木大原備中守でも、判官とある場合は大原氏惣領で、左馬・民部とある場合は白井氏である。このうち民部省は戸籍と徴税を担当するため、詔勅を作成する中務省、文官の人事を担当する式部省についで格式が高く、民部丞(民部省の三等官)のまま五位に叙爵されることがあり、民部大夫といった。佐々木大原民部少輔(正五位下相当)は「在国」とあるので、子息備中守に家督を譲って在国している隠居のことだろう。それに対して大原氏は検非違使の判官を世襲官途にしている。
 大原観音寺文書には、享徳三年(1454)八月二十二日に持綱より同寺領田敷二町五段山林等のこと当知行に任せるという安堵状があり、まだ持綱の活動が確認できる。
 ところで「松田家記」(『後鑑』所収)長禄二年七月二十五日条に義政任内大臣饗宴の記事があり、御後官人に「佐々木大原五郎左衛門尉持綱」と見える。持綱はすでに備中守を受領しており、持綱とは考えにくい。
 『蔭凉軒日録』長禄三年(1459)十二月五日条に勝定院御仏事銭」の記事があり、「佐々木備中入道」が十貫文を納めている。この備中入道が大原持綱であろう。
 そして『碧山日録』寛正三年(1462)正月二十七日条に「佺子之亡父、前廷尉大原氏秀公」「佺之兄、今廷尉某」とあり、持綱が没したこと、そして持綱(法名源秀)の子が判官であったことが確認できる。宝徳元年(1449)の足利義成初参内記事の帯刀交名の「新次郎持頼」と同一人物かどうかは不明だが、長禄二年(1459)足利義政任内大臣饗宴の「佐々木大原五郎左衛門尉」は判官の口宣を下されたうえで後官人を勤めており、持綱の子判官と同一人物と分かる。系図で「成信」と記される人物である。
 『碧山日録』記主大極は、翌二月一日相国寺僧の質問に答えて自ら「大原譜諜」を述べており、大原氏と親しかったことも分かる。実際に、寛正四年(1463)正月二十九日条で「明日乃余亡友太原某諱辰也、其子判官某為斎僧之供」とあるように、大原持綱を友と述べている。そのため外様衆佐々木岩山氏出身の大極は、俗人として幕府奉公衆を勤めた後に出家した可能性がある。それが『碧山日録』に大極の俗子が登場する理由であろう。諱字には俗子らは「信」の字を使用しており、大極は鞍智駿河守高信の子と推測できる。
 『親基日記』文正元年(1466)三月十七日条の参宮の記事で、御台御供衆のひとりに佐々木大原判官を見ることができる。実名は記されていないものの、やはり持綱の子息判官であろう。
 応仁の乱では細川勝元に弾劾されて禁門を追い出された十二人衆に佐々木大原判官が見えるが(応仁記)。大原判官は御台日野富子の御供衆であり、義尚に将軍を継がせたい御台の意向を受けて西軍に参加したとも、同じ坂田郡に所領をもつ京極氏に対抗して西軍に参加したとも考えられる。
 さらに文明年間には大原判官の子息を確認できる。文明十四年(1482)九月十六日付で重満より仏田安堵の状がある。「観音寺仏田之事、如先規不可有相違由、竹熊殿様被仰付候」とあり、竹熊殿様が大原氏の当主と分かる。しばらく大原氏当主に「重」の字を使用する者がいないにもかかわらず、重満は大原氏の通字のひとつ「重」の字を使用しているので、大原氏の一族で竹熊殿様の後見人と推定できる。同十六年十二月二十七日に夫役免除の状に政重と署名する人物が竹熊殿様だろう。これで政重の幼名が竹熊と分かる。
 ところで常徳院御動座当時在陣衆着到に「一番衆 江州佐々木大原備中守、佐々木大原左馬介尚親」「五番 佐々木大原大夫判官」とある。一番衆の佐々木大原備中守と左馬介尚親は、宮内庁書陵部所蔵中御門本『宣秀卿宣下案』でそれぞれ備中守・左馬助への任官が確認できる元親・尚親であり、大原氏の有力庶子白井氏である。元親は群書類従本佐々木系図には見えないが、左馬助持泰と左馬助尚親の間の世代であろう。
 五番衆の大原氏は佐々木大原大夫判官とあるので、検非違使判官を世襲官途とした大原氏惣領である。このときまでに、政重は大夫判官に補任されていたことが分かる。
 享禄三年(1530)十二月二十日付けで「毎年正月十八日節之事」で本尊への寄進状を京極高慶が発給している。一時的に京極高慶が大原氏の名跡を継承していたことが分かる。東軍の京極氏により大原氏の名跡が奪われていたのかもしれない。『江北記』にある「大原五郎」は高慶のことだろう。しかし、その後六角高頼の三男高保(高盛)が継承して、六角方になる。天文八年(1539)七月七日付で水原氏家(橘左衛門尉)が観音寺長日之護摩料二石を寄進しているが、大原高保の家老であろう。

宇多源氏の近江進出と秀郷流藤原氏―蒲生氏の源流【改訂2版】

摂関家と秀郷流藤原氏
 藤原道長の日記『御堂関白記』寛弘三年(1006)六月十六日条に、秀郷流藤原氏文行(秀郷の曾孫)と伊勢平氏正輔(平貞盛の孫)の闘争事件が記されている。左衛門尉文行は検非違使別当藤原斉信の召しによって法住寺に参仕していたが、帯刀正輔に打擲された。難を逃れようと文行は寺から逃走したが、このとき検非違使に射返してしまった。文行は道長に保護を求めて土御門邸に逃げ込んだ。しかし検非違使に弓を引くのは重罪であり、身柄は引き渡された。ところが本来は縄で縛られて徒歩で連行されるところを、とくに衣冠を身に着けて馬に乗ったまま検非違使庁に入るのを許されている。これで文行も面子を保てた。十八日には明法道の官人たちに罪名を勘申させ、二十二日には検非違使に抵抗したのは人臣として礼がないとして官職は解かれたが、身柄は解放された。二十七日には斉信は検非違使別当の辞表を受理されている。斉信はここ何年か辞表を出し続けていたが受理されず、今回の件を機にようやくと受理されている。
 また同五年(1008)正月四日条には、弟兼光(前鎮守府将軍)が道長に馬五疋を献上した記事がある。頼通(春宮権大夫)と教通にも一疋ずつ献上している。
 甥頼行(兼光の子)も武者として道長に仕えていたようである。前年の同四年(1007)閏五月十七日条に、藤原道長の金峰山詣のための長斎の記事がある。このとき道長に従って精進所(室町の源高雅宅)に籠もった人びとの中に文行の甥頼行の名が見える。
 さらに頼行は道長の子藤原能信(近江権守)に仕えていた。『小右記』長和三年(1014)十二月二十五日条には、右近衛将監藤原頼行が、三位中将能信の従者を射殺した事件が記されている。頼行が近江国で悪行を企てたため、能信が心配した。そこで前若狭守道成が能信の雑人を差し向け、頼行を召還しようとしたところ、山科で合戦になり雑人を射殺してしまい、検非違使の追捕を受けることになった。しかし藤原行成が述べるには、近江守(道長の家司藤原惟憲)が追捕の中止を申請したという。理由は、これ以上の近江の混乱を避けるためである。これで秀郷流藤原氏が近江に居住し、しかも相当の勢力を有していたと分かる。これがまた数々の闘争の理由でもあろう。
 道長と対抗した小野宮右大臣実資の日記『小右記』万寿元年(1024)三月二十八日条に、鎮守府将軍頼行の口入れで、下道久頼が鎮守府の軍監になったことが見える。頼行は右近衛将監であった当時、右近衛大将であった右大臣藤原実資と私的な関係をもったのだろう。頼行は、実資の孫藤原資平の日記『春記』長久二年(1041)三月十三日条にも「前将軍頼行子行善」と見え、頼行の子藤原行善が文章生の試験を受けたことが記されている。頼行・行善父子が小野宮流藤原氏に近づいたことが分かる。

源経頼と佐藤公行
 『小右記』万寿四年(1027)二月二十七日条に、昨日のこととして、宇多源氏左中弁経頼が近江志賀郡の崇福寺参りの帰りに、逢坂関山で群盗に襲撃され、前佐渡守公行朝臣が射られたが命に別状はなかった。経頼は藤原道長の正室源倫子の甥だが、矢を射られたのは経頼ではなく、随行していた秀郷流藤原氏公行であった。公行は文行の子であり、はじめから公行を狙っていたものと考えられる。
 ところで公行は前佐渡守だが、佐渡国が疫鬼を放逐する北方の境とされている(『延喜式』)。酒呑童子退治の源頼光や鵺退治の源頼政のように、鬼退治の呪力を有する存在と考えられていた軍事貴族が、国司を勤めるのにふさわしい国といえる。そういえば、佐々木導誉(京極高氏)も検非違使の功で佐渡守に補任され、その家系は佐渡守を世襲官途として佐々木佐渡家を立てている。
 参議源経頼の日記『左経記』長元四年(1031)六月二十七日条によれば、公行は欠員となっていた相模守の申文を提出していたが、除目では六位史(姓欠)光貴が昨年とどめられていた史巡(六位史の功績)で補任された。経頼は、光貴の補任を故実にかなっていると認めながらも、公行の佐渡守の事績を高く評価しており、平忠常の乱で衰亡した当時の相模を再建するには公行が適任であると憤っている。たしかに国司の初任者には、平忠常の乱直後の東国国司は重すぎるであろう。しかしまた経頼が公行と親しいことも分かる。公行は、経頼が寛仁二年(1018)から治安元年(1021)頃までの近江守在任のとき郎等になったのだろう。さらに参議右大弁経頼は長元四年(1031)から同七年(1034)頃まで近江権守を兼任している。この記事の当時経頼は近江権守であった。三上山のムカデ退治という俵藤太秀郷の伝承は、秀郷流藤原氏と近江の関係の深さを物語っていよう。
 この公行の玄孫公俊が、経頼の兄成頼(四位中将)の曾孫検非違使為俊の養子になっている。宇多源氏と秀郷流藤原氏の関係の深さが分かる。そのことは、公行の甥高年が検非違使に追捕されたときも、経頼の従兄弟済政が保護していることで分かる。
 『小右記』長元元年(1028)九月八日条によれば、去春、筑前国高田牧の雑物が運上されたが、物流の拠点摂津国河尻(淀川)で前備後守義通の郎等らが牧司藤原為時一行を襲撃し、物品を奪い取り、牧の下人ひとりを射殺するという事件があった。実資は高田牧を領有し、そこから唐物を運ばせており、その牧司一行が襲撃されたのであり、実資には重大事件であった。牧司藤原為時は紫式部の父越後前司為時であろうか。そうであれば漢文の才を評価されて、最晩年ではあるが牧司になったのだろう。この翌年に為時は没した。
 張本四人は行方をくらましたが、そのひとりが藤原高年であった。高年は字を小藤太といい、近江国甲賀郡に住み、時々京の近辺に来ては悪行を犯しては、最上の馬を盗んでいたという。同郷の頼経に命じて探索させたところ、昨夕に報告があり、三条の前佐渡守公行宅に入ったという。高年は公行の姪(甥)だという。高年は捕えられ、一昨日馬を盗まれた者に見せたところ本人だという。また牧司為時にみせたところ本人だという。実資は感慨無量と喜んだ。
 しかし同月十七日条によれば、検非違使別当経通が来て言うには、高年への拷問はできないとのこと女院(上東門院彰子)の仰せがあった。実資は驚きのあまり謀略ではないかと記している。しかし、これは天下治乱のためだという。高年はすでに宇多源氏済政朝臣に引き渡され、済政に名籍が提出されたという。娘からは拷問をしないように申し入れがあり、口入れはできなかった。こうして高年は源済政の郎等になった。実は済政は源経頼の後任の近江守で治安二年(1022)頃から長元二年(1029)頃まで近江守であり、この記事の当時は近江守に在職していた。
 上東門院彰子(一条天皇中宮)は藤原道長の長女で、母は宇多源氏左大臣雅信女倫子であり、源経頼や源済政は従兄弟であった。万寿三年(1026)に落飾して、東三条院の先例にならって女院号を賜っていた。
 やはり道長の外戚宇多源氏と佐藤一族の関係は深い。近江守に補任された宇多源氏は、近江に勢力を張り天下治乱のもととまでいわれた秀郷流藤原氏を郎等にしながら、近江に進出していったと考えられる。これが近江源氏佐々木氏の源流である。
 また高年の名は『尊卑分脈』には見えないが、公行の兄弟脩行は近江に留住して近江掾となり、近藤氏の祖となっている。秀郷流藤原氏を名乗る蒲生氏は近江国蒲生郡から甲賀郡にかけて勢力を張っており、また蒲生氏が平安末期から鎌倉期に「俊」の字を通字とすることから、この高年の子孫と考えられる。そうであれば古代豪族蒲生忌寸の子孫とは決め付けられない。むしろ佐々木氏との関係を見ると、秀郷流藤原氏の可能性が高い。
 蒲生氏の娘が佐々木定綱の側室になっていることでも、秀郷流藤原氏を名乗る蒲生氏が早い時期から宇多源氏の郎等であったことが分かる。

【参考文献】
野口実『伝説の将軍藤原秀郷』吉川弘文館、2001年。
河添房江『光源氏が愛した王朝ブランド品』角川選書、2008年。

新人物文庫『戦国大名と政略結婚』発刊!

歴史読本『戦国大名血脈系譜総覧』(2009年4月号)の文庫本版の見本が届きました。書名は『戦国大名と政略結婚』(新人物文庫、2012年10月)です。戦国大名が勢力拡大させたのは合戦だけではありません。本書では平和的政策としての政略結婚に注目しながら、戦国大名の系譜を記述しています。有名大名24家の略系図も付いています。わたしが執筆担当したのは「六角氏」です。定価は733円+税です。
【もくじ】
巻頭史論 戦国女性の姓・苗字・名
第1章東北~関東~甲信越編
 南部氏
 最上氏
 伊達氏
 佐竹氏
 北条氏
 上杉氏
 武田氏
 真田氏
第2章中部~近畿編
 松平氏
 今川氏
 織田氏
 斎藤氏
 豊臣氏
 六角氏
 浅井氏
 朝倉氏
第3章中国~四国~九州編
 宇喜多氏
 尼子氏
 毛利氏
 長宗我部氏
 竜造寺氏
 大友氏
 有馬氏
 島津氏


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文庫版『戦国大名血脈系譜総覧』10月発刊予定!!

六角氏の系譜
六角氏は宇多源氏佐々木氏の嫡流で、鎌倉期から戦国期まで一貫して近江守護であった。このように鎌倉期から守護を維持しえたのは、畿内近国では六角氏のみである。しかも経済の先進地域である近江は一国で地方の数か国に相当した。
室町期には三代将軍足利義満の弟満高を養子に迎え、また六代将軍足利義教の比叡山焼討ちで満綱が山門領押使をつとめ、嘉吉の土一揆(嘉吉元年〈一四四一〉)では黒幕であった。文安の乱(文安二年〈一四四五〉)では満綱・持綱父子が自殺して衰退し同族京極氏の介入を招くが、応仁・文明の乱(応仁元~文明九年〈一四六七~七七〉)で高頼が活躍して再び盛り返した。足利義尚・義稙二代の将軍親征を受けたが(長享・延徳の乱〈長享元年・延徳三年/一四八七・九一〉)十一代将軍足利義澄に赦免されると室町幕府の保護者に転じている。
六角氏嫡流である本所は中央と結び、①氏綱は足利義澄妹を妻に迎え、また摂関家と閨閥を形成し、②義久(系図では義実)は天皇家典侍を妻に迎え天皇家と私的な関係を築いた。以後、六角氏嫡子の初名は公家様であった。足利将軍家が分裂しており、天皇を調停者に考えたのだろう。さらに③義秀は十二代将軍足利義晴娘を迎え、娘は宇多源氏流の公家庭田重定に嫁いでいる。庭田家は天皇家典侍を輩出し、本願寺顕如の母の実家でもあった。これで天皇家や本願寺との連携が取れた。しかし織田信長が登場すると、④近江修理大夫は十五代将軍足利義昭の仲介で信長養女を迎え、義昭と信長の両者から協力を求められた。本所は両者の間で揺れることになる。
一方、陣代は在国政権として周辺諸大名と閨閥を築いている。定頼は細川晴元に娘を嫁がせ、さらに本願寺顕如に養女を嫁がせて同盟を結んだ。一向一揆に苦しむ諸大名は六角氏との婚姻を介して本願寺と結び、①定頼の娘は細川晴元・本願寺顕如のほか、伊勢北畠晴具・美濃土岐頼芸・若狭武田信豊に嫁いだ。また②義賢(のち承禎)は能登畠山義総娘、美濃土岐頼芸妹を妻に迎え、娘は北畠朝親(具親)、能登畠山義綱に嫁いでいる。さらに越前朝倉義景も六角氏出身と伝えられる。このように六角氏は北陸諸大名の盟主となり、本所は北陸道管領と呼ばれたという。さらに③義治は美濃斎藤義龍娘を迎えた。父義賢は重縁土岐氏の宿敵斎藤氏娘を迎えることに反対したが、自立を目指した浅井長政を抑えるのに成功している。これら諸大名との同盟が足利義昭を擁立する勢力になり、織田信長包囲網にもなった。

幕府・摂関家へ接近する氏綱
六角氏は鎌倉公方との関係が深く、氏綱の母は古河公方足利成氏娘であった。さらに明応の政変(明応二年〈一四九三〉)で堀越公方足利政知の子息義澄は、将軍に推されると六角氏を赦免し、駿河今川氏に養育されていた妹を上洛させ、氏綱に嫁がせた。これで六角氏は幕府の保護者に転じ、前将軍義稙が上洛を目指すと阻止している。
その後、氏綱は義澄・義稙両者から協力を求められ、敗北した義澄は保護を求めて近江に逃れ岡山城で病没し、義稙も氏綱に協力を求めて氏綱嫡子の義久を猶子にし、高頼・氏綱没後には義久(佐々木四郎)を近江守護に補任している。幼少の義久は、陣代定頼が後見した。
 氏綱は摂関家とも閨閥を形成して、上洛したときに近衛政家・尚通父子を訪問しているほか、女子を二条晴良に嫁がせた。伏見宮王女を養女にしたものだろうか。もうひとりの女子は、京極材宗に嫁ぎ、近江北郡守護の京極氏の内紛に介入した。材宗は本名が経秀であるため、佐々木系図では「高秀」と記され、その子が京極高吉(高慶・高佳)である。高吉は六角氏から一門衆「五郎殿」と遇され、反抗し続ける同族京極高広(六郎)を非難している。京極氏対策は成功している。

義久、将軍家から天皇家に
義久(四郎・隆頼・宗能)の母は足利政知娘で、妻は後奈良天皇典侍である。足利義澄の子十二代将軍義晴が成長すると近江に保護し、細川晴元と和睦して定頼の娘と婚約させ、義晴の帰京に成功した。義久(四郎殿様)は義晴の上洛に供奉し、のち江州宰相と呼ばれている。さらに義久は恵林院殿十三回忌法事を主催して義稙の後継者であると宣伝し、義稙養子の阿波公方義維・義親(義栄)父子を牽制することで、足利義晴政権を支援した。
六角氏が京都で活動している間、『お湯殿の上の日記』に「亀寿」の記事が頻出する。亀寿(のち義秀)の元服で、典侍が天皇家に音物を献上しており、亀寿の母が、天皇家典侍であると分かる。当時、内侍所長官の尚侍は空席で、次官の典侍が天皇の后妃候補者であり、宇多源氏流庭田家、勧修寺流勧修寺・万里小路家、日野流広橋家など羽林・名家の女性が典侍となった。義久は典侍を妻としたことで天皇家と身内になり、嫡子亀寿は硯蓋・近江瓜・花・饅頭・柿・下草など日常生活の必需品を献上している。初名も公家様であった。

義秀に近づく信長
義秀(四郎・公能・徳川)の母は典侍であり、元服では、母の典侍が天皇家に御礼している。公家式の元服と考えられる。正妻には足利義晴娘を迎え、また続群書類従本伊勢系図では十三代将軍足利義輝の妾と男子を給わるという。足利将軍家とも私的に結びついていた。
群書類従本『万松院殿穴太記』は、天皇家内侍所の原本を二条晴良が書写したものであり、原本は義秀が献上したものだろう。子息亀千代の髪置でも、音物を天皇家に献上している。
六角氏は足利義輝と三好長慶を和睦させ、帰洛した義輝は義久への贈官を申請している。さらに六角氏は河内畠山氏と連携して三好包囲網を築いた。しかし浅井長政の自立で後方を撹乱され、三好氏に止めを刺せなかった。さらに陣代義治が後藤但馬守父子を殺害する観音寺騒動(永禄六年〈一五六三〉)が起こると、三好・松永氏によって将軍義輝が殺害された。弟の一乗院覚慶(義昭)は奈良脱出に成功し、六角氏は覚慶を近江に保護して還俗させたが、承禎父子が三好三人衆と結んだため、義昭は若狭・越前へと移った。越前朝倉邸御成では、六角氏綱の次男仁木義政が朝倉義景とともに出迎え、六角氏被官山内・九里両氏が警固した。また義昭は六角氏閨閥の前関白二条晴良の加冠で公家式の元服を行い四位に叙位され、五位の十四代将軍足利義栄を超えた。織田信長が美濃を攻略すると、義昭は信長を頼っている。信長軍は近江愛智川で六角主力軍に敗退したが、承禎と結ぶ三好三人衆軍が帰京すると近江に引き返し(言継卿記)、和田山城・観音寺城の六角主力軍を避けて箕作城を攻め、承禎父子を甲賀に追った。

強まる義康と将軍家の結びつき
義秀が没すると、織田信長書状の宛先に近江修理大夫が登場する(士林證文)。家老は、元亀元年(一五七〇)正月、畿内近国の諸大名に上洛を催促した織田信長触状の宛先、木村筑後守であろう。義秀が没したことを、信長は「言語道断」と述べて六角承禎父子の帰国を警戒したが(和田文書)、信長の朝倉義景追討で元亀争乱が始まると、実際に承禎父子は浅井長政を誘い挙兵した。修理大夫は信長と行動しており、信長養女を妻とした人物は修理大夫だろう。岩倉・犬山織田氏が六角氏と親しく、信長養女は「犬山之伊勢守息女」と考えられる。
また六角義郷(左兵衛佐氏郷)は信長に焼き討ちにされた延暦寺を自領近江蒲生郡に再興し、佐左馬(仁木義政)は朝倉義景と連動して挙兵した(尊経閣文庫)。
武田信玄の病没で第一次信長包囲網は崩壊し、足利義昭は京都を追放され、朝倉・浅井氏は滅亡したが、今度は六角義堯が登場する。
義堯は承禎を使者として甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を実現させた。さらに足利義昭の誘いには躊躇していた毛利輝元も、義堯の誘いには応じ、足利義昭の備後下向を実現させた。第二次信長包囲網の形成である。義昭と義堯は、承禎から「上意并大本所」と称され(坂内文書)、天正六年(一五七八)正月には、義堯は阿波・淡路の兵を従えて堺に上陸した(談山文書)。天正十年(一五八二)に甲斐武田勝頼が滅亡すると、佐々木次郎・若狭武田五郎・岩倉織田・犬山織田・土岐頼芸ら六角氏の縁者が捕らわれた。
しかし『天王寺屋会記』天正八年二月二十二日条に「佐々木殿」が見え、信長方に六角氏を確認できる。
近江修理大夫の嫡子と考えられる義康は、明智光秀の乱後に足利義昭の養子になり、小田原の陣での茶会では「近江六角殿」に足利義昭の側近真木島昭光が近侍している。義康は妻に織田信長孫娘を迎えたが、この女性は足利義昭邸に迎えられた「信長ヒソウ虎福女」と考えられる。

逆転のファッション男性編・シャツとインナー

シャツにはインナーの色や柄が映えやすい。だから、シャツにインナーの色柄が映えないようにするのが一般的だ。しかし、白いインナーだとかえってインナーのラインが見えて、ツキノワグマになってしまう。隠そうとして、かえって表に出る。これでは隠すという目的を達成できていない。隠す意味がなくなる。だからシャツの中にインナーを着ないという人もいる。しかし汗でべっとりしてしまっては、ツキノワグマ以上に見苦しい。

今では男性用のインナーでも汗・臭い防止機能のついたインナーも出ており、インナーを着ていた方がさわやかだ。しかも、冷房がかかっている場所でも冷えすぎない。そこでわたしは逆転の発想で、インナーの色・柄をわざと透かしている。襟と袖口の白いクレリックの薄いピンクのシャツの下に、ピンクと白のボーダー(横縞模様)のインナーを着ると、インナーが透けているのに、それがシャツの柄のように見える。しかも、それでネクタイもしている。ボタンホールやステッチが赤いシャツが多いので、ネクタイは赤・ピンク系のボーダーや小花柄が多い。

Tシャツはもともと下着であったが、今ではカジュアルな場面では表着になっている。そのためTシャツのデザインも、シャツに下に着ることを前提にデザインされていない。だから、シャツに映えてしまうのはお洒落にならない。シャツの柄のように見えるデザインや色のものを選ばなければならない。それでわたしは薄いピンクのシャツの下に、やはり淡いピンクと白のボーダーのインナーを着ている。またピンクは肌に近い色なので、インナーとしてはとても優れた色である。ピンク男子は女性からのウケもいい。

女性は重ね着をしてインナーを透かせる。わたしもそれがヒントになった。女性が白いブラウスでインナーを透かしているのはキレイだ。男性も行き過ぎなければ、わざと薄い色のシャツの下に色や柄のあるインナーを着て透かせることはできる。女性のインナーは透かせることが前提になっているので、わたしは女性物と共布になっているワコール系のLunchでインナーを買っている。わたしがよく利用している店舗は、Lunchルミネ立川店。とくにサラ男のシリーズが気に入っている。透かせることを前提とした色・柄が多く、シャツに映えても感じがいい。

これからは秋冬物で上着を着るから、いきなりシャツにインナーを透けさせるのに抵抗のある人でも、試しにできるだろう。透ける程度は、プリント柄の生地を裏返しにした程度がいい。上着を脱いだときに、シャツの柄なのかインナーが透けているのか分からない程度に透けていたらお洒落だろう。

初心者には極薄ピンクのシャツにピンクのインナーがおすすめだ。ピンクのボーダー、ピンクのチェック、ピンクの千鳥格子、ピンクの水玉、ピンクの小花柄なら自然にまとまるし、ピンク男子というだけで女子ウケはいいので失敗は少ない。

自立した政治家を育てるのは、自立した国民

 わたしが小沢一郎氏に興味を持ったのは、陸山会事件で検察が偽の口述調書を作ったのを知ってからだ。実は私の母は飲酒運転による交通事故に遭った。相手に誠意がなく民事裁判にまでなった。裁判後に口述調書を見て驚いたことに署名したものと内容が変わっていたのである。内容も短くなっていた。調書は警察の取調官が口述をもとに筆記していく。本人が書くのではないため、途中を書き換えることもできる。信号をめぐり争っていたが、一方的な目撃証人しか立てられなかった。そのうち一人は供述を変えようかともちかけてもきた。相手の加害者が地元の大企業の社員だったからこうなったのだろうか。口述調書が書き換えられることは陸山会事件だけではない。自分たちの身近なところでも起こる問題である。これで、一方的に小沢氏を批判する報道に疑問をもち、何が起きているのか情報を集めるようになった。
 実はわたしは政治的立場を表明はできない。そのため政治に関する記事は時期が来れば削除する。それにもかかわらず小沢氏の問題に興味を持つ理由である。

 ところで小沢一郎氏ら消費税増税反対・原発再稼動反対で離党した49人衆参院議員の処分が除籍と決まった。これで、49人には一人当たり約500万円の政党助成金が出ないことになった。それでも決意の変わらない彼/彼女らは潔い。また支持団体の連合の支持も得られなくなったため、事務所スタッフが辞めた議員もいるようだ。このような逆境のなか、初め52人が離党届を小沢一郎氏に預けていたが、3人の男性議員が離党を撤回した。ひとつの傾向として、女性議員の方が潔いようだ。
 この潔さはけっして「ひよこ」ではない。彼女たちが強い信念で動いていることが分かる。しかも口先だけではない。個々の課題のほかに反原発運動にも積極的に参加している。小沢氏がかかわると何でも辛口になる論評は「一年生」「ひよこ」と蔑むが、彼女たちは行動的であり、国民の声に貪欲である。けっして小沢氏に盲従しているのではない。彼女たちへの質問は「小沢氏に付いていくのか」というものばかりで、「小沢氏に盲従している」というイメージを作り上げたくて質問しているようだ。
 わたしたちは情報手段の発達で、個々の議員の活動を知ることができるようになった。Twitterで生の声が聴けるようになった。ひいきの政治家を国民が育てる時代になったのではないだろうか。今回民主党を離党した議員だけではなく、ひいきを見つけたら個人献金で支えるのも政治に参加するということだろう。私たち国民の1000円からのカンパで、自立した政治家を育てられよう。そうすれば、日本の政治も国民の声を聴くようになろう。
 そういえば、フランス革命でもロシア革命でも女性のデモが大きなきっかけになった。日本でも初の本格的政党内閣である原敬内閣は、「越中女房一揆」とも呼ばれる米騒動をきっかけに誕生した。何か一大事をしようとするなら、女性を味方にすると心強いことが確認できた。
 報道では除籍で政党助成金が出ないと報じていていたのは、離党組を揺さぶるためだったのだろう。しかし、これで小沢一郎氏がお金に汚くないことが逆に証明されてしまった。物事は多面的であり、意図した結果にはつねに意図しない結果がついて回るものである。